高関健指揮東京シティ・フィルの定期。チケットは完売になった。曲目はシベリウスの交響詩「タピオラ」とマーラーの交響曲第5番。同時代を生きたシベリウスとマーラーだが、オーケストラ書法は対照的だ。音を切り詰めてラジカルな簡素化に向かったシベリウスと、音を複雑化して前代未聞の肥大化に向かったマーラー。その対比は興味深いが、それにしてもチケット完売はすごい。高関健と東京シティ・フィルの評価が上がっているからだろう。
シベリウスの「タピオラ」は時に鋭角的な音を交えながら、すべての音を明確に示す演奏だ。オーケストラが沈黙すると思っていた部分でホルンが鳴っていたり、弦楽パートの意外な絡み合いがあったり、「なるほどこの曲はこう書かれているのか」と新鮮に聴いた。言い換えれば、茫漠とした北欧情緒で聴かす演奏ではなかった。たぶん高関健と東京シティ・フィルが評価されるのはその点だろう。
マーラーの交響曲第5番は高関健と東京シティ・フィルの9シーズン目を締めくくる定期にふさわしい演奏だった。複雑な音の絡み合いの、その錯綜する各パートが明確に音色のイメージをもち、絶え間なく出入りする。多面的なおもしろさが尽きない。一朝一夕にできる演奏ではなく、9年間の研鑽の表れだ。わたしはじつはこの曲が食傷気味なのだが、そんな不遜な聴き手を初心に帰らせる演奏だ。
第1楽章のトランペットは松木亜希さんが安定した演奏を聴かせた。過度に悲壮感を漂わせるのではなく、むしろ淡々とした演奏だ。それが高関健の指示なのか(指示というよりもイメージといったほうがいいかもしれないが)、松木さんのキャラクターなのか、それはわからないが、ともかくこの演奏全体の性格を表していた。
第2楽章は(暗さの中に意外な明るさが入り混じる)混乱した音楽だが、その音楽をこんなにすっきりと演奏した例があったかどうか、わたしは思いつかない。今まで接してきたどの演奏も、悲壮な身振りが余計だったような気がする。
第3楽章でオブリガート・ホルンを担当した谷あかねさんは、指揮者の横の独奏者の位置で吹いた。大変なプレッシャーだったと思う。聴衆のわたしも手に汗を握った。朗々と鳴り渡る音から柔らかいレガートの音、そして軽くアクセントを付ける音まで、見事な演奏だった。演奏家として一皮むける機会になったと思う。第4楽章は甘さに耽溺せず、音の流れを見守る演奏だ。第5楽章は躁状態にならずに、音楽が静まる部分もしっかり押さえた演奏だ。結果、楽章全体の構成が明確に浮き出た。演奏終了後、高関健のソロ・カーテンコールになった。高関健は松木さんと谷さんを伴って現れた。
(2024.3.8.東京オペラシティ)
シベリウスの「タピオラ」は時に鋭角的な音を交えながら、すべての音を明確に示す演奏だ。オーケストラが沈黙すると思っていた部分でホルンが鳴っていたり、弦楽パートの意外な絡み合いがあったり、「なるほどこの曲はこう書かれているのか」と新鮮に聴いた。言い換えれば、茫漠とした北欧情緒で聴かす演奏ではなかった。たぶん高関健と東京シティ・フィルが評価されるのはその点だろう。
マーラーの交響曲第5番は高関健と東京シティ・フィルの9シーズン目を締めくくる定期にふさわしい演奏だった。複雑な音の絡み合いの、その錯綜する各パートが明確に音色のイメージをもち、絶え間なく出入りする。多面的なおもしろさが尽きない。一朝一夕にできる演奏ではなく、9年間の研鑽の表れだ。わたしはじつはこの曲が食傷気味なのだが、そんな不遜な聴き手を初心に帰らせる演奏だ。
第1楽章のトランペットは松木亜希さんが安定した演奏を聴かせた。過度に悲壮感を漂わせるのではなく、むしろ淡々とした演奏だ。それが高関健の指示なのか(指示というよりもイメージといったほうがいいかもしれないが)、松木さんのキャラクターなのか、それはわからないが、ともかくこの演奏全体の性格を表していた。
第2楽章は(暗さの中に意外な明るさが入り混じる)混乱した音楽だが、その音楽をこんなにすっきりと演奏した例があったかどうか、わたしは思いつかない。今まで接してきたどの演奏も、悲壮な身振りが余計だったような気がする。
第3楽章でオブリガート・ホルンを担当した谷あかねさんは、指揮者の横の独奏者の位置で吹いた。大変なプレッシャーだったと思う。聴衆のわたしも手に汗を握った。朗々と鳴り渡る音から柔らかいレガートの音、そして軽くアクセントを付ける音まで、見事な演奏だった。演奏家として一皮むける機会になったと思う。第4楽章は甘さに耽溺せず、音の流れを見守る演奏だ。第5楽章は躁状態にならずに、音楽が静まる部分もしっかり押さえた演奏だ。結果、楽章全体の構成が明確に浮き出た。演奏終了後、高関健のソロ・カーテンコールになった。高関健は松木さんと谷さんを伴って現れた。
(2024.3.8.東京オペラシティ)