ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はウェーベルンの「夏風の中で」。わたしの大好きな曲だが、演奏は少し勝手がちがった。絵画的な要素が(視覚的な要素といってもいいが)皆無なのだ。冒頭の弱音は驚くばかりで(わたしはワーグナーの「ラインの黄金」の序奏が始まるのではないかと思った)、以後も弱音のコントロールが徹底している。だがそこからの音の広がりがない。弱音の部分と強音の部分が二項対立的に存在し、その間のグラデーションがない。ヴァイグレが感じるこの曲はこうなのか。
2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第12番。わたしの偏愛する曲だ。以前持っていたLP(ブレンデルのピアノ独奏、マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズの演奏)を何度聴いたことだろう。今回数年ぶりに聴いて、心の故郷に戻ったような気がした。
ピアノ独奏はダン・タイ・ソン。何度も日本に来ているだろうが、わたしが聴くのは何十年ぶりか。今はカナダに住んでいるらしい。すっかり東洋の賢人らしい風貌になった。ピアノの音は今もみずみずしい。旋律線もクリアだ。モーツァルトのこの曲を穏やかに、なんの衒いもなく演奏した。短調に転じる第2楽章の集中力もなかなかだ。
アンコールにショパンのワルツイ短調(遺作)が演奏された。モーツァルトの第2楽章にも通じる秘めた悲しみが美しい。
ピアノ協奏曲でのヴァイグレ指揮読響の演奏も良かった。尖ったところのまるでない穏やかな演奏だ。一昔前のモーツァルトはこうだった。スイットナーとかサヴァリッシュとか(ワルターまでいくとまた多少ちがうかもしれないが)……と懐かしくなる。
3曲目はシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」。カンブルランが読響の首席指揮者に就任した際に取り上げた曲だ(2010年4月)。今でもあの演奏は目に浮かぶ。引き締まった音で色彩豊かな演奏だった。その演奏と今回のヴァイグレの演奏とはなんとちがうことだろう。ヴァイグレの演奏はパワフルで感情がほとばしる。荒々しさをいとわない点では、カンブルランと対照的だ。
ヴァイグレも角の取れた上品な演奏をすることがある。だが、たとえばアイスラーの「ドイツ交響曲」(2023年10月)のように、激しさをむき出しにした演奏をすることもある。今回の「ペレアスとメリザンド」はそのひとつだ。金管楽器が逞しい音で咆哮し、弦楽器が分厚い音で舞い上がる演奏は、日本のオーケストラのイメージから外れて、欧米の一流オーケストラのスタンダードに近い。
(2024.6.14.サントリーホール)
2曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第12番。わたしの偏愛する曲だ。以前持っていたLP(ブレンデルのピアノ独奏、マリナー指揮アカデミー・オブ・セントマーティン・イン・ザ・フィールズの演奏)を何度聴いたことだろう。今回数年ぶりに聴いて、心の故郷に戻ったような気がした。
ピアノ独奏はダン・タイ・ソン。何度も日本に来ているだろうが、わたしが聴くのは何十年ぶりか。今はカナダに住んでいるらしい。すっかり東洋の賢人らしい風貌になった。ピアノの音は今もみずみずしい。旋律線もクリアだ。モーツァルトのこの曲を穏やかに、なんの衒いもなく演奏した。短調に転じる第2楽章の集中力もなかなかだ。
アンコールにショパンのワルツイ短調(遺作)が演奏された。モーツァルトの第2楽章にも通じる秘めた悲しみが美しい。
ピアノ協奏曲でのヴァイグレ指揮読響の演奏も良かった。尖ったところのまるでない穏やかな演奏だ。一昔前のモーツァルトはこうだった。スイットナーとかサヴァリッシュとか(ワルターまでいくとまた多少ちがうかもしれないが)……と懐かしくなる。
3曲目はシェーンベルクの「ペレアスとメリザンド」。カンブルランが読響の首席指揮者に就任した際に取り上げた曲だ(2010年4月)。今でもあの演奏は目に浮かぶ。引き締まった音で色彩豊かな演奏だった。その演奏と今回のヴァイグレの演奏とはなんとちがうことだろう。ヴァイグレの演奏はパワフルで感情がほとばしる。荒々しさをいとわない点では、カンブルランと対照的だ。
ヴァイグレも角の取れた上品な演奏をすることがある。だが、たとえばアイスラーの「ドイツ交響曲」(2023年10月)のように、激しさをむき出しにした演奏をすることもある。今回の「ペレアスとメリザンド」はそのひとつだ。金管楽器が逞しい音で咆哮し、弦楽器が分厚い音で舞い上がる演奏は、日本のオーケストラのイメージから外れて、欧米の一流オーケストラのスタンダードに近い。
(2024.6.14.サントリーホール)