石川淳の「紫苑物語」を読んだ。一読してまず気が付くことは、多数の二項対立が絡み合って物語が進む点だ。表題に取られた紫苑(わすれな草)と萱草(わすれ草)、歌と弓、此の世と桃源郷、忠頼(鬼神)と平太(仏)、うつろ姫(淫蕩)と千草(清純)、子狐の化身と老いた狼の憑き物、という具合に。
以上の例示は、思いつくままに、端的なものを挙げたが、他にも類例があるのはもちろんのこと、描写のディテールにも二項対立をなす例が散見され、それらの二項対立の連鎖が物語を進めるエネルギーとなっている。
さらに、それだけではなく、二項対立の連鎖によって、次第に主題が研ぎ澄まされ、鮮明になり、先鋭化する。二項対立の連鎖は、その目的のもとで、意識的に選択された手法だろう。
では、本作の主題とは何か。それは、一言でいえば、鬼だ。いつとは知れぬ古代の、都から遠く離れた僻地で、主人公の忠頼は、さまざまな有為転変の末、自ら鬼神になろうとする。鬼神になる道をつかみ取ろうとする。歌を捨て(文芸を捨て)、弓を捨て(武術を捨て)、仏と対峙する鬼神となることが、自らの道だ、と。
生のエネルギーが急進化して、自分でも、それがどこに向かっているか、わからないまま、闇の中を突き進み、その究極のところで鬼神という概念に突き当たり、そして、そこに自らの道を見出すという、善悪を超えたドラマが本作だといっていい。そのような生のエネルギーの運動を、忠頼という人物で造形する試みが本作であり、その意味では本作は実験作だろう。
わたしは本作を講談社文芸文庫で読んだが、そこには他に「八幡縁起」と「修羅」が収められている。「紫苑物語」との関連でいうと、応仁の乱を時代背景とする「修羅」の登場人物の一人で、被差別を率いる胡摩は、忠頼で造形された生のエネルギーの応用例といえる。
加えて、胡摩がジャンヌ・ダルクを想わせることから、ジャンヌ・ダルクに触れようとしながら、ついに触れ得なかった「普賢」と本作はつながり、さらには「焼跡のイエス」に登場する戦争孤児にも、その不分明の萌芽が見られるのではないかと思う。
なお、補足すると、「紫苑物語」で見られる二項対立の手法は、深沢七郎の「楢山節考」を思い出させる。主題はまったく異なるが、二項対立による主題の鮮明化という点では似ている。偶然だろうが、両作はともに1956年(昭和31年)に「中央公論」誌に発表された。
以上の例示は、思いつくままに、端的なものを挙げたが、他にも類例があるのはもちろんのこと、描写のディテールにも二項対立をなす例が散見され、それらの二項対立の連鎖が物語を進めるエネルギーとなっている。
さらに、それだけではなく、二項対立の連鎖によって、次第に主題が研ぎ澄まされ、鮮明になり、先鋭化する。二項対立の連鎖は、その目的のもとで、意識的に選択された手法だろう。
では、本作の主題とは何か。それは、一言でいえば、鬼だ。いつとは知れぬ古代の、都から遠く離れた僻地で、主人公の忠頼は、さまざまな有為転変の末、自ら鬼神になろうとする。鬼神になる道をつかみ取ろうとする。歌を捨て(文芸を捨て)、弓を捨て(武術を捨て)、仏と対峙する鬼神となることが、自らの道だ、と。
生のエネルギーが急進化して、自分でも、それがどこに向かっているか、わからないまま、闇の中を突き進み、その究極のところで鬼神という概念に突き当たり、そして、そこに自らの道を見出すという、善悪を超えたドラマが本作だといっていい。そのような生のエネルギーの運動を、忠頼という人物で造形する試みが本作であり、その意味では本作は実験作だろう。
わたしは本作を講談社文芸文庫で読んだが、そこには他に「八幡縁起」と「修羅」が収められている。「紫苑物語」との関連でいうと、応仁の乱を時代背景とする「修羅」の登場人物の一人で、被差別を率いる胡摩は、忠頼で造形された生のエネルギーの応用例といえる。
加えて、胡摩がジャンヌ・ダルクを想わせることから、ジャンヌ・ダルクに触れようとしながら、ついに触れ得なかった「普賢」と本作はつながり、さらには「焼跡のイエス」に登場する戦争孤児にも、その不分明の萌芽が見られるのではないかと思う。
なお、補足すると、「紫苑物語」で見られる二項対立の手法は、深沢七郎の「楢山節考」を思い出させる。主題はまったく異なるが、二項対立による主題の鮮明化という点では似ている。偶然だろうが、両作はともに1956年(昭和31年)に「中央公論」誌に発表された。