新国立劇場がフィンランド国立歌劇場のプロダクションで上演している今回のリングは、「ラインの黄金」が低調な出来で興味をそがれたが、「ヴァルキューレ」で持ち直し、「ジークフリート」で調子が出てきた感じだ。
まず歌手の力量が圧倒的だ。タイトルロールのステファン・グールドは、最後までパワーが衰えず、驚異的だった。さすらい人(ヴォータン)のグリア・グリムスレイは、朗々とした声を響かせ、同役が絶対的な存在であることを示した。ミーメのアンドレアス・コンラッドは、細かい音符の連続が小気味よく決まった。エルダのクリスタ・マイヤーは深々とした声に存在感があった。ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートも及第点だった。
要するに世界的に見ても最高水準の歌手が揃っていた。これらの歌手が手を抜かずに、真摯に歌ったので、声楽面の水準はまれに見る高さに昇りつめた。
なお、演出上のアイディアだろうが、‘森の小鳥’を4人の歌手が歌った。4人が同時に歌うのではなく、そのパートを4つに区切って、4人の歌手が順番に歌う趣向だ。4人はそれぞれ、黄、白、赤、緑の衣装をつけ、視覚的にもカラフルで楽しく、さらにダンサーが一人加わったので(青の衣装)、合計5羽の小鳥たちが舞台を彩った。
ゲッツ・フリードリヒの演出は、「ラインの黄金」よりも「ヴァルキューレ」、「ヴァルキューレ」よりも「ジークフリート」という具合に、徐々にその関与が感じられるようになった。とくに印象に残ったのは、最後のジークフリートとブリュンヒルデとの2重唱だ。2人の(延々と続く)感情の揺れが、じっくり、綿密に辿られていた。
当演出への不満ではないのだが、わたしはいつか、この場面で、最後に愛を歌い上げるジークフリートと、じつは神々の黄昏を歌い上げているブリュンヒルデとの、そのすれ違いを表現する演出を見てみたいと思う。2人が交互に歌い交わしている間は、微妙にすれ違っているのであり、最後の最後で「愛」と「死」が重なり合うのだから。
当プロダクションで重要な意味を持つ舞台美術は、今回も好調だ。美術・衣装は今回もシンプルかつストレートでインパクトが強く、また照明は想像を超えて美しかった。
飯守泰次郎指揮東響の演奏は、第1幕の最後でジークフリートがノートゥングを鍛造する場面では響きが平板になり、先を危惧したが、あとは問題を感じなかった。
(2017.6.1.新国立劇場)
まず歌手の力量が圧倒的だ。タイトルロールのステファン・グールドは、最後までパワーが衰えず、驚異的だった。さすらい人(ヴォータン)のグリア・グリムスレイは、朗々とした声を響かせ、同役が絶対的な存在であることを示した。ミーメのアンドレアス・コンラッドは、細かい音符の連続が小気味よく決まった。エルダのクリスタ・マイヤーは深々とした声に存在感があった。ブリュンヒルデのリカルダ・メルベートも及第点だった。
要するに世界的に見ても最高水準の歌手が揃っていた。これらの歌手が手を抜かずに、真摯に歌ったので、声楽面の水準はまれに見る高さに昇りつめた。
なお、演出上のアイディアだろうが、‘森の小鳥’を4人の歌手が歌った。4人が同時に歌うのではなく、そのパートを4つに区切って、4人の歌手が順番に歌う趣向だ。4人はそれぞれ、黄、白、赤、緑の衣装をつけ、視覚的にもカラフルで楽しく、さらにダンサーが一人加わったので(青の衣装)、合計5羽の小鳥たちが舞台を彩った。
ゲッツ・フリードリヒの演出は、「ラインの黄金」よりも「ヴァルキューレ」、「ヴァルキューレ」よりも「ジークフリート」という具合に、徐々にその関与が感じられるようになった。とくに印象に残ったのは、最後のジークフリートとブリュンヒルデとの2重唱だ。2人の(延々と続く)感情の揺れが、じっくり、綿密に辿られていた。
当演出への不満ではないのだが、わたしはいつか、この場面で、最後に愛を歌い上げるジークフリートと、じつは神々の黄昏を歌い上げているブリュンヒルデとの、そのすれ違いを表現する演出を見てみたいと思う。2人が交互に歌い交わしている間は、微妙にすれ違っているのであり、最後の最後で「愛」と「死」が重なり合うのだから。
当プロダクションで重要な意味を持つ舞台美術は、今回も好調だ。美術・衣装は今回もシンプルかつストレートでインパクトが強く、また照明は想像を超えて美しかった。
飯守泰次郎指揮東響の演奏は、第1幕の最後でジークフリートがノートゥングを鍛造する場面では響きが平板になり、先を危惧したが、あとは問題を感じなかった。
(2017.6.1.新国立劇場)