ビェロフラーヴェクの訃報に接し、驚くばかりだ。享年71歳と聞くと、それなりの年齢かとも思うが、その音楽の清新さや、指揮者としてはまだこれからの年齢であることを思うと、やはり突然という感を否めない。ご冥福を祈るばかりだ。
ビェロフラーヴェクは日本フィルの1974年の春のシーズンに初登場した。当時は一人の指揮者が連続して2か月分の定期を振ることがあり、ビェロフラーヴェクも5月と6月だったか(当時の記録がないので、確かめられないが)、2度の定期を振った。メインのプロは、初回がブラームスの交響曲第1番、2度目がドヴォルザークの交響曲第8番だったと記憶する。その他、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」も入っていた。
わたしはドヴォルザークの交響曲第8番に鮮やかな印象を受けた。まだ大学生だったわたしは、翌日大学に行っても、頭の中はその演奏が鳴りっぱなしだった。今でもその感覚が残っている。
わたしはそのシーズンから日本フィルの定期会員になっていた。アルバイトで稼いだお金で一番安い席を買った。大学生の分際で贅沢だとは思ったが、音楽への情熱を抑えることができなかった。日本フィルを選んだ理由はいくつかあった。今それを詳述しても仕方ないので控えるが、ともかく分裂直後だった日本フィルを選んだ。
ビェロフラーヴェクの名はまったく知らなかった。おそらく当時はほとんど無名だったろう。その少し前に、苦境に陥った日本フィルをチェコの名匠スメターチェクが振り、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で名演を残したことが報道された。そのスメターチェクがビェロフラーヴェクを推薦したという話があった。
以後、ビェロフラーヴェクは日本フィルを定期的に振るようになった。わたしは中でもマルティヌーの交響曲第6番「交響的幻想曲」に感銘を受けた。そのときの演奏の様子は今でも目蓋に焼き付いている。
ビェロフラーヴェクはチェコ国内でも重要ポストを歴任したが、むしろイギリスのBBC響の首席指揮者で成功した。チェコの音楽家のイギリスでの成功というパターンが、ドヴォルザークに重なって見えた。
ビェロフラーヴェクは1974年の初登場のときから、清新な感性と伸びやかな音楽性で際立っていた。それらの特徴は晩年になっても変わらなかった。巨匠的な懐の深い演奏をする中でも、常にそれらの特徴が感じられた。いつまでも心に残る指揮者だと思う。
ビェロフラーヴェクは日本フィルの1974年の春のシーズンに初登場した。当時は一人の指揮者が連続して2か月分の定期を振ることがあり、ビェロフラーヴェクも5月と6月だったか(当時の記録がないので、確かめられないが)、2度の定期を振った。メインのプロは、初回がブラームスの交響曲第1番、2度目がドヴォルザークの交響曲第8番だったと記憶する。その他、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」も入っていた。
わたしはドヴォルザークの交響曲第8番に鮮やかな印象を受けた。まだ大学生だったわたしは、翌日大学に行っても、頭の中はその演奏が鳴りっぱなしだった。今でもその感覚が残っている。
わたしはそのシーズンから日本フィルの定期会員になっていた。アルバイトで稼いだお金で一番安い席を買った。大学生の分際で贅沢だとは思ったが、音楽への情熱を抑えることができなかった。日本フィルを選んだ理由はいくつかあった。今それを詳述しても仕方ないので控えるが、ともかく分裂直後だった日本フィルを選んだ。
ビェロフラーヴェクの名はまったく知らなかった。おそらく当時はほとんど無名だったろう。その少し前に、苦境に陥った日本フィルをチェコの名匠スメターチェクが振り、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で名演を残したことが報道された。そのスメターチェクがビェロフラーヴェクを推薦したという話があった。
以後、ビェロフラーヴェクは日本フィルを定期的に振るようになった。わたしは中でもマルティヌーの交響曲第6番「交響的幻想曲」に感銘を受けた。そのときの演奏の様子は今でも目蓋に焼き付いている。
ビェロフラーヴェクはチェコ国内でも重要ポストを歴任したが、むしろイギリスのBBC響の首席指揮者で成功した。チェコの音楽家のイギリスでの成功というパターンが、ドヴォルザークに重なって見えた。
ビェロフラーヴェクは1974年の初登場のときから、清新な感性と伸びやかな音楽性で際立っていた。それらの特徴は晩年になっても変わらなかった。巨匠的な懐の深い演奏をする中でも、常にそれらの特徴が感じられた。いつまでも心に残る指揮者だと思う。