わたしの父は1917年(大正6年)に東京の羽田で生まれ、1998年(平成10年)に同地で亡くなった。満80歳だった。わたしが小さい頃は町工場で旋盤工をしていたが、わたしが中学生の頃にボール盤を購入して自宅で仕事を始め、しばらくして旋盤を購入した。亡くなる日まで仕事をしていたが、その日の午後に納品のため自転車で家を出たときに心臓発作に襲われ、そのまま息を引き取った。
父は生前よく「戦争中は呉の海軍工廠にいた」と言っていた。「戦艦大和を見た。今度の艦は大きいなと驚いた」とも言っていた。そんな断片的な話がいくつか記憶に残っている。「戦争中はラジオに出てヴァイオリンを弾いた」とか、「広島の原爆のキノコ雲を見た。おれは原爆を知らなかったが、中には知っている人がいて、『あれは原爆だ』と言っていた」とか、「反戦ビラを見たことがある」とも言っていた。
だが、いずれも断片的な話で、亡父の呉海軍工廠時代の全貌はつかめなかった。父が亡くなって久しいが、わたしはそんなモヤモヤした気持ちを抱いていたので、2018年1月に呉海軍工廠の跡地に行ってみた。
そのときの訪問記をブログに書いたところ、それを読んだある方がコメントを寄せてくださった。その方は呉海軍工廠ゆかりの人々を訪ねた本(※1)を上梓している方だった。以後、その方とコメント欄での交流が続き(※2)、その方のご指導を受けて、わたしは亡父の軍歴照会を厚生労働省に行ない、先日その回答を得た。
亡父は昭和16年(1941年)2月に国民徴用令により徴用され、呉海軍工廠製鋼部普通工員となり、昭和20年(1945年)9月に徴用解除(解傭)になったことがわかった。あわせて厚生労働省からは「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の亡父の部分の写しが送られてきた。亡父の名が記載されているその名簿は、わたしには言葉にならないほど重かった。
それらの事実をコメント欄でお伝えしたところ、その方(ハンドルネーム「フランツ」様)は驚くべき資料を教えてくれた。その資料は「つわぶき第48号」という会報誌で、そこに島根県立津和野高等女学校(当時)から呉海軍工廠の製鋼部(!)に学徒動員された方の手記が載っていた(「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」)。
その手記を書いた方は、呉海軍工廠製鋼部で旋盤を使ったというから、亡父と同じ職場にいた可能性が強いと思われる。また昭和20年8月15日に玉音放送を聞くために製鋼部本部に軍人、工員、学徒の順に並んだというので、その工員の中に亡父がいたことはまちがいない。わたしには亡父の姿が見えるような気がした。そんな思いがけない経験をさせていただいた「フランツ」様に心から感謝する。
(※1)書名は「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶‐呉の奇跡」(自費出版・非売品)。わたしは東京の大田区立図書館から借りた。全国では140か所の図書館に収蔵されているという。
大田区立図書館の該当ページ
(※2)2018年1月8日の「瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡」のコメント欄で今までに合計30回のコメントのやり取りをした。
父は生前よく「戦争中は呉の海軍工廠にいた」と言っていた。「戦艦大和を見た。今度の艦は大きいなと驚いた」とも言っていた。そんな断片的な話がいくつか記憶に残っている。「戦争中はラジオに出てヴァイオリンを弾いた」とか、「広島の原爆のキノコ雲を見た。おれは原爆を知らなかったが、中には知っている人がいて、『あれは原爆だ』と言っていた」とか、「反戦ビラを見たことがある」とも言っていた。
だが、いずれも断片的な話で、亡父の呉海軍工廠時代の全貌はつかめなかった。父が亡くなって久しいが、わたしはそんなモヤモヤした気持ちを抱いていたので、2018年1月に呉海軍工廠の跡地に行ってみた。
そのときの訪問記をブログに書いたところ、それを読んだある方がコメントを寄せてくださった。その方は呉海軍工廠ゆかりの人々を訪ねた本(※1)を上梓している方だった。以後、その方とコメント欄での交流が続き(※2)、その方のご指導を受けて、わたしは亡父の軍歴照会を厚生労働省に行ない、先日その回答を得た。
亡父は昭和16年(1941年)2月に国民徴用令により徴用され、呉海軍工廠製鋼部普通工員となり、昭和20年(1945年)9月に徴用解除(解傭)になったことがわかった。あわせて厚生労働省からは「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の亡父の部分の写しが送られてきた。亡父の名が記載されているその名簿は、わたしには言葉にならないほど重かった。
それらの事実をコメント欄でお伝えしたところ、その方(ハンドルネーム「フランツ」様)は驚くべき資料を教えてくれた。その資料は「つわぶき第48号」という会報誌で、そこに島根県立津和野高等女学校(当時)から呉海軍工廠の製鋼部(!)に学徒動員された方の手記が載っていた(「島根津和野高女から呉海軍工廠に動員される」)。
