Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

佐多稲子「私の長崎地図」

2017年12月26日 | 読書
 先月、わずか一泊だったが、長崎を訪れた。博多からの列車が遅れたため、長崎に着いたのはお昼近く。その日の午後から市内を回り、翌日の午後に飛行機で帰京した。長崎で過ごした時間は正味一日だったが、今まで訪れたことのなかった所を見て歩くことができた。

 そんな慌しい日程だったが、長崎県美術館に行って、ゆったりした時間を過ごすことができた。静かで贅沢な時間だった。企画展もやっていたが、初めての美術館だったので、常設展だけ見た。充実した展示内容で、わたしに触れてくるいくつかのポイントがあった。中でも池野清(1914‐1960)という未知の画家の「樹骨」(1960)と「木立」(同)に惹かれた。

 それらの2作は池野清の遺作。池野清は当地の画家で、原爆投下直後に爆心地付近に入り、友人らの捜索に当たった。戦後は原爆の後遺症に悩まされ、1960年に亡くなった。池野清の友人だった作家の佐多稲子(1904‐1998)は、その死を知って、短編「色のない画」(1961)を書き、また長編「樹影」(1972)を書いた。

 わたしは佐多稲子の作品を読んだことがなかった。池野清の絵に付されたキャプションにその名を見たとき、初めて佐多稲子の作品を読むように、なにかの縁で導かれている気がした。

 帰京後、さっそく「色のない画」を読んだ。文庫本でわずか17頁の短編。そこには作者の心の動きが繊細に描かれていた。澄んだ、静かな余韻が残った。文庫本の表題作は「私の長崎地図」。それも読んでみた。長崎で過ごした幼年時代を回想したエッセイ。わたしは惹きこまれた。佐多稲子とはこういう人だったのか‥と。

 大変な苦労をして育った人だが、わたしは、その事実よりも、それを淡々と書く文体に惹かれた。苦労を嘆くでもなく、だれかを恨むでもなく、また自己を正当化するでもなく、淡々と書く。それは文体の魅力であるとともに、佐多稲子という人物の“品格”でもあった。

 わたしはその文庫本に収録されているすべての作品を読んでみた。同じ人物が何度か出てくる。その度にその人物の陰影が増し、わたしの中に染みとおってくる。その過程に引っ張られるようにして読んだ。

 佐多稲子は戦前、戦中、戦後と激動の社会を生きたが、その精神世界がこれほどまでに静かで、繊細で、何事にも動じないものだったとは思いもよらなかった。わたしは深い感銘を受けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする