刑務所の同じ房にいるモレーナとバレンティーン。
モレーナはゲイ。ロマンスと空想の中に生きている。
バレンティーンは政治犯。偽善に満ちた現実を直視し、社会と闘っている。
物語はふたりが映画のストーリーへの感想を述べ合うことで進行していく。
対照的なふたりの考え方、感じ方を描いていく。
モレーナは先程も述べたとおり空想の世界に生きる男。
ゲイであるがゆえに白い目で見られ、母親以外愛されたことはない。好きだったレストランの男は妻子持ちで友情は向けられたが、愛情は得られなかった。
目が覚めるとひとりぼっち。
いつも「本物の男」を求めて待っている。
そんなモレーナは空想の世界に愛を求める。
ロマンス溢れる映画の世界に耽溺することで現実の憂さを晴らす。
一方、バレンティーンは現実に生きる男。
自分の天命は闘うこと。楽しみは二の次だ。主義に殉じる。
そしてモレーナを非難する。
「君はつまらない。社会の現実を知らない」
「君が好きだという映画はナチの映画だが、ナチが何をしたか君は知っているのか?」
「映画の中で空虚な人生を送っている」
「映画は君の自慰だ」
ふたりは対立する。
だが一方で理解し合う。
モレーナは「空虚な人生を送っている」と指摘されてその通りだと言う。
「母親以外に愛されなかった自分の人生は何もない人生だった。いつから自分の本当の人生が始まるんだろう」と悲痛な叫びをあげる。
それに対しバレンテーンも「実は自分も同じだ」と語る。
彼はアルタというブルジョアの娘を愛した。
しかし彼の思想を捨てるように言われ、彼女と別れた。
バレンティーンは今でも彼女を想い、別れたことを後悔している。
そんなお互いの理解・孤独がさらにふたりの絆を強くする。
やがてふたりは愛し合う様になる。
モレーナは実は仮釈放と引き換えに刑務所側のスパイをやらされており、バレンティーンから左翼組織の情報を聞き出すために同じ房に入れられていた。
しかしバレンティーンへの想いは彼にスパイであることを拒絶させた。
モレーナはバレンティーンから聞いた情報を話すことはなかった。
そしてラスト。
ふたりは別々の運命をたどることになる。
仮釈放されたモレーナはバレンティーンの組織の仲間の国外逃亡を助けようとする。バレンティーンの感化を受けたのか、自分も逃げて政治運動に参加しようとする。だが彼は警察に尾行されていて組織の仲間と接触した瞬間、撃たれて死んでしまう。
一方、バレンティーンは刑務所の拷問を受けて死んでしまう。空想の中で別れたブルジョワの娘と旅に出る夢を見ながら。
このふたりの死に方は興味深い。
空想に生きていたモレーナが現実の闘いの中で死に、現実に生きていたバレンティーンが空想の中で死んでいる。
ふたりは理解し合う中で互いに変わっていったのだ。
モレーナは現実に立ち向かう様になり、バレンティーンは空想に安らぎを見出すようになった。
人には空想と現実、両方が必要なのだ。
そしてモレーナが語った「蜘蛛女」のエピソードは、ふたりの人生を暗示している。
「蜘蛛女」のエピソードとはこうだ。
「南の島。蜘蛛に囚われた女がいる。彼女は蜘蛛の糸の中で外へ逃げ出すことができない。そこへ漂流してきた血だらけの男。蜘蛛女は男にキスをして涙を流す」
これを解釈すると、囚われている「蜘蛛女」とはモレーナ、バレンティーンに他ならない。
それは単に刑務所に囚われているというだけのことではない。
社会や思うようにならない現実に囚われているということだ。
そして流れ着いた血だらけの男もモレーナとバレンティーンだ。
ふたりはキスすることで涙を流し、お互いの心を慰めることが出来た。
そんなことを暗示している。
そして、それはモレーナとバレンティーンだけの暗示ではなく、人間すべての暗示かもしれない。
人は逃げ道のない現実(蜘蛛の糸)の中で人とのふれあい(キス)を求めている。
様々な暗示に溢れた作品だった。
モレーナはゲイ。ロマンスと空想の中に生きている。
バレンティーンは政治犯。偽善に満ちた現実を直視し、社会と闘っている。
物語はふたりが映画のストーリーへの感想を述べ合うことで進行していく。
対照的なふたりの考え方、感じ方を描いていく。
モレーナは先程も述べたとおり空想の世界に生きる男。
ゲイであるがゆえに白い目で見られ、母親以外愛されたことはない。好きだったレストランの男は妻子持ちで友情は向けられたが、愛情は得られなかった。
目が覚めるとひとりぼっち。
いつも「本物の男」を求めて待っている。
そんなモレーナは空想の世界に愛を求める。
ロマンス溢れる映画の世界に耽溺することで現実の憂さを晴らす。
一方、バレンティーンは現実に生きる男。
自分の天命は闘うこと。楽しみは二の次だ。主義に殉じる。
そしてモレーナを非難する。
「君はつまらない。社会の現実を知らない」
「君が好きだという映画はナチの映画だが、ナチが何をしたか君は知っているのか?」
「映画の中で空虚な人生を送っている」
「映画は君の自慰だ」
ふたりは対立する。
だが一方で理解し合う。
モレーナは「空虚な人生を送っている」と指摘されてその通りだと言う。
「母親以外に愛されなかった自分の人生は何もない人生だった。いつから自分の本当の人生が始まるんだろう」と悲痛な叫びをあげる。
それに対しバレンテーンも「実は自分も同じだ」と語る。
彼はアルタというブルジョアの娘を愛した。
しかし彼の思想を捨てるように言われ、彼女と別れた。
バレンティーンは今でも彼女を想い、別れたことを後悔している。
そんなお互いの理解・孤独がさらにふたりの絆を強くする。
やがてふたりは愛し合う様になる。
モレーナは実は仮釈放と引き換えに刑務所側のスパイをやらされており、バレンティーンから左翼組織の情報を聞き出すために同じ房に入れられていた。
しかしバレンティーンへの想いは彼にスパイであることを拒絶させた。
モレーナはバレンティーンから聞いた情報を話すことはなかった。
そしてラスト。
ふたりは別々の運命をたどることになる。
仮釈放されたモレーナはバレンティーンの組織の仲間の国外逃亡を助けようとする。バレンティーンの感化を受けたのか、自分も逃げて政治運動に参加しようとする。だが彼は警察に尾行されていて組織の仲間と接触した瞬間、撃たれて死んでしまう。
一方、バレンティーンは刑務所の拷問を受けて死んでしまう。空想の中で別れたブルジョワの娘と旅に出る夢を見ながら。
このふたりの死に方は興味深い。
空想に生きていたモレーナが現実の闘いの中で死に、現実に生きていたバレンティーンが空想の中で死んでいる。
ふたりは理解し合う中で互いに変わっていったのだ。
モレーナは現実に立ち向かう様になり、バレンティーンは空想に安らぎを見出すようになった。
人には空想と現実、両方が必要なのだ。
そしてモレーナが語った「蜘蛛女」のエピソードは、ふたりの人生を暗示している。
「蜘蛛女」のエピソードとはこうだ。
「南の島。蜘蛛に囚われた女がいる。彼女は蜘蛛の糸の中で外へ逃げ出すことができない。そこへ漂流してきた血だらけの男。蜘蛛女は男にキスをして涙を流す」
これを解釈すると、囚われている「蜘蛛女」とはモレーナ、バレンティーンに他ならない。
それは単に刑務所に囚われているというだけのことではない。
社会や思うようにならない現実に囚われているということだ。
そして流れ着いた血だらけの男もモレーナとバレンティーンだ。
ふたりはキスすることで涙を流し、お互いの心を慰めることが出来た。
そんなことを暗示している。
そして、それはモレーナとバレンティーンだけの暗示ではなく、人間すべての暗示かもしれない。
人は逃げ道のない現実(蜘蛛の糸)の中で人とのふれあい(キス)を求めている。
様々な暗示に溢れた作品だった。