西行法師の山家集にはなぜかここ73番出釈迦寺だけ長い注記をつけています。
「またある本に、曼荼羅寺の行道所へのぼるは、世の大事にて、手をたてたるようなり。大師のお経かきて埋ませおわしましたる山の峯なり。
坊の外は、一丈ばかりなる壇築て建てられたり。それへ日毎に登らせおわしまして、行道しおわしましける、と申し伝へたり。
巡り行道すべきように、壇も二重に築きまわされたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまわり着きて
めぐり逢はん ことの契りぞ ありがたき 厳しき山の 誓ひにみるも」
ここに引用している「ある本」は今は不明のようですがお大師様がいまの出釈迦寺奥の院のあたりで行道されたということはたしかでしょう。
さらに
「やがてそれがうえは大師の御師(釈迦如来)に逢ひまいらさせおわしましたる峯なり。『わがはいしさん』と、そのやまをば申すなり。
その辺の人は「わがはいし」とぞもうしならひたる。山文字をばすてて申さず。また筆の山ともなずけたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯のさきのとがりたるようなるを、もうし慣はしたるなめり。
行道所より構えてかきつきのぼりて、峯にまいりたれば、師にあわせおわしましたるところのしるしに、塔をたておわしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔ばかりなりける塔の跡と見ゆ。
苔はふかくうずみたれども石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申すにつきて
筆の山にかきのぼりても 見つるかな 苔の下なる 岩のけしきを」
とかいています。
「筆の山にかきのぼりて」というのはまさに感じがでています。2回目のときはお寺の人がおばあさんも上りますよというので荷物を下において上りましたが、鎖をつたっていくときあまりの高さに背中や足がゾクゾクします。これをお年寄りが上るのは普通では不可能ですが信仰心でおばあさんも上れるのでしょう。
捨身が岳禅定にはこの塔のあととおぼしきところに碑がたっていました。西行さんのときにはすでになくなっていたとはいえ高野山の大塔並みとはかなり大きな塔があったのでしょう。ただ敷地が大塔をたてるほどないようにも見えました。
西行さんは山家集に多く88所のお寺を詠んでいます。なぜかなつかしいひとです。