Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

バルテュス展

2014年05月02日 | 美術
 バルテュス展。今年前半で一番楽しみにしていた展覧会だ。さっそく見に行った。楽しかった。突飛な言い方かもしれないが、モーツァルトの音楽を聴くような楽しさがあった。もちろん、バルテュスがモーツァルトを好きだったという予備知識があるから、そう感じたのだろう。でも、それだけではなく、モーツァルトのように輪郭のはっきりした感性と、モーツァルトのように生き生きした精神の活動を感じたからだ。

 といっても、バルテュス=モーツァルトではない。バルテュスの危険な少女たちは、モーツァルトとは異質の要素だ。行儀の悪い、挑発的な少女たちは、目のやり場に困るが、その危うさが面白いことも事実だ。

 バルテュス(1908‐2001)は、20世紀のさまざまなイズム――シュールレアリスムとか抽象画とか――とは無関係に生きた。好きなものを好きなように描いた。バルテュスが特異な存在である所以だ。そういう生き方ができたのは、バルテュスが貴族の血を引いているからだと思う。バルテュスはパリで生まれたが、ポーランド貴族の血統だ。そういう貴族の血を感じる。

 個々の作品では、バルテュスの代表作の一つ「夢見るテレーゼ」(1938)が圧倒的だ。画集では馴染みの作品だが、実際に見ると、バルテュスの力が漲っている。長椅子に立てた少女の左ひざが、こちらに向かって迫ってくるようだ。緊張感のある画面。若き日のバルテュスの力量が一気にピークに達した観がある。

 「美しい日々」(1944‐46)も圧倒的だ。向かって左上から右下への対角線の構図。伝統的なヴィーナス像だが、危険な少女のヴィーナスだ。そこには「夢見るテレーゼ」の緊張感よりも、むしろ熟れた官能性が感じられる。

 もう一つ、「白い部屋着の少女」(1955)にも惹かれた。少女だが、堂々とした貴婦人のような威厳がある。少女はミューズだった。その崇拝にも似た感情が表れている。一方、作品の絵肌は、前記の2作とはちがって、ちょっとザラザラしている。これは、これ以降目立ってくるカゼインとテンペラを使ったフレスコ画のような絵肌と、まっすぐつながっている。

 バルテュスは同時代のだれとも似ていない。でも、あえて同時代人を見てみると、画家ではフランシス・ベーコン(1909‐1992)、作曲家ではオリビエ・メシアン(1908‐1992)がいる。三者三様の独自の道を歩んだ人たちだ。
(2014.4.28.東京都美術館)

↓上記の各作品は、本展のHPでご覧になれます。
http://balthus2014.jp/works
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