Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フルシャ/N響

2019年04月15日 | 音楽
 ヤクブ・フルシャのN響初登場。都響でその成長を見守ってきた指揮者が、成熟した指揮者となって(といっても、まだ30歳代後半だが)別のオーケストラに登場する姿を見るのは、感慨深いものがある。

 1曲目はR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」。音楽を巻き上げていくドライブ感に目を瞠った。フルシャは基本的には楷書体の演奏をする人だと思うが、都響の首席客演指揮者退任公演となった2017年12月のブラームスの交響曲第1番では、うねるような躍動感が生まれていた。その傾向が今回の「ツァラトゥストラ…」で全面的に展開した感がある。

 コンサートマスターにはライナー・キュッヒルが入った。その艶のある音といったら! この曲がヴァイオリン協奏曲のように聴こえる箇所が何度もあった。その割に弦セクションの音に照度が不足していたのはなぜだろう。

 2曲目はベルリオーズの「クレオパトラの死」。ソプラノ独唱はヴェロニク・ジャンス。オペラの一場面のような曲だ。そのドラマ性には凄みがある。クレオパトラが毒ヘビに我が身をかませて自殺する場面では、あまりにもリアルな表現にゾッとした。

 ヴェロニク・ジャンスの歌唱はドラマティックで、深く掘り下げたものだったが、それにピタッとつけて、寸分の隙もなかったフルシャとN響もたいしたものだった。

 てっきり休憩は1曲目の「ツァラトゥストラ…」の後に入るものと思い込んでいたが、休憩なしに「クレオパトラ…」が演奏され、その後で休憩が入った。休憩後はヤナーチェクの「シンフォニエッタ」。なるほど、休憩が入った後だと、気分が一新し、この曲の独立性が際立った。

 演奏はフルシャの正統的な音楽性と、N響の高度な技術とが融合して、稀にみる見事なものになった。余計なものを削ぎ落した、透徹した美しさがあらわれた。わたしは今まで聴いた演奏の中で(実演もCDも含めて)今回がベストではないかと、思わず言いたくなった。舞台奥に並んだバンダも美しいハーモニーを響かせた。なお、ハープは舞台上手のヴィオラの後ろに配置された。その分だけ客席に近くなり、わたしの3階席からでもよく聴こえた。

 定期のプログラムに毎回連載された「オーケストラのゆくえ」が今回で最終回になった。最終回はキュッヒルへのインタビュー。その中でキュッヒルは日本のオーケストラの「世界的にみても優れた奏法の一体感」(※)を指摘していて、示唆に富んでいた。
(2019.4.14.NHKホール)

(※)参考までに、引用した語句を含む前後の発言を引用しておきたい。
「いくつかの名門楽団は世界の優秀な音楽家を獲得しようと、国際オーディションを繰り返した結果、かつて固有だった響きの個性を失いつつあります。この点、日本のオーケストラは言語や地政学の問題もあって、日本人の割合が多いままに構成され、世界的にみても優れた奏法の一体感があります。ウィーンから来た私が予言するのも何ですが、21世紀はN響をはじめ、日本のオーケストラが一段と強い個性を発揮して、世界に羽ばたく時代といえるでしょう。」
コメント
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