先日の下野竜也指揮日本フィルの定期は、予想以上におもしろかったので、その感想を拙いブログにまとめた。その後、わたしが閲覧したプロの評論家のご意見も、概ね好評のようだった。一例をあげると、東条碩夫氏の次のくだりは、わたしには“わが意を得たり”の思いだった。
「ユニークで斬新的な選曲と配列だが、実はこれがよく考え抜かれた、一貫性のある、よく出来たプログラミングであることは、聴いてみればすぐ理解できる。」
他の評論家の方々も、基本的には同じような論調だったが、細部の点で、ある音楽ライターの捉え方が、わたしとは異なっていたので、興味を抱いた。
それはジェイムズ・マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」について。この曲は冒頭で、弦楽器を主体にした、静かで、光り輝くような音楽が続き、中間部ではそれが激しく劇的な音楽に変化し、終結部では冒頭の静かな音楽が回帰したかと思うと、結尾で巨大なクレッシェンドが起こり、ホールを揺るがすような強打で終わる。
その中間部の激しく劇的な音楽について、その音楽ライターは「魔女集団の悪行が凶暴な響きによってくりひろげられる」と書いている。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写は恐ろしいほど。」と書いた。
これは真逆ではないか。音楽ライターは「魔女集団の悪行」と捉えた。その描写だとすると、本作はムソルグスキーの「禿山の一夜」のような曲になる。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写」と捉えた。現代でも起こり得る社会的な狂気への警鐘ではないか、と。
どちらなのだろう。当日のプログラムは捨ててしまったので、今は確認できないが、これについての明確な記述は記憶に残っていない。
各人好きなように聴けばよい、という類の事柄かもしれない。また、抽象芸術たる音楽の本質に根差す多義性の一例かもしれない。一応、念のためにWikipedia(英語版)のThe Confession of Isobel Gowdieの項を参照してみたら、音楽評論家Stephen Johnsonの言葉が引用されていた。「裁判、拷問、または集団ヒステリー」を暗示する(according to Johnson, redolent of “trial, torture or mass hysteria”)、と。
もちろん白黒つけるような問題ではない。今後この曲を聴くときに、さて、どちらか、と想像しながら聴くおもしろさが加わった、と考えるべきだろう。
「ユニークで斬新的な選曲と配列だが、実はこれがよく考え抜かれた、一貫性のある、よく出来たプログラミングであることは、聴いてみればすぐ理解できる。」
他の評論家の方々も、基本的には同じような論調だったが、細部の点で、ある音楽ライターの捉え方が、わたしとは異なっていたので、興味を抱いた。
それはジェイムズ・マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」について。この曲は冒頭で、弦楽器を主体にした、静かで、光り輝くような音楽が続き、中間部ではそれが激しく劇的な音楽に変化し、終結部では冒頭の静かな音楽が回帰したかと思うと、結尾で巨大なクレッシェンドが起こり、ホールを揺るがすような強打で終わる。
その中間部の激しく劇的な音楽について、その音楽ライターは「魔女集団の悪行が凶暴な響きによってくりひろげられる」と書いている。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写は恐ろしいほど。」と書いた。
これは真逆ではないか。音楽ライターは「魔女集団の悪行」と捉えた。その描写だとすると、本作はムソルグスキーの「禿山の一夜」のような曲になる。一方、わたしは「次第に凶暴化する民衆の描写」と捉えた。現代でも起こり得る社会的な狂気への警鐘ではないか、と。
どちらなのだろう。当日のプログラムは捨ててしまったので、今は確認できないが、これについての明確な記述は記憶に残っていない。
各人好きなように聴けばよい、という類の事柄かもしれない。また、抽象芸術たる音楽の本質に根差す多義性の一例かもしれない。一応、念のためにWikipedia(英語版)のThe Confession of Isobel Gowdieの項を参照してみたら、音楽評論家Stephen Johnsonの言葉が引用されていた。「裁判、拷問、または集団ヒステリー」を暗示する(according to Johnson, redolent of “trial, torture or mass hysteria”)、と。
もちろん白黒つけるような問題ではない。今後この曲を聴くときに、さて、どちらか、と想像しながら聴くおもしろさが加わった、と考えるべきだろう。