アドルフ・ヴェルフリは1864年にスイスのベルン近郊で生まれた。子供の頃は貧しく悲惨な生活を送った。罪を犯して1890年から2年間服役し、1895年からは精神病院に収容された。以後1930年に亡くなるまで、その精神病院で過ごした。
あるとき、紙と鉛筆を与えられると、絵を描き始めた。それはものすごい勢いだった。鉛筆は1週間ともたなかった。本展には当時の作品も来ているが(たとえば1904年の「リーゼリ〔リーゼちゃん〕・ビエリ!死」)、わたしは一目それを見るなり、美しいと思った。繊細なグラフィックな美しさがあった。洗練された技術さえ感じた。
やがて色鉛筆を与えられると、その作品には色彩が氾濫した。たとえば1911年の「ネゲルハル〔黒人の響き〕」は、明るく喜びに満ちた色彩が溢れている。構成も複雑になっている。さらに注目すべき点として、楽譜が登場する。楽譜はグラフィックな意匠のようにも見える。だが、その後の作品を見ると、ヴェルフリは作曲をしていたことが分かる。
楽譜は、五線譜ではなく、六線譜で書かれている。歴史的には、楽譜は、五線譜で統一される前は、六線譜も使われていたので、ヴェルフリはどこかで六線譜を見たのかもしれない。小節線がないが、それもヴェルフリが見た(おそらくは古い教会音楽か何かの)譜面がそうだったのではないだろうか。
では、ヴェルフリが作曲した音楽とは、どんな音楽だったのか。紙のトランペットを持つヴェルフリの写真が2点展示されていた。そのときどんな音楽が演奏されたのだろう。録音や、採譜された譜面が残っていないのが残念だ。
ヴェルフリはアール・ブリュット(日本語では「生の芸術」、英語では「アウトサイダー・アート」)の先駆的な画家だが、一方では現代音楽の作曲家たちを刺激し続ける存在でもある。
ヴォルフガング・リーム(1952‐)は「ヴェルフリ歌曲集」を、ゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)は室内オペラ「アドルフ・ヴェルフリ」を、またテリー・ライリー(1935‐)は室内オペラ「聖アドルフ・リング」を書いた。
NMLにデンマークの作曲家のペア・ノアゴー(1932‐)の(ヴェルフリにまつわる)室内オペラ「神々しいチボリ」(この訳語には再検討の余地があると思う)と交響曲第4番が入っている。わたしは交響曲第4番が美しいと思った。
(2017.6.6.東京ステーションギャラリー)
(※)本展のHP
あるとき、紙と鉛筆を与えられると、絵を描き始めた。それはものすごい勢いだった。鉛筆は1週間ともたなかった。本展には当時の作品も来ているが(たとえば1904年の「リーゼリ〔リーゼちゃん〕・ビエリ!死」)、わたしは一目それを見るなり、美しいと思った。繊細なグラフィックな美しさがあった。洗練された技術さえ感じた。
やがて色鉛筆を与えられると、その作品には色彩が氾濫した。たとえば1911年の「ネゲルハル〔黒人の響き〕」は、明るく喜びに満ちた色彩が溢れている。構成も複雑になっている。さらに注目すべき点として、楽譜が登場する。楽譜はグラフィックな意匠のようにも見える。だが、その後の作品を見ると、ヴェルフリは作曲をしていたことが分かる。
楽譜は、五線譜ではなく、六線譜で書かれている。歴史的には、楽譜は、五線譜で統一される前は、六線譜も使われていたので、ヴェルフリはどこかで六線譜を見たのかもしれない。小節線がないが、それもヴェルフリが見た(おそらくは古い教会音楽か何かの)譜面がそうだったのではないだろうか。
では、ヴェルフリが作曲した音楽とは、どんな音楽だったのか。紙のトランペットを持つヴェルフリの写真が2点展示されていた。そのときどんな音楽が演奏されたのだろう。録音や、採譜された譜面が残っていないのが残念だ。
ヴェルフリはアール・ブリュット(日本語では「生の芸術」、英語では「アウトサイダー・アート」)の先駆的な画家だが、一方では現代音楽の作曲家たちを刺激し続ける存在でもある。
ヴォルフガング・リーム(1952‐)は「ヴェルフリ歌曲集」を、ゲオルク・フリードリヒ・ハース(1953‐)は室内オペラ「アドルフ・ヴェルフリ」を、またテリー・ライリー(1935‐)は室内オペラ「聖アドルフ・リング」を書いた。
NMLにデンマークの作曲家のペア・ノアゴー(1932‐)の(ヴェルフリにまつわる)室内オペラ「神々しいチボリ」(この訳語には再検討の余地があると思う)と交響曲第4番が入っている。わたしは交響曲第4番が美しいと思った。
(2017.6.6.東京ステーションギャラリー)
(※)本展のHP