指揮者のジャン・フルネが亡くなった。95歳だというから、長寿のほうだ。生前の名演奏に感謝をこめて、ご冥福を祈る。
今思い返してみると、フルネは私にとっては、なによりもまず、ショーソンの交響曲を教えてくれた人だった。この曲は1880年代から90年代にかけてフランスで花開いたオーケストラ音楽の芳醇な成果の一つだが、私はフルネの指揮できくまでは、その存在すら知らなかった。きいてみると、移ろい行く淡い色彩の上品さがなんともいえない名曲だった。異なるオーケストラで2度きいたが、いずれもフルネの音になっていて、その音は今でも記憶の底に残っている。
また、引退公演の記憶が鮮明だ。日記をみると2005年12月20日だった。場所はサントリーホール、オーケストラは都響、プログラムは以下のとおりだった。
(1)ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
(2)モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(ピアノ独奏:伊藤恵)
(3)ブラームス:交響曲第2番
1曲目の「ローマの謝肉祭」では、コールアングレのソロをフルネの奥様が吹いた。奥様がオーボエ奏者であることを私はそのとき初めて知った。演奏は部分的にきわめて遅いテンポだった。
2曲目のモーツァルトがはじまると、異常に遅いテンポで、音楽は生気を失っていた。私はこれが老いたフルネの心象風景なのかと驚いた。第1楽章が終わったときに、一人の中年男性が大きな靴音を立てて、これみよがしに退場した。客席は凍りついた。そのとき、ピアノの伊藤恵がそっとフルネに微笑みかけ、フルネは我に返ったように第2楽章をはじめた。
3曲目のブラームスは、通常のテンポに戻り、いつものように正統的で格調の高い演奏だった。最終楽章のコーダで金管楽器が高らかに吹き鳴らすテーマは、都響がフルネに捧げるオマージュのようだった。
今思い返してみると、フルネは私にとっては、なによりもまず、ショーソンの交響曲を教えてくれた人だった。この曲は1880年代から90年代にかけてフランスで花開いたオーケストラ音楽の芳醇な成果の一つだが、私はフルネの指揮できくまでは、その存在すら知らなかった。きいてみると、移ろい行く淡い色彩の上品さがなんともいえない名曲だった。異なるオーケストラで2度きいたが、いずれもフルネの音になっていて、その音は今でも記憶の底に残っている。
また、引退公演の記憶が鮮明だ。日記をみると2005年12月20日だった。場所はサントリーホール、オーケストラは都響、プログラムは以下のとおりだった。
(1)ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
(2)モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(ピアノ独奏:伊藤恵)
(3)ブラームス:交響曲第2番
1曲目の「ローマの謝肉祭」では、コールアングレのソロをフルネの奥様が吹いた。奥様がオーボエ奏者であることを私はそのとき初めて知った。演奏は部分的にきわめて遅いテンポだった。
2曲目のモーツァルトがはじまると、異常に遅いテンポで、音楽は生気を失っていた。私はこれが老いたフルネの心象風景なのかと驚いた。第1楽章が終わったときに、一人の中年男性が大きな靴音を立てて、これみよがしに退場した。客席は凍りついた。そのとき、ピアノの伊藤恵がそっとフルネに微笑みかけ、フルネは我に返ったように第2楽章をはじめた。
3曲目のブラームスは、通常のテンポに戻り、いつものように正統的で格調の高い演奏だった。最終楽章のコーダで金管楽器が高らかに吹き鳴らすテーマは、都響がフルネに捧げるオマージュのようだった。