山田和樹指揮日本フィルの定期演奏会。1曲目はモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」。弦の編成は16型。だが、演奏が始まると、目を疑った。16型の弦楽器群の、半分しか演奏していない。残りの半分は弓を構えているだけだ。なぜ弓を構えているのかというと、演奏する人と演奏しない人が頻繁に入れ替わるからだ。どうやら2班に分かれているらしい。だが、たとえば各プルトの内側の人と外側の人とか、あるいは前半分と後ろ半分とか、そういうわかりやすい分け方ではない。2班に分かれているかどうかも定かではないが、仮にそうだとしても、アットランダムな分け方だ。
で、どうなるかというと、各奏者は大雑把にいって、譜面の半分しか演奏しない。それも途切れ途切れに。なぜなら頻繁に入れ替わるからだ。こうなると各奏者は(弾きなれたこの曲を)弾き流すことができない。譜面通りに正確に演奏するしかない。そうしないと音がつながらない。結果、清新な演奏が出現した。もっとも、第4楽章は全員で演奏した。聴き手のわたしもホッとした。我ながら可笑しい。
そのアイデアはどこから来るのか。ヴィオラの客演首席奏者の安達真理さんはツイッター(エックス)でこう書く。「アイネクの謎の分担の種明かしをしたいけど、皆さまの想像力にお任せしておきましょう 笑」と。爆笑だ。
2曲目はバッハの「シャコンヌ」の斎藤秀雄によるオーケストラ用の編曲版。ゆったりと堂々とした編曲と演奏。ストコフスキーのバッハのオルガン曲の編曲を思わせる。ストコフスキーには「シャコンヌ」の編曲もあるらしいが、どんな編曲だろう。
休憩後、3曲目はウォルトンの「戴冠行進曲《宝玉と勺杖》」。緩めのアンサンブルで華やかに鳴らす演奏だ。
4曲目はウォルトンの交響曲第2番。珍しい曲だ。わたしは実演では聴いたことがないと思う。全3楽章からなる曲。第1楽章は精妙な音の織物だ。第2楽章は、たとえば明るいのか暗いのか、一言ではいえないような、多義的な性格の音楽だ。第3楽章は圧倒的なダイナミズムの音楽。演奏は明るい音で輝かしく、アンサンブルも整い、時には開放的に鳴らす立派なものだった。
第1楽章と第2楽章ではデュティユーの音楽を思った。手作りの精巧さと第二次世界大戦後の音楽の動向に背を向けた作風(ウォルトンの交響曲第2番は1960年に完成された。デュティユーの交響曲第2番は1959年に完成されたので、同時期だ)が共通する。音楽史的な位置付けが難しいのも似ている。
(2023.9.2.サントリーホール)
で、どうなるかというと、各奏者は大雑把にいって、譜面の半分しか演奏しない。それも途切れ途切れに。なぜなら頻繁に入れ替わるからだ。こうなると各奏者は(弾きなれたこの曲を)弾き流すことができない。譜面通りに正確に演奏するしかない。そうしないと音がつながらない。結果、清新な演奏が出現した。もっとも、第4楽章は全員で演奏した。聴き手のわたしもホッとした。我ながら可笑しい。
そのアイデアはどこから来るのか。ヴィオラの客演首席奏者の安達真理さんはツイッター(エックス)でこう書く。「アイネクの謎の分担の種明かしをしたいけど、皆さまの想像力にお任せしておきましょう 笑」と。爆笑だ。
2曲目はバッハの「シャコンヌ」の斎藤秀雄によるオーケストラ用の編曲版。ゆったりと堂々とした編曲と演奏。ストコフスキーのバッハのオルガン曲の編曲を思わせる。ストコフスキーには「シャコンヌ」の編曲もあるらしいが、どんな編曲だろう。
休憩後、3曲目はウォルトンの「戴冠行進曲《宝玉と勺杖》」。緩めのアンサンブルで華やかに鳴らす演奏だ。
4曲目はウォルトンの交響曲第2番。珍しい曲だ。わたしは実演では聴いたことがないと思う。全3楽章からなる曲。第1楽章は精妙な音の織物だ。第2楽章は、たとえば明るいのか暗いのか、一言ではいえないような、多義的な性格の音楽だ。第3楽章は圧倒的なダイナミズムの音楽。演奏は明るい音で輝かしく、アンサンブルも整い、時には開放的に鳴らす立派なものだった。
第1楽章と第2楽章ではデュティユーの音楽を思った。手作りの精巧さと第二次世界大戦後の音楽の動向に背を向けた作風(ウォルトンの交響曲第2番は1960年に完成された。デュティユーの交響曲第2番は1959年に完成されたので、同時期だ)が共通する。音楽史的な位置付けが難しいのも似ている。
(2023.9.2.サントリーホール)