視力を失ったミチル(田中麗奈)の家に逃げ込んだ殺人の容疑者アキヒロ(チェン・ボーリン)。
そこで生まれる心の交流。
乙一原作のこの作品、原作は読んでいないが映像ならではの文体がいたるところに見られて興味深い。
まずはミチルの日常。
その起きて家の中で生活する姿が短いカットで描かれる。
ひとりで食事を取り、ひとりで掃除をして、ひとりでテレビを聞く、ひとりでピアノを弾く、そして「お休みなさい」と言って電気を消して2階に上がる。そして時々、亡くなった父親(岸辺一徳)からもらった時刻を告げるペンダントで時間を確認する。それは寝る時の「お休みなさい」と共にミチルが唯一行うコミュニケーションだ。こうすることで父親とのコミュニケーションを図っているのかもしれない。
そんな単調で孤独なミチルの生活。とても静か。
淡々とつづる短いカットがその孤独と単調さを見事に表現している。
見ている者にはとても孤独で耐えられない感情を呼び起こす。
だが、一方でミチルはそんな生活に満足している。目が見えないミチルは人生で多くを望んでいないからだ。
そのスクリーンを通して見ている者とのギャップがなお作品世界に惹きつける。
面白い手法だ。
その他の映像手法ではこんな描写もある。
以下、ネタバレです。
アキヒロが恨みを持つ松永(佐藤浩市)を走ってくる電車に突き落とそうとするシーンだ。
アキヒロは実際には落としていないで真犯人は別にいるのだが、当初、映像ではその先の映像を流さない。
アキヒロの行動理由が明らかになるにつれ描かれていく。
犯人はホームの緊急避難所に隠れていてホームに這い上がってくる。そしてアキヒロより前に松永を突き落とす。
映像は人間の記憶というものを描くのに適している。
映像作家は記憶の断片ということで、その前後を自由にカット出来るからだ。観客に見せたくないものを見せずに済むからだ。
この作品はそんな映像の特性を効果的に使っている。
その他にはこんな映像手法がある。
窓辺で外を眺めるミチルの映像だ。
見ている者には何でもない日常のワンカットだが、実は後で重大な意味を持ってくる。
ミチルの窓の外が犯行現場で、犯人は犯行を見られたと思うのだ。
そしてミチルにアプローチしてくる犯人。
何気ないカットが後で意味を持ってくるというのも映像ならではの面白さ。小説でも同様の手法は可能だとは思うが、やはり1カットで見せてしまう視覚にはかなわない。
最後にこれは原作のアイデアだと思うが、こんな場所の使い方が気が利いている。
ミチルの共同生活を送る中、アキヒロがいつも座っている場所がある。
それは居間の窓辺。
居間にあるこたつはミチルが生活の大半を過ごす場所だから、そこにいることを知られたくないアキヒロにとって非常に危険な場所だと思うのだが、彼はいつもそこに座っている。
理由はそこで犯行現場にやって来るかもしれない犯人を見張っているから。
これも何気ない動作が後に意味を持ってくるという手法のひとつ。
こんな小道具の使い方もあった。
イタリアンレストランで撮った写真。
ミチルの友人がカメラのフィルムを使い切りたくて偶然撮った写真だが、これが犯人の居場所を知る手掛かりになる。
これも何気ない小道具が後に意味を持ってくる例である。
この様にこの作品は様々なアイデアに溢れていて見ていて飽きない。
盲目の田中麗奈の演技も差別され孤独なチェン・ボーリンも見事で、作品として実に見応えがある。
★追記
この作品は、ミチルの視線で描くミチル編、アキヒロの視点で描くアキヒロ編、ふたりの視点が混在するミチルとアキヒロ編の3部で構成されている。
そこで生まれる心の交流。
乙一原作のこの作品、原作は読んでいないが映像ならではの文体がいたるところに見られて興味深い。
まずはミチルの日常。
その起きて家の中で生活する姿が短いカットで描かれる。
ひとりで食事を取り、ひとりで掃除をして、ひとりでテレビを聞く、ひとりでピアノを弾く、そして「お休みなさい」と言って電気を消して2階に上がる。そして時々、亡くなった父親(岸辺一徳)からもらった時刻を告げるペンダントで時間を確認する。それは寝る時の「お休みなさい」と共にミチルが唯一行うコミュニケーションだ。こうすることで父親とのコミュニケーションを図っているのかもしれない。
そんな単調で孤独なミチルの生活。とても静か。
淡々とつづる短いカットがその孤独と単調さを見事に表現している。
見ている者にはとても孤独で耐えられない感情を呼び起こす。
だが、一方でミチルはそんな生活に満足している。目が見えないミチルは人生で多くを望んでいないからだ。
そのスクリーンを通して見ている者とのギャップがなお作品世界に惹きつける。
面白い手法だ。
その他の映像手法ではこんな描写もある。
以下、ネタバレです。
アキヒロが恨みを持つ松永(佐藤浩市)を走ってくる電車に突き落とそうとするシーンだ。
アキヒロは実際には落としていないで真犯人は別にいるのだが、当初、映像ではその先の映像を流さない。
アキヒロの行動理由が明らかになるにつれ描かれていく。
犯人はホームの緊急避難所に隠れていてホームに這い上がってくる。そしてアキヒロより前に松永を突き落とす。
映像は人間の記憶というものを描くのに適している。
映像作家は記憶の断片ということで、その前後を自由にカット出来るからだ。観客に見せたくないものを見せずに済むからだ。
この作品はそんな映像の特性を効果的に使っている。
その他にはこんな映像手法がある。
窓辺で外を眺めるミチルの映像だ。
見ている者には何でもない日常のワンカットだが、実は後で重大な意味を持ってくる。
ミチルの窓の外が犯行現場で、犯人は犯行を見られたと思うのだ。
そしてミチルにアプローチしてくる犯人。
何気ないカットが後で意味を持ってくるというのも映像ならではの面白さ。小説でも同様の手法は可能だとは思うが、やはり1カットで見せてしまう視覚にはかなわない。
最後にこれは原作のアイデアだと思うが、こんな場所の使い方が気が利いている。
ミチルの共同生活を送る中、アキヒロがいつも座っている場所がある。
それは居間の窓辺。
居間にあるこたつはミチルが生活の大半を過ごす場所だから、そこにいることを知られたくないアキヒロにとって非常に危険な場所だと思うのだが、彼はいつもそこに座っている。
理由はそこで犯行現場にやって来るかもしれない犯人を見張っているから。
これも何気ない動作が後に意味を持ってくるという手法のひとつ。
こんな小道具の使い方もあった。
イタリアンレストランで撮った写真。
ミチルの友人がカメラのフィルムを使い切りたくて偶然撮った写真だが、これが犯人の居場所を知る手掛かりになる。
これも何気ない小道具が後に意味を持ってくる例である。
この様にこの作品は様々なアイデアに溢れていて見ていて飽きない。
盲目の田中麗奈の演技も差別され孤独なチェン・ボーリンも見事で、作品として実に見応えがある。
★追記
この作品は、ミチルの視線で描くミチル編、アキヒロの視点で描くアキヒロ編、ふたりの視点が混在するミチルとアキヒロ編の3部で構成されている。