極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

三角草と大一大万大吉

2009年01月27日 | 近江歴史回廊


体調の翳りを押して買い物に 雪割りの草よ三角の花よ


琵琶湖大藪付近・多景島夕景


 
@多景島

今年も四番町スクエアの割烹『楽座』で、彦根市民の飲み水を守る
会の新年会を行った。約30年続いてきたのだが、合併浄化槽の放
流口の下水接続の可否に関する質疑が国会で成された程度で、倶体
的な活動はなく、会員の近況報告程度だ(※滋賀県では昭和45年
に建設省が作成した「琵琶湖周辺下水道基本計画策定のための調査
報告書」を基にして、昭和46年度に「琵琶湖周辺流域下水道基本
計画」を策定し、閉鎖性水域の水質保全、富栄養化防止の観点から、
「湖南中部」、「湖西」、「
東北部」、「高島」の4処理区からなる
琵琶湖流域下水道および流域関連公共下水道と、大津市単独公共下
水道を主体とした下水道整備を推進。



この計画には①過剰推定人口等の事業規模の最適化、②生活排水と
非家庭系産業廃水の合同処理、③最終処理水の集中放流リスクの3
点から反対してきたが、このうち①に関して2条管方式の採用、つ
まり負荷量に合わせて2段階に幹線配水管の敷設へと計画変更した。
生活を抱え地域住民の生命と安全を守る戦いは、個人の努力だけで
は如何ともしがたく、県内の尊い住民(=戦友)の犠牲により勝ち
取るものであることを身をもって知った。いま、それを知る者たち
も高齢化が進み、例えば歴代の岡本巌、鈴木紀夫滋賀大学々長のよ
うにひとり、またひとりと去っていく現実に立ち会っている昨今で
ある。残された者には、またこの運動体をやめるわけにもいかず(
終末処理水の緩慢な影響が心配される)、会の運営や名称を変えて
いこうと思い相談したが結局のところ先送りとなった。


出典:写真集「湖辺-生命の水系」より

※今森光彦ワールド


@佐和山城址

筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり  石田三成



近くのジムで泳ぎながら会の運営に迷ったが、「水辺」と「彦根」
「住人」の三位一体(
Trinuty)
として(?)、「彦根の水辺を守る
会」(仮称)に決めたのでこれで了承してもらおうと思う。これを
英語で
‘Hikone Citizen's  Credence Clearwater Revival’と呼んでやろう。
アメリカのロック・バンド
‘Creedence Clearwater Revival’をもじった
ことなどバレバレですね。 序でに
『三位一体モデル』(宗教学者
中沢新一
の良き解説者(桃知敏夫)
?によればキリスト教のトポロ
ジーとして父-子-聖霊の関係を示すだけなら問題はないだろうが
『三つの円を書くと、何でもわかる!「三位一体」の思考モデルは、
理解のためのメガネ。』(糸井重里による前書きの標題)というで
あるなら、これだけでは誤解を招くだろうと疑問を呈している。
中沢新一についてはまた別の機会で論考してみたい。

Creedence Clearwater Revival: Lodi Creedence Clearwater Revival

※「象徴の貧困」(ベルナール・スティグレール)ISBN-10-4794806914



‘三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城’

ところで、江戸時代には石田三成は悪人と見なされたが、明治に
入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀
頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙っ
て家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝
吹英二は三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に
依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』
を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行
われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

そして、佐和山城の築城は鎌倉時代の豪族・佐保氏とされ、戦国
時代には浅井氏の支城となり、元亀年間には浅井氏の家来である
城主磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げた。しかし1571年
(元亀2年)2月に磯野は降伏し、代わって織田氏配下の丹羽長
秀が入城し犬上郡支配の拠点とした。1582年(天正10年)6月の
本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智討伐に功があった
堀秀政に与えられ、その後、堀家の転封にともない堀尾吉晴が入
城した。さらに、1590年(天正18年、ただし入府時期には異説あ
り)には五奉行の一人の石田三成が入城した。三成は大規模な改
修工事を行い、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえた
つほどの城を築く。但し、奉行の任を全うするために伏見に滞在
することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
信長自身の近江の本拠地としても使用されたことからも佐和山城
が重要視されていたかわかる。

その佐和山城址の西側面した東海道本線との間に東北部流域下水
道の終末処理場があり今も拡張工事が進められている。淡海の自
然環境保護の最前線で亡くなられ方々のご冥福を改めてお祈りし
たい(合掌)。

 

ところで家紋の『大一大万大吉』の意味は「一人が万民の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福が訪れる」であり、‘One for all,
All for one.’
と同義とされる。このように彦根周辺は自然及び歴史
環境に優れた土地柄であり、小谷-長浜-佐和山-彦根-観音寺-
安土と鎌倉-戦国-江戸の時空を包括し、琵琶湖岸の水辺の自然環
境と中沢新一著の『古代から来た未来人 折口信夫』に内包された
宗教観或いは文化歴史環境の媒体(メディア)をパッケージにして
世界文化遺産として提案してみてはいかがなものかと思える(前述
した会合の出席者からは、もう少し大きくした‘マザー・レイク-
ファザー・フォレスト’を包括する案もあるが)。


京都大徳寺三玄院の墓



ミスミソウ(三角草)・スハマソウ(州浜草)・ユキワリソウ(雪
割草)はキンポゲ科ミスミソウ属。早春の花として、よく知られて
いる。「ミスミソウ」という名前より、「雪割り草」の名前のほう
が馴染みがある。「雪を割って出てくる」、名実ともに「春のこと
ぶれ」のような花。自然界にあっても、花色は豊富であるが、江戸
時代から愛好され、園芸種も多い。葉の形から「ミスミソウ」と「
スハマソウ」と区別されるが、同種である。三角草と洲花草がよく
知られる。 英語で 「Liver leaf(肝臓の葉)」とも呼ばれる。花言
葉は「信頼」。急な風邪で体調が悪いのに買い物にでかける小さく
とも、美しくも強い花である。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする