極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

フランス革命と墨子思想

2015年11月21日 | 時事書評

 

 

  

 

        自由とは、他者に害をなさぬあらゆることを行う属人的な権利である。
             それは自然を原則とし、正義を規則とし、法を防壁とする。その倫理
                的な限界はこの格言にある通りである――己の欲せざる所は人に施す
            なかれ。

                               自由・平等・友愛(1793年)

 

                                                  

 

 

 

【中国の思想: 墨子Ⅴ】
 
  公輸――墨子と戦争技術者※
  尚賢――人の能力を正当に評価せよ
 兼愛――ひとを差別するな※
  非攻――非戦論※
 節葬――葬儀を簡略にせよ
 非楽――音楽の害悪
 非命――宿命論に反対する
 非儒――儒家批判
 親士――人材尊重
 所染――何に染まるか

 七患――君子の誤り七つ
 耕柱――弟子たちとの対話
 貴義――義を貴しとなす
 公孟――儒者との対話
 魯問――迷妄を解く
 

※ シリーズとして掲載(途中も含め)した「編章節」はピンク色にしている。
  尚、段行末尾の※は、以前取り上げたことがあるもので、改めて記載するもの。

   魯問――迷妄を解く- / 『墨子』 

独善、思い上り、うわっつらだけの判断、目先の功利――君主や君子たちのこうした迷妄を、墨子はその
独特の比喩によって究明していく。

  ● よけいな干渉

  魯陽の文君が鄭国を攻めようとしていた。

  墨子は、思いとどまらせようとして、文君にいった。
 「もし魯陽の領内で、大貴族が小貴族を攻め、大氏族が小氏族を攻めて、人民を殺し、家畜、衣類、
 穀物などの財産を略奪する行為に出たとしたら、君主たるあなたは、どう処置なさいますか」
 「領内の人民は、すべてわたしの臣下だ。そういうことを仕出かす者があれば、わたしは、厳罰に処
  する」
 「そうでしょう。あなたが魯陽全休を領有しているように、天下はことごとく天の領有するところで
 す。もしあなたが軍隊を差し向けて鄭国を攻めるとすれば、天は怒って、あなたに罰を加えないでし
 ょうか」
 「先生はどうしてわたしが鄭を攻めるのをとめるのか。わたしは天の意志にしたがって鄭を攻めるの
 だ。鄭では二代にわたって君主が殺された。それを怒って、天は三年のあいだ凶作をもたらし、罰を
 加えたのだ。その鄭を攻めるのは、いわば天の罰を助けることだ」
 「あなたは、鄭で二代にわたって君主が殺され、それを怒って天が三年のあいだ不作をもたらし、罰
 を加えたとおっしゃる。そうだとすれば、天の罰はもう十分です。あなたまでが、
 『鄭を攻めるのは、天の意志にしたがったのだ』 
 といって軍隊を差しむけるのは、ちょうど、父親がドラ息子を鞭打っているのを見て、隣家の父親
 でが棒を手にし、

 「わたしは、おまえの父親の意志にしたがって打つのだ」
 というのと同じです。理不尽ではありませんか」


  魯陽文君將攻鄭,子墨子聞而止之,謂陽文君曰:「今使魯四境之內,大都攻其小都,大家伐其小
  家,殺其人民,取其牛馬狗豕布帛米粟貨財,則何若?」魯陽文君曰:「魯四境之內,皆寡人之臣
  也。今大都攻其小都,大家伐其小家,奪之貨財,則寡人必將厚罰之。」子墨子曰:「夫天之兼有
  天下也,亦猶君之有四境之內也。今舉兵將以攻鄭,天誅亓不至乎?」魯陽文君曰:「先生何止我
  攻鄭也?我攻鄭,順於天之志。鄭人三世殺其父,天加誅焉,使三年不全。我將助天誅也。」子墨
  子曰:「鄭人三世殺其父而天加誅焉,使三年不全。天誅足矣,今又舉兵將以攻鄭,曰『吾攻鄭也,
  順於天之志』。譬有人於此,其子強梁不材,故其父笞之,其鄰家之父舉木而擊之,曰:『吾擊之
  也,順於其父之志』,則豈不悖哉?」

  〈鄭では二代にわたって……〉『史記』鄭世家によれば、「哀公の八年に、鄭の人が哀公を殺して、
 声公の弟丑を立てた。これが共公である。……並ハ公の三十年に、共公が没し、子の幽公已が立った。
 幽公の元年、韓武子が鄭を伐ち、幽公を殺した。幽公の弟駘が立てられた。これが繻公である」とあ
 る。おそらく、この二つの事件を指しているのだろう。

※ 「魯に関する章が,魯君・魯陽文君の登場するものをはじめ12章にのぼることが了解される。また,
  公輸般は魯般とも呼ばれ魯の昭公の公子であるとの伝承もあり15),魯問篇全体
として魯地との深い
  関わりを有することが示唆される」(「墨子説話諸篇考 平林緑萌 2005.03.19)。 


Islamic State threatens attack on Washington, other countries Mon Nov 16, 2015


墨子の「兼愛」「非攻」、あるいは「貴義」を含めてもよいだろうが、フランス革命の自由・平等・博愛
(=友愛)と対置
し考えると「兼愛」には「自由・平等・博愛」が含まれ、「非攻」にも同様に3つの概
念が含まれている。ところが、フラ
ンスのそれは、「平等」でその概念の実態は異なるように思える。こ
こで思い出されるのが吉本隆明の思想で、
彼は生前、フランス革命のこの精神を啓蒙主義と国家主義の側
面から批判的であった。つまり、理想主義過ぎて危ういと。彼の「共同幻想論」をヒントに展開すると、
自由は個人幻想に、博愛は家族つまり対幻想の領域に、平等は個人×家族×共同体(国家あるいは社会)
の幻想領域に亘るものとして考えた時、半国家社会の中東アラブイスラム民族の準国家「イスラム国家」
を「反テロ国家戦」を宣言した旧宗主国のフランスが空爆、親欧州(巨大資本家)・イスラエル・アラブ
諸国に肩入れしイラク侵攻した米国が無人機などので空爆に加え、ソ連崩壊後ならず者国家に堕落した・
プーチンの
ロシの巡航ミサイル攻撃(あるいは戦車部隊投入準備中)などので、フランス革命の理想主
義は一時的?にしろかなぐり捨て準国家間戦争を回避できなかった時点で、墨子が「兼愛」「非攻」「貴
義」を掲げ徹底して反戦・非戦を貫いた行動(思想)と大きく異なる。「言うは易く行うは難し」されど、
「理想(貴義)なくして平和なし」
である。

 

● 折々の読書 『職業としての小説家』31

  そしていただいたメールの十分の一くらいに返事を書きました。質問に答えたり、ちょっとし
 た相談に乗ったり、メッセージヘの感想を書いたり・・・ 軽いコメントから、わりにあらたまった
  長い回答まで、様々な種類のやりとりがありました。その期間(数か月に及ぶこともありました
  が)は他の仕事をほとんど入れないで、しゃかりきに返事を書いたのですが、受け取った人の多
  くには、僕本人が書いた返事だとは信じてもらえなかったようです。僕の代わりに誰かが返事を
  書いたのだろうと思われたんですね。芸能人のファンレターの返事にそういう代筆が使われる例
 が多いらしく、きっと同じようなことをしているのだろうと。僕はそのホームページで「返事は
 間違いなく僕自身が書いています」と断っておいたんですが、なかなか額面通りには受け取って
 もらえなかったみたいです。

  とくに若い女性が「村上さんから返事をもらった」と喜んでいたら、ボーイフレンドから「お
 まえ馬鹿だな。そんなの本人がいちいち書くわけないじゃないか。村上だって忙しいんだから。
 誰かが代わりに書いていて、表向き自分が書いていると言ってるだけだよ」みたいに水を差され
 る状況が多かったみたいです。よく知らなかったけど、世の中には疑り深い人がけっこう多いん
 ですね(それとも実際に騙そうとする人が多いのか)。でも本当に自分でせっせと返事を書きま
 した。僕はメールの返事みたいなものを書くスピードはかなり速い方だと思いますが、それでも
 量が多いので、かなり大変な作業になりました。しかしやっていて面白かったし、いろいろと学
 ぶことも多かったです。

  それで、そういう風に現実の読者と直接メッセージのやりとりをしていて、ひとつすとんと腑
 に落ちたことがありました。それは「この人たちは総体として、僕の作品を正しく受け止めてく
 れている」ということです。一人一人の個別の読者を見ていけば、そこにはときとして誤解もあ
 りますし、考えすぎのところもありますし、あるいは「それはちょっと思い違いじゃないか」と
 いうところもなくはありません(すみません)。僕の「熱烈な愛読者」を自称する人々だって、
 個々の作品を取り上げれば、賞賛もあれば批判もあります。共感もあれば反撥もあります。寄せ
 られた意見をひとつひとつ見ていくと、なにしろてんでばらばらみたいに見えます。でも何歩か
 後ろに下がって、少し離れたところから全体像を見渡すと、「この人たちは総体として、とても
 正しく深く僕を、あるいは僕の書く小説を理解してくれているんだな」という実感がありました。
 細かい個別の出し入れはありますが、そういうものをすべて差し引きして均してみると、最終的
 には落ち着くべきところにきちんと落ち着いているということです。
 
  「うーん、なるほど、そういうことなのか」と僕はそのとき思いました。尾根にかかっていた
 霧がさらりと晴れるみたいに。そういう認識を得ることができたのは、僕としてはちょっと得が
 たい体験だったと思います。インターネット体験、というか。あまりにも重労働なので、同じよ
 うなことはたぶんもうできないんじゃないかと思いますが。
  僕は前に「架空の読者」を念頭に置いて書いていると言いましたが、それはこの「総体として
 の読者」ということとおおよそ同義であると思います。総体というとイメージが大きくなりすぎ
 て、頭の中にうまく収まりきらないので、それを「架空の読者」という単体にとりあえず凝縮さ
 せているわけです。



  日本の書店に行きますと、男性作家と女性作家が別のコーナーに分かれていることがよくあり
 ます。外国の書店ではそういう区別ってあまりないみたいですね。どこかにはあるのかもしれま
 せんが、少なくとも僕はこれまで目にしたことかありません。で、どうして男女で分かれている
 んだろうと僕なりにいろいろと考えてみたんですが、あるいは女性の読者は女性作家の書いた本
 を読むことが多く、男性読者は男性作家の書いた本を読むことが多いので、「だったら便利なよ
 うに、初めから売り場をわけてしまおう」ということになったのかもしれません。考えてみると、
 僕も女性作家の本よりは、男性作家の本を読むことの方がいくぶん多いみたいです。でもそれは
 「男性作家の本だから読む」というのではなく、たまたま結果的にそうなっているだけであって、
 もちろん女性作家にも好きな人はたくさんいます。たとえば外国の作家で言うと、ジェイン・オ
 ースティンとかカーソン・マッカラーズなんて人好きですね。作品は全部読んでいます。アリス・
 マンローも好きだし、グレイス・ペイリーの作品は何冊か訳しています。だからそんなに簡単に
 男性作家と女性作家の売り場をぽんと分けてもらっては困るよなという気がするんですが(だっ
 てそんなことをしていたら、読まれる本の男女分離度がますます深まるだけですから)、僕が意
 見を言ってもなかなか社会は耳を傾けてくれません。



  さきほどもちょっと中しあげましたように、僕個人について言えば、僕の書く小説の読者は男
 女の比率がだいたい同じくらいのようです。本格的に統計を取って調査したわけではないのです
 が、これまでいろいろと実際の読者に会って話をしてきて、それからさっきも言ったようにメー
 ルのやりとりなんかもして、まあ、おおよそ男女半々というところだな」という実感があります。
 日本においてもそうだし、外国においてもそうみたいです。うまくバランスがとれています。ど
 うしてそうなるのかはよくわかりませんが、これは素直に喜ぶべきことであるような気がします。
 世界の人口はだいたい男女半々なんですし、本の読者が男女半々であるというのは、おそらく自
 然で健全なことなんじゃないでしょうか。



  若い女性の読者と話をしていて、「村上さんは(六十代の男性なのに)どうして若い女性の気
 持ちがそんなによくわかるんですか?」と質問されたりすることがあります(もちろんそうは思
 わない人もたくさんいらっしゃるでしょうが、これは読者の意見のひとつの例として、とりあえ
 ずあげているだけです。すみません)。僕は自分に若い女性の気持ちがわかっているなんて考え
 たこともありませんので(ほんとに)、そんなことを言われるとけっこうびっくりしちゃいます。
 そういうときには「たぶん物語を書きながら一生懸命、その登場人物になろうと努力しているの

 で、その人が何をどう感じたり考えたりしているのか、だんだん自然にわかってくるんじゃない
 でしょうか。あくまで小説的に、ということですが」と答えることにしています。

  つまり小説という設定の中でキャラクターを動かしているときには、ある程度そういうことが
 わかるんだけど、それは「現実の若い女性をよく理解している」というのとは少し違うことです
 ね。生身の人のこととなると、残念ながらと言うべきか、僕にもなかなかそううまくは理解でぎ 
 ません。でも実際の生身の若い女性たち――の少なくとも一部――が僕の(つまり六十代半ばの
 おっさんの)書いた小説を楽しんで、そこに出てくる人物に共感しながら読んでくれているとし
 たら、それは僕にとって何より嬉しいことです。そういうことが起こるというのