安倍政権は憲法を無視して戦争準備を進めているが、その背後には米国の憲法
を否定 する法律家集団
2015.05.03 櫻井ジャーナル
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5月3日は「憲法記念日」だという。憲法は国の根本秩序に関する法規範で、国を
動かす立場にある人びとも拘束されることになっていると一般的には 信じら れ
ているが、そうした解釈を全面否定している法律家集団がアメリカには存在す
る。アメリカのエリート校として知られるエール大学、シカゴ大 学、ハーバー
ド 大学の法学部に所属する法律家や学生が1982年に創設した「フェデラリス
ト・ソサエティー」だ。
ネオコン/シオニストや巨大資本と緊密な関係があり、議会に宣戦布告の権限が
あるとする憲法はアナクロニズムだと主張、プライバシー権など を制限、拡大
してきた市民権を元に戻し、企業に対する政府の規制を緩和させることを目指し
てきた。この集団はジョージ・W・ブッシュ政権で司法を支配、 「愛国者法」を
制定して憲法の機能を停止させている。拷問にゴーサインを出したジョン・ユー
もフェデラリスト・ソサエティの熱心な活動家。このグループは日 本にも大き
な 影響力があり、安倍晋三政権が憲法を軽視、庶民を守る条項を無視、戦争へ
の道を驀進しているのは必然だ。
日本の現行憲法は1946年11月3日に公布され、その翌年の5月3日に施行された。
日本政府全権の重光葵と大本営全権の梅津美治郎が降伏 文書に調印し たのが
1945年9月2日、それから1年余りで憲法は作られたわけだが、その段階で堀田善
衛は上海で中国の学生から、「あなた方日本の知識人 は、あの天皇 というもの
をどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたとい
う。(堀田善衛著『上海にて』)
自国が侵略され、破壊、殺戮、略奪の犠牲になった人びとだけでなく、連合国の
内部には侵略の象徴だった靖国神社を破壊し、最高責任者だった 天皇の戦争責
任を問うべきだとする人が少なくなかった。そうした連合国の声が日本へ波及す
る前に「天皇制」を維持する憲法をアメリカの支配層は作ろうとし たわけだ。
アメリカを支配していたのはウォール街に象徴される巨大資本だが、1932年の大
統領選挙で当選したフランクリン・ルーズベルトは巨大企業の活動 を規制 し、
労働者の権利を拡大し、ファシストや植民地支配に反対するという看板を掲げて
いた。1933年から34年にかけて巨大資本は反ルーズベル トのクーデ ターを計画
している。そのルーズベルトがドイツ降伏の直前、1945年4月に急死、ホワイト
ハウスを巨大資本が奪い返していた。
その巨大資本を象徴する存在が金融機関のJPモルガンで、1923年の関東大震災か
ら日本に大きな影響力を持っていた。その代理人として送り込ま れたの がモル
ガン財閥総帥の親戚で、日本の皇室にも太いパイプを持っていたジョセフ・グ
ルーだ。1932年から42年まで日本にいて、戦後、日本を「右旋回」 (戦前回
帰)させたジャパン・ロビーの中心的な存在になる。
JPモルガンのようなアメリカの支配勢力にとって、日本のエリートは戦前から傀
儡。アングロ・サクソンをひとつと見れば、幕末から日本は彼らの影 響下に
あった。JPモルガンと最も親しかったと言われているのが井上準之助で、1920年
に対中国借款の交渉を担当したことが切っ掛けだったとい う。1929年に誕生し
た浜口雄幸内閣では大蔵大臣を務めている。アメリカのマサチューセッツ工科大
学で学んだ三井財閥の団琢磨もアメリカの支配 層と太いパ イプを持って いた。
大戦後、「日本の民主化」という体裁を整える必要はあったが、アメリカ支配層
は水面下で天皇制の維持を図っていた。そして、短期間のうちに 作られたのが
日本国憲法だ。アメリカに押しつけてもらったおかげで戦前の体制は生き残った
とも言える。
戦前の思想弾圧は思想検察や特高警察が中心で、特高を指揮していたのは内務省
の警保局長。その警保局長のひとりとして「横浜事件」をでっち上げた 町村金
五は戦後、衆院議員や参議院議員、北海道知事を務め、その息子である町村信孝
は文部大臣、外務大臣、官房長官に就任している。町村金五の上 司、内務次官
だった唐沢俊樹は戦後、法務大臣に選ばれた。特高官僚だった高村坂彦は戦後、
総理府審議室主任、内務省調査部長、調査局長を歴任、そ の息子は高村正彦だ。
戦後、国会議員になった人物には、元内務次官の灘尾弘吉、大達茂雄、館哲二、
湯沢三千男、元警保局長の古井喜実、大村清一、岡田忠彦、後藤 文夫、鹿児島
県特高課長だった奥野誠亮、警保局保安課事務官だった原文兵衛が含まれる。奥
村信亮は奥野誠亮の息子であり、警視庁特高部長を経て警保局長も 務めた安倍
源 基の息子、基雄も衆議院議員を経験した。裁判官や新聞社の人間も戦争責任
は事実上、問われないまま現在に至っている。
こうした状況の中、作られたのが天皇制を維持させた現行憲法だが、昭和天皇は
それでも不満を口にしている。憲法が施行された直後、天皇はダグラ ス・マッ
カーサーに対して憲法第9条への不安を口にしたという。(豊下楢彦著『昭和天
皇・マッカーサー会見』岩波現代文庫、2008年)
1945年9月には、アメリカによる沖縄の軍事占領が「25年から50年、あるいはそ
れ以上にわたる長期の貸与(リース)というフィクショ ン」のもとで おこなわ
れることを求めるという内容のメッセージを天皇は出している。(豊下楢彦著
『安保条約の成立』岩波新書、1996年)
そして、1950年4月に池田勇人がアメリカ政府に伝えたメッセージにつながる。
そこには、アメリカ軍を駐留させるために「日本側からそれ をオファするよう
な持ち出し方を研究」してもかまわないという内容が含まれていた。このメッ
セージは吉田茂からのものでなく、実際は昭和天皇からのもの だった可能性が
高い。(豊下楢彦著『安保条約の成立』岩波新書、1996年)
現在の憲法には「民主化」と「天皇制」という相反する側面がある。安倍晋三政
権はその民主化という要素を捨て去ろうとしているのだが、そうした 「改憲」
の動きに現在の天皇夫妻が抵抗しているのは皮肉だ。