今年1月の読響定期(カンブルランの指揮でヴィトマンのクラリネット協奏曲「エコー=フラグメンテ」が演奏された)は、都合で聴けなかったので、今回のサマーフェスティバルはわたしのヴィトマン初体験だった。
先日の室内楽コンサートもすばらしく、わたしは一気にヴィトマンのファンになった。さすがに旬の作曲家だけあって、音の生きのよさは群を抜き、また細川俊夫とのアフタートークで見せた人柄は、率直で飾らず、お茶目な面も備えていた。
今回の管弦楽コンサートは、期待にたがわず、室内楽コンサートでの印象を裏付け、新たな面も見せた。
1曲目はウェーバーのクラリネット協奏曲第1番。ヴィトマンの弾き振り(吹き振り?)だった。コンサートマスターの方を向いて吹くだけではなく、それと同等以上にチェロの方を向いていたのが興味深い。手を使った指揮でないと、低弦パートが遅れがちになるのだろうか。
2曲目はヴィトマンの弟子ヤン・エスラ・クールの「アゲイン」。バッハの和声を借用したというアルカイックな音型から始まり、破壊的・威圧的な部分を経て、澄んだ響きに収斂する。その響きはオルガンのようだった。
3曲目はヴィトマンの「コン・ブリオ」。ヤンソンス/バイエルン放送響がベートーヴェンの交響曲第7番・第8番とともに演奏するために委嘱した曲。ベートーヴェンの音を残すとともに、それを解体・異化した曲。だが、それだけではなく、ユーモアを兼ね備えている。本作はCD化されているが、ユーモアの要素は実演でないとわからない。
4曲目はヴィトマンの「クラリネット独奏のための幻想曲」。その演奏は神業だった。ヴィトマンがオーボエのハインツ・ホリガーと並び称せられる所以だ。なお本作もCD化されているが、実演で聴くと(それもヴィトマン自身の演奏で聴くと)、細かな仕草がおもしろく、なにか具体的なイメージ(アニメのような?)があるのではないかと感じられた。
5曲目は新作の「ヴァイオリン協奏曲第2番」。室内楽コンサートのときには、まだパート譜ができていないといっていた、出来立てほやほやの曲。妹のカロリン・ヴィトマンのために書かれた曲で、ヴィトマンはヴァイオリンのできること、できないことのすべてを妹から学んだというだけあって、妹の演奏は曲と一体化し、寸分の隙もなかった。第2楽章の甘く切ない音楽は異色だが、なにかの想い出か。
(2018.8.31.サントリーホール)
先日の室内楽コンサートもすばらしく、わたしは一気にヴィトマンのファンになった。さすがに旬の作曲家だけあって、音の生きのよさは群を抜き、また細川俊夫とのアフタートークで見せた人柄は、率直で飾らず、お茶目な面も備えていた。
今回の管弦楽コンサートは、期待にたがわず、室内楽コンサートでの印象を裏付け、新たな面も見せた。
1曲目はウェーバーのクラリネット協奏曲第1番。ヴィトマンの弾き振り(吹き振り?)だった。コンサートマスターの方を向いて吹くだけではなく、それと同等以上にチェロの方を向いていたのが興味深い。手を使った指揮でないと、低弦パートが遅れがちになるのだろうか。
2曲目はヴィトマンの弟子ヤン・エスラ・クールの「アゲイン」。バッハの和声を借用したというアルカイックな音型から始まり、破壊的・威圧的な部分を経て、澄んだ響きに収斂する。その響きはオルガンのようだった。
3曲目はヴィトマンの「コン・ブリオ」。ヤンソンス/バイエルン放送響がベートーヴェンの交響曲第7番・第8番とともに演奏するために委嘱した曲。ベートーヴェンの音を残すとともに、それを解体・異化した曲。だが、それだけではなく、ユーモアを兼ね備えている。本作はCD化されているが、ユーモアの要素は実演でないとわからない。
4曲目はヴィトマンの「クラリネット独奏のための幻想曲」。その演奏は神業だった。ヴィトマンがオーボエのハインツ・ホリガーと並び称せられる所以だ。なお本作もCD化されているが、実演で聴くと(それもヴィトマン自身の演奏で聴くと)、細かな仕草がおもしろく、なにか具体的なイメージ(アニメのような?)があるのではないかと感じられた。
5曲目は新作の「ヴァイオリン協奏曲第2番」。室内楽コンサートのときには、まだパート譜ができていないといっていた、出来立てほやほやの曲。妹のカロリン・ヴィトマンのために書かれた曲で、ヴィトマンはヴァイオリンのできること、できないことのすべてを妹から学んだというだけあって、妹の演奏は曲と一体化し、寸分の隙もなかった。第2楽章の甘く切ない音楽は異色だが、なにかの想い出か。
(2018.8.31.サントリーホール)