新国立劇場の演劇部門の新作「消えていくなら朝」。作者は蓬莱竜太、演出は宮田慶子。本作は宮田慶子の芸術監督としての8年間を締めくくる作品。8年前の芸術監督交代に当たってはゴタゴタがあったようだが、宮田体制がスタートすると、安定した8年間だったように見える。わたしもほとんどの上演を観た。バランスのとれた作品構成だった。
本作はある家族の話。作家として成功している次男は、何年ぶりかで実家に帰る。そして家族に切り出す、「……今度の新作は、この家族をありのままに描いてみようと思うんだ」。そのとき波紋が起きる。各人が抱えているわだかまりが、堰を切ったように吹き出し、本音をぶつけ合う。
と、そう説明すると、ホームドラマのように思われるかもしれないが(実はわたしも観る前はそれを危惧していた)、実際はそうではなかった。ある家族の話を通して、人間の普遍的なものに触れていた。わたしは壮麗な物語を感じた。先に結論めいたことをいうようだが、これは傑作かもしれないと思った。
本作は作者の家族をモデルにしている。なので、作者自身も登場する。作者が次男で、兄と妹がいて、父と母がいる。5人家族。加えて作者が連れてきた若い女性(恋人なのかどうかは分からない)が登場する。登場人物は計6名。軋轢は家族5人の間で起きる。若い女性は一歩離れたところから関わる。
ホームドラマにならなかったのは、作者が自分自身を痛めつけているから。けっして容赦しない。だが、同時に、家族の一人ひとりに対しても容赦しない。それぞれの内面に潜り込んで、その言い分を描き切る。たとえそれが客観的に見て少しへんでも。
5人それぞれの本音がぶつかり合えば、家族は崩壊せざるを得ないだろう。そして実際に崩壊する。断片となった本音が瓦礫のように転がる。荒涼とした心象風景。けっして予定調和的なハッピーエンドにはならない。そこがよいと思った。
作家とは因果な商売だ。自分自身に対して手加減したら、とたんに読者(観客)に見破られる。自分をかばってはいけない。わたしがそれを感じたのは、唐突なようだが、森鴎外の「舞姫」だった。露悪的な素質がなければ、作家にはなれないと思った。本作には作家の素質が感じられる。
次男を演じた鈴木浩介をはじめ、見事に決まったキャスティングで、水際立った演技が繰り広げられた。
(2018.7.23.新国立劇場小劇場)
本作はある家族の話。作家として成功している次男は、何年ぶりかで実家に帰る。そして家族に切り出す、「……今度の新作は、この家族をありのままに描いてみようと思うんだ」。そのとき波紋が起きる。各人が抱えているわだかまりが、堰を切ったように吹き出し、本音をぶつけ合う。
と、そう説明すると、ホームドラマのように思われるかもしれないが(実はわたしも観る前はそれを危惧していた)、実際はそうではなかった。ある家族の話を通して、人間の普遍的なものに触れていた。わたしは壮麗な物語を感じた。先に結論めいたことをいうようだが、これは傑作かもしれないと思った。
本作は作者の家族をモデルにしている。なので、作者自身も登場する。作者が次男で、兄と妹がいて、父と母がいる。5人家族。加えて作者が連れてきた若い女性(恋人なのかどうかは分からない)が登場する。登場人物は計6名。軋轢は家族5人の間で起きる。若い女性は一歩離れたところから関わる。
ホームドラマにならなかったのは、作者が自分自身を痛めつけているから。けっして容赦しない。だが、同時に、家族の一人ひとりに対しても容赦しない。それぞれの内面に潜り込んで、その言い分を描き切る。たとえそれが客観的に見て少しへんでも。
5人それぞれの本音がぶつかり合えば、家族は崩壊せざるを得ないだろう。そして実際に崩壊する。断片となった本音が瓦礫のように転がる。荒涼とした心象風景。けっして予定調和的なハッピーエンドにはならない。そこがよいと思った。
作家とは因果な商売だ。自分自身に対して手加減したら、とたんに読者(観客)に見破られる。自分をかばってはいけない。わたしがそれを感じたのは、唐突なようだが、森鴎外の「舞姫」だった。露悪的な素質がなければ、作家にはなれないと思った。本作には作家の素質が感じられる。
次男を演じた鈴木浩介をはじめ、見事に決まったキャスティングで、水際立った演技が繰り広げられた。
(2018.7.23.新国立劇場小劇場)