その手記を書いた方は、呉海軍工廠製鋼部で旋盤を使ったというから、亡父と同じ職場にいた可能性が強いと思われる。また昭和20年8月15日に玉音放送を聞くために製鋼部本部に軍人、工員、学徒の順に並んだというので、その工員の中に亡父がいたことはまちがいない。わたしには亡父の姿が見えるような気がした。そんな思いがけない経験をさせていただいた「フランツ」様に心から感謝する。
(※1)書名は「ポツダム少尉‐68年ぶりのご挨拶‐呉の奇跡」(自費出版・非売品)。わたしは東京の大田区立図書館から借りた。全国では140か所の図書館に収蔵されているという。
大田区立図書館の該当ページ
(※2)2018年1月8日の「瀬戸内の旅(1):呉海軍工廠跡」のコメント欄で今までに合計30回のコメントのやり取りをした。
実は、同じように、昨日、小生の父と働いていた方で、なかなか手がかりのなかった方の家族が見つかり、小生にとっても3月6日は本当に忘れられない日となりました。
73年前のことではありますが、間違いなく次世代に語り継がれているのですね。
お父様のさらなるご冥福をお祈りいたします。
このたびは本当にお世話になり、ありがとうございました。フランツ様のお力がなければ、とてもこれだけのことは分かりませんでした。ご著書の「ポツダム少尉」を拝読しますと、フランツ様はもっと壮大な探求をされていることが分かりますが、その真似事とはいえ、私にとっては大きなことでした。今は祝杯をあげているところです。ホッとしました。
お父様の働いていたエリアの工場名を追記します。
甲鈑仕上工場 第12工場
機械工場 第16工場
造修工場 第18工場
焼入工場 第19工場
メインは、機械工場、造修工場と思います。
ひょっとしたら、お父様は生前、工場の名前を番号で言っていたかもしれませんね。
アドバイス、ありがとうございます。
亡父が工場の名前またはその番号を言っていた記憶はないのですが、先日厚生労働省から送られてきた「呉海軍工廠徴工名簿(徴用工員・自家徴用)」の中の「所属」の欄には、「部」が「鋼」、「工場」が「修」、「職」が「機」となっております。「鋼」は製鋼部、「修」は造修工場、「機」は機械工の略称でしょうか。
ちょっと気がついたのですが、ご存知のように、森鴎外は、津和野の出身です。また、Eno様が、前回の項目で、エーリッヒ・ケストナーについて書かれてます。
この二人・・ケストナーはドレスデン出身、森鴎外も陸軍の演習を視察にドレスデンを訪れています。
何気なく書かれている日頃のブログのテーマも、不思議な関係性もあるな❓😺と思ったりしております。
そうでした!私の中ではドレスデンと森鴎外とは結びついていませんでしたが、ドレスデンは森鴎外ゆかりの地でもありました。ベルリンに行くと、Sバーンから壁に「鴎外」と大書された建物が見えて、それを見ると、一度は行ってみたいな、と思っていましたが、そこへも行かずじまいです。
一つお伝えするのを忘れてました。実は、小生の本で、当時の呉にあったもう一つの「第十一海軍航空廠」と云う・・主に、戦闘機を製造していた工場に勤務していた方を紹介しております。
この方が、70年ぶりに、呉を再訪する模様を、徳島県の四国放送(日本テレビ系列)が徳島フォーカスと云う番組で紹介してます。
残念ながら、呉海軍工廠とは別エリアですが、当時の呉の様子を知ることが出来ます。
Youtubeで「呉海軍工廠の記憶 徳島フォーカス」で検索すると出てきます。
是非とも参考にして下さい。
ありがとうございます。さっそくYoutubeを見てみました。生々しい証言ですね。呉海軍工廠と隣接した広の海軍航空廠での空襲の体験談ですので、呉も似たような状況だったろうと想像できます。
また、呉市立中央図書館の市史編さん室の存在にも興味を惹かれました。呉を再訪する機会があったら、行ってみようかなと思いました。
早速ご覧になって頂き、誠にありがとうございました。
この証言者のHさんの宿舎を訪ねる場面があったと思いますが、ここが、横路(よころ)と云う工員宿舎が多数あった場所です。お父さんの宿舎も阿賀、横路だったかもしれません。
それと、都立中央図書館に、「海軍製鋼技術物語」と云う本があります。
この本のP21に、製鋼部の一覧図が掲載されてます。
是非とも御覧ください。
続編もあるようですが、初版の本です。
いろいろとご教示ありがとうございます。
亡父の宿舎は今一つわからず、気になっている点です。阿賀、横路という地名は、情けないことに、私には見当がつきませんが、亡父の晩年に残した俳句に「月夜道来た道行く道帰る道」というのがあり、その脚注に「峠を越えて呉市へ映画を見に行くときなど、ふと考えたものである」とありますので、呉市に行くときには「峠」を超えたのかなと思っております。
「海軍製鋼技術物語」という本は、今度機会を見つけて見に行きます。製鋼部の一覧図がどういうものか、見てみたいと思います。