イングマール・ベルイマンの「野いちご」。
名誉博士号を得るほどの成功した人生を送ってきた老医師イーサクは自分の過去をふり返る。
彼は誰にも愛されたことのない人間だった。
好きだった従妹のサーラは自分の弟と結婚した。
サーラも最初はイーサクに惹かれていたのだが、イーサクがあまりにも立派すぎて自分にはついていけないと思い、彼のもとを去る。
詩や音楽、美しいものを聞かせてくれるイーサク。
人間の罪について話してくれるイーサク。
キスを明るい所でする様な破廉恥なことはしないイーサク。
そんな彼が逆にサーラには負担だったのだ。
サーラは昼間、野いちご摘みをしている自分に無理やりキスをしてくるイーサクの弟ジークフリドを選ぶ。
イーサクの妻も彼を愛さなかった。
彼女はイーサクの優しさ、善良さの中に冷たさを見る。
イーサクは自分を優しく扱ってくれるがそれは心から愛してくれているからではない。知識人として、常識人として、熱心なキリスト教信者としてそうする様にしなくてはならないから、優しさを演じているのだと見る。
例えば妻は浮気をした。
だがイーサクはそれを知ったが、穏やかに彼女を許した。
他人の罪を許すという信者としての顔が彼にそうさせたのだ。
妻は彼に怒り狂ってほしかったのかもしれない。
そしてイーサク。
彼はそんな人生をふり返って戸惑っている。
自分が良しとしてきたことがすべて他人の反感を買っている。
他人のために良しとしてきたことが否定され、「自己中心的」「無慈悲」「冷たい」「生きながら死んでいる」と言われてしまう。
彼は名誉博士号をもらったが、心の中は孤独だった。
彼はなぜ自分がそんなに孤独な晩年を迎えることになったしまったのか分からずにいる。
おそらく彼は知識や常識、信仰にとらわれ、「良き夫」「良き社会人」「良く信者」を演じることに一生懸命で、人の心を理解しようとしてこなかったのだろう。
おそらく弟のジークフリドの様に熱烈に恋心を伝えたり、笑わせたり怒らせたりしたことがなかったのだろう。
イーサクは夢の中で裁判にかけられる。
判決は有罪。
科せられた罰は「孤独」。
彼はヒッチハイクを3人の若者を乗せて車で旅をする。
そして別れる時、若者のひとり、その名もサーラという女性から「旅は楽しかった。大好きよ」と言われる。
しかし彼はその言葉を心から喜ぶことが出来ない。
本当はかつて愛して弟に奪われたサーラに同じことを言われたかったからか、人の言葉を素直に受け入れられなくなったからか彼は黙って微笑む。
もはや彼の魂は永遠に救われることがない。
ずっと孤独だ。
この作品はそんな人間の孤独を描いている。
晩年にあって自分の人生の無意味を考えている人間の姿を描いている。
そしてそれは何もイーサクだけのことではない、すべての人間に共通のことだとベルイマンは語っている。
人は自分自身にとらわれて結局は孤独だ。
誰かに愛されたいと思っている。
また人は決して自分の人生に満足することができない。
そんな時、人生の無意味を感じる。
それを救ってくれるのは共に歩んでくれる神だとベルイマンは語っている様だが、日本人にはなかなか捉えがたい思想だ。
名誉博士号を得るほどの成功した人生を送ってきた老医師イーサクは自分の過去をふり返る。
彼は誰にも愛されたことのない人間だった。
好きだった従妹のサーラは自分の弟と結婚した。
サーラも最初はイーサクに惹かれていたのだが、イーサクがあまりにも立派すぎて自分にはついていけないと思い、彼のもとを去る。
詩や音楽、美しいものを聞かせてくれるイーサク。
人間の罪について話してくれるイーサク。
キスを明るい所でする様な破廉恥なことはしないイーサク。
そんな彼が逆にサーラには負担だったのだ。
サーラは昼間、野いちご摘みをしている自分に無理やりキスをしてくるイーサクの弟ジークフリドを選ぶ。
イーサクの妻も彼を愛さなかった。
彼女はイーサクの優しさ、善良さの中に冷たさを見る。
イーサクは自分を優しく扱ってくれるがそれは心から愛してくれているからではない。知識人として、常識人として、熱心なキリスト教信者としてそうする様にしなくてはならないから、優しさを演じているのだと見る。
例えば妻は浮気をした。
だがイーサクはそれを知ったが、穏やかに彼女を許した。
他人の罪を許すという信者としての顔が彼にそうさせたのだ。
妻は彼に怒り狂ってほしかったのかもしれない。
そしてイーサク。
彼はそんな人生をふり返って戸惑っている。
自分が良しとしてきたことがすべて他人の反感を買っている。
他人のために良しとしてきたことが否定され、「自己中心的」「無慈悲」「冷たい」「生きながら死んでいる」と言われてしまう。
彼は名誉博士号をもらったが、心の中は孤独だった。
彼はなぜ自分がそんなに孤独な晩年を迎えることになったしまったのか分からずにいる。
おそらく彼は知識や常識、信仰にとらわれ、「良き夫」「良き社会人」「良く信者」を演じることに一生懸命で、人の心を理解しようとしてこなかったのだろう。
おそらく弟のジークフリドの様に熱烈に恋心を伝えたり、笑わせたり怒らせたりしたことがなかったのだろう。
イーサクは夢の中で裁判にかけられる。
判決は有罪。
科せられた罰は「孤独」。
彼はヒッチハイクを3人の若者を乗せて車で旅をする。
そして別れる時、若者のひとり、その名もサーラという女性から「旅は楽しかった。大好きよ」と言われる。
しかし彼はその言葉を心から喜ぶことが出来ない。
本当はかつて愛して弟に奪われたサーラに同じことを言われたかったからか、人の言葉を素直に受け入れられなくなったからか彼は黙って微笑む。
もはや彼の魂は永遠に救われることがない。
ずっと孤独だ。
この作品はそんな人間の孤独を描いている。
晩年にあって自分の人生の無意味を考えている人間の姿を描いている。
そしてそれは何もイーサクだけのことではない、すべての人間に共通のことだとベルイマンは語っている。
人は自分自身にとらわれて結局は孤独だ。
誰かに愛されたいと思っている。
また人は決して自分の人生に満足することができない。
そんな時、人生の無意味を感じる。
それを救ってくれるのは共に歩んでくれる神だとベルイマンは語っている様だが、日本人にはなかなか捉えがたい思想だ。