体調の翳りを押して買い物に 雪割りの草よ三角の花よ
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@多景島
今年も四番町スクエアの割烹『楽座』で、彦根市民の飲み水を守る
会の新年会を行った。約30年続いてきたのだが、合併浄化槽の放
流口の下水接続の可否に関する質疑が国会で成された程度で、倶体
的な活動はなく、会員の近況報告程度だ(※滋賀県では昭和45年
に建設省が作成した「琵琶湖周辺下水道基本計画策定のための調査
報告書」を基にして、昭和46年度に「琵琶湖周辺流域下水道基本
計画」を策定し、閉鎖性水域の水質保全、富栄養化防止の観点から、
「湖南中部」、「湖西」、「東北部」、「高島」の4処理区からなる
琵琶湖流域下水道および流域関連公共下水道と、大津市単独公共下
水道を主体とした下水道整備を推進。
この計画には①過剰推定人口等の事業規模の最適化、②生活排水と
非家庭系産業廃水の合同処理、③最終処理水の集中放流リスクの3
点から反対してきたが、このうち①に関して2条管方式の採用、つ
まり負荷量に合わせて2段階に幹線配水管の敷設へと計画変更した。
生活を抱え地域住民の生命と安全を守る戦いは、個人の努力だけで
は如何ともしがたく、県内の尊い住民(=戦友)の犠牲により勝ち
取るものであることを身をもって知った。いま、それを知る者たち
も高齢化が進み、例えば歴代の岡本巌、鈴木紀夫滋賀大学々長のよ
うにひとり、またひとりと去っていく現実に立ち会っている昨今で
ある。残された者には、またこの運動体をやめるわけにもいかず(
終末処理水の緩慢な影響が心配される)、会の運営や名称を変えて
いこうと思い相談したが結局のところ先送りとなった。
出典:写真集「湖辺-生命の水系」より
※今森光彦ワールド
@佐和山城址
筑摩江や芦間に灯すかがり火とともに消えゆく我が身なりけり 石田三成
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近くのジムで泳ぎながら会の運営に迷ったが、「水辺」と「彦根」
「住人」の三位一体(Trinuty)として(?)、「彦根の水辺を守る
会」(仮称)に決めたのでこれで了承してもらおうと思う。これを
英語で‘Hikone Citizen's Credence Clearwater Revival’と呼んでやろう。
アメリカのロック・バンド‘Creedence Clearwater Revival’をもじった
ことなどバレバレですね。 序でに『三位一体モデル』(宗教学者
中沢新一)の良き解説者(桃知敏夫)?によればキリスト教のトポロ
ジーとして父-子-聖霊の関係を示すだけなら問題はないだろうが
『三つの円を書くと、何でもわかる!「三位一体」の思考モデルは、
理解のためのメガネ。』(糸井重里による前書きの標題)というで
あるなら、これだけでは誤解を招くだろうと疑問を呈している。
中沢新一についてはまた別の機会で論考してみたい。
Creedence Clearwater Revival
※「象徴の貧困」(ベルナール・スティグレール)ISBN-10-4794806914
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‘三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城’
ところで、江戸時代には石田三成は悪人と見なされたが、明治に
入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀
頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙っ
て家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝
吹英二は三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に
依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』
を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行
われ、正確な三成像を描く模索が続いている。
そして、佐和山城の築城は鎌倉時代の豪族・佐保氏とされ、戦国
時代には浅井氏の支城となり、元亀年間には浅井氏の家来である
城主磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げた。しかし1571年
(元亀2年)2月に磯野は降伏し、代わって織田氏配下の丹羽長
秀が入城し犬上郡支配の拠点とした。1582年(天正10年)6月の
本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智討伐に功があった
堀秀政に与えられ、その後、堀家の転封にともない堀尾吉晴が入
城した。さらに、1590年(天正18年、ただし入府時期には異説あ
り)には五奉行の一人の石田三成が入城した。三成は大規模な改
修工事を行い、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえた
つほどの城を築く。但し、奉行の任を全うするために伏見に滞在
することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。
信長自身の近江の本拠地としても使用されたことからも佐和山城
が重要視されていたかわかる。
その佐和山城址の西側面した東海道本線との間に東北部流域下水
道の終末処理場があり今も拡張工事が進められている。淡海の自
然環境保護の最前線で亡くなられ方々のご冥福を改めてお祈りし
たい(合掌)。
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ところで家紋の『大一大万大吉』の意味は「一人が万民の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福が訪れる」であり、‘One for all,
All for one.’ と同義とされる。このように彦根周辺は自然及び歴史
環境に優れた土地柄であり、小谷-長浜-佐和山-彦根-観音寺-
安土と鎌倉-戦国-江戸の時空を包括し、琵琶湖岸の水辺の自然環
境と中沢新一著の『古代から来た未来人 折口信夫』に内包された
宗教観或いは文化歴史環境の媒体(メディア)をパッケージにして
世界文化遺産として提案してみてはいかがなものかと思える(前述
した会合の出席者からは、もう少し大きくした‘マザー・レイク-
ファザー・フォレスト’を包括する案もあるが)。
京都大徳寺三玄院の墓
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ミスミソウ(三角草)・スハマソウ(州浜草)・ユキワリソウ(雪
割草)はキンポゲ科ミスミソウ属。早春の花として、よく知られて
いる。「ミスミソウ」という名前より、「雪割り草」の名前のほう
が馴染みがある。「雪を割って出てくる」、名実ともに「春のこと
ぶれ」のような花。自然界にあっても、花色は豊富であるが、江戸
時代から愛好され、園芸種も多い。葉の形から「ミスミソウ」と「
スハマソウ」と区別されるが、同種である。三角草と洲花草がよく
知られる。 英語で 「Liver leaf(肝臓の葉)」とも呼ばれる。花言
葉は「信頼」。急な風邪で体調が悪いのに買い物にでかける小さく
とも、美しくも強い花である。