Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

新国立劇場「ペレアスとメリザンド」

2022年07月14日 | 音楽
 新国立劇場の「ペレアスとメリザンド」を観た。同劇場で観たオペラ公演の中で、これは屈指の密度の濃さを誇る公演だと思った。そう言った矢先に、トウキョー・リングという破格の公演があったとささやく内なる声が聞こえるので、これは同劇場に固有の、どこか冷めた、劇場の大空間を満たせない公演とは一線を画す公演だと言い直そう。

 演出はケイティ・ミッチェル。エクサンプロヴァンス音楽祭とポーランド国立歌劇場の共同制作だ。幕が開くと、音楽が始まる前に、白いウェディングドレスを着たメリザンドが、大きな荷物をもって部屋に入ってくる。ホテルの一室だろうか。疲れた様子だ。結婚式の途中で逃げ出したように見える。メリザンドはベッドに横になり、眠ってしまう。音楽が始まる。以下はメリザンドが見た夢だ。

 いわゆる夢落ちではなく、最初にこれは夢であると告げられるわけだ。メリザンドが見た夢なので、物語は徹底的にメリザンドの視点から描かれる。メリザンドが何に怯え、何に苦しみ、また何を欲するのか。その深層心理が描かれる。

 冒頭のメリザンドとゴローの出会いの後、舞台はゴローとペレアスの母(ただしそれぞれの父は異なる)のジュヌヴィエーヴと祖父アルケルの会話の場面になる。当演出ではジュヌヴィエーヴとアルケル以外にゴローもペレアスもいて、家族全員が食事をする場面に変わっている。そこにメリザンドが入ってくる。だが、メリザンドが座る椅子はない。メリザンドは立ったままだ。

 以下、具体的な説明は省くが、メリザンドはゴローだけではなく、ペレアスやアルケルからも欲望の眼差しを浴びる。一方、メリザンドの欲望はペレアスにむかう。メリザンドも受け身だけの存在ではないのだ。また原作と台本では幕切れに登場する赤ん坊が、当演出では随所に登場する。赤ん坊だけではなく、メリザンドの妊娠(大きなお腹)も描かれる。以上の欲望、妊娠、出産は、かならずしも時系列的に描かれるわけではなく、むしろ時系列は錯綜しながら、随所に現れる。夢だからそれが可能なのだ。

 結局、メリザンドはそれらの総体としての結婚生活から逃れるために、結婚式の当日に逃亡したのではないか、と思わせる。幕切れで場面は幕開きのシーンに戻る。メリザンドは目を覚ます。ベッドから起き上がる。そして幕。

 大野和士の指揮は濃厚にドラマを描いた。歌手ではゴロー役のロラン・ナウリが傑出していた。ペレアス役のベルナール・リヒターもすばらしかった。メリザンド役のカレン・ヴルシュは2014年12月にデュトワ指揮N響がこのオペラをやったときのメリザンド役だ。
(2022.7.13.新国立劇場)

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3 コメント

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Unknown (猫またぎなリスナー)
2022-07-20 11:59:38
事前に「夢落ち」と聞いていたので、安直な演出でなければよいが、と少し身構えていたのですが、実際に観てみると夢はメリザンドの無意識が露わになるための必然的なお膳立てであったと分かりました。私は千秋楽に行きましたが、もう一日観ておけばよかったと悔やまれるほど素晴らしい舞台であったと思います。
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Unknown (Eno)
2022-07-20 15:36:37
猫またぎなリスナーさんもご覧になったんですね。ネット上では否定的な意見も散見されますが、猫またぎなリスナーさんが肯定的な評価をされていて、嬉しく思いました。
あの演出は、全体を通したストーリーテリングの一貫性よりも、個々の場面の作りこみが印象的だと思いましたが、いかがでしょうか。
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Unknown (猫またぎなリスナー)
2022-07-20 17:51:10
私のブログにも少し書きましたが、個々の場面の作り込み、まさにそんな感じでした。泉の場、食卓の場、メリザンドの病床、息をのむほど美しく今もありありと目に浮かびます。私は大兄の仰る「深層心理」ではなく「無意識」と書いていますが、どなたかラカンを本格的に学んだ方がこの演出を分析してくださったら、ひょっとすると「全体を通したストーリーテリングの一貫性」が浮かび上がるかも、と夢想しています。
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