21日は福聚講の定例日でしたが護国寺のお参りの前に靖国神社へお参りに行ってきました。8月にお参りした時、「何度も来い」と言われた気がしてできるだけ靖国神社もお参りすることにしたのです。天気予報は雨と云う事でしたが雨は降らず涼しいお参り日和でした。靖国神社の空はいつ見上げても広々としていてしかも緊張感があります。英霊たちの霊魂がいますということはヒシヒシと伝わってきます。今回も境内は人波が途切れることなく続いていました。毎回ですが中国語を話す人たちがいるのには驚きます。またインドの方らしきひともいました。いずれにせよこうして多くの国の方々もお参りしてくださるのは有難いことです。国の為に殉じた人々を敬うのは万国共通の気持だということがよくわかります。社頭ではいつものように端によって般若心経をあげました。拝んでいると拝殿幕が揺れます。英霊にお経が届いたということかもしれません。
帰りは境内のゴミを拾いました。殆ど落ちてはいませんがそれでもチリ紙の残骸など数個を拾いました。ゴミはひろっても捨てる所がなくて困るのですが今回は丁度九段下駅にゴミ箱が見つかり助かりました。
社務所にあった九月の社頭掲示です。「妻への手紙。
陸軍曹長 島根正一命 埼玉県出身。昭和19年9月5日フイリッピンにて戦死。
『近く南の苛烈なる決戦場に向はんとす。父と初枝の顔に接し得なかったことは、至極遺憾の極み也。然れども案ずること無し。初枝は依然として現在の様に只管仕事に励み留守を護ってくれ。子無き父の寂しさを察する時、只、初枝一人をどんなにかとよりに思ってゐるかしらん。男児の本懐これに過ぐるものなし。必ずや立派な働きをして家名を挙げん。俺に万一に事ありたる時の賜金、その他扶助料等は一切、初枝を受け取りとして指定しある。もし大東亜の礎として散華したる時は「島根家」を受け継いでやってくれ。別に他には申し上げること無く、留守後の事を一切頼む。何時までも元気でやるやう、遥か南冥の空より祈る』」。
(最後の「南冥の空」というのは「陸海礼式歌「ああ南冥の空遠く 」から来ていると思われます。
「ああ南冥の空遠く
瞼を閉じて思い見よ
月照る夜も嵐の朝も
夜を日に次いで戦する
尊き兵のその辛苦
大君の為国の為
赤道越えてなお万里
砲火を浴びて怒涛を衝いて
山また海を大空を
断乎と進む忠魂よ
ああ大戦果幾度ぞ
ラジオの前に平伏せば
涙は燃えて感謝に燃えて
父母妻子一億が
誓って拝む太平洋」
帰りは境内のゴミを拾いました。殆ど落ちてはいませんがそれでもチリ紙の残骸など数個を拾いました。ゴミはひろっても捨てる所がなくて困るのですが今回は丁度九段下駅にゴミ箱が見つかり助かりました。
社務所にあった九月の社頭掲示です。「妻への手紙。
陸軍曹長 島根正一命 埼玉県出身。昭和19年9月5日フイリッピンにて戦死。
『近く南の苛烈なる決戦場に向はんとす。父と初枝の顔に接し得なかったことは、至極遺憾の極み也。然れども案ずること無し。初枝は依然として現在の様に只管仕事に励み留守を護ってくれ。子無き父の寂しさを察する時、只、初枝一人をどんなにかとよりに思ってゐるかしらん。男児の本懐これに過ぐるものなし。必ずや立派な働きをして家名を挙げん。俺に万一に事ありたる時の賜金、その他扶助料等は一切、初枝を受け取りとして指定しある。もし大東亜の礎として散華したる時は「島根家」を受け継いでやってくれ。別に他には申し上げること無く、留守後の事を一切頼む。何時までも元気でやるやう、遥か南冥の空より祈る』」。
(最後の「南冥の空」というのは「陸海礼式歌「ああ南冥の空遠く 」から来ていると思われます。
「ああ南冥の空遠く
瞼を閉じて思い見よ
月照る夜も嵐の朝も
夜を日に次いで戦する
尊き兵のその辛苦
大君の為国の為
赤道越えてなお万里
砲火を浴びて怒涛を衝いて
山また海を大空を
断乎と進む忠魂よ
ああ大戦果幾度ぞ
ラジオの前に平伏せば
涙は燃えて感謝に燃えて
父母妻子一億が
誓って拝む太平洋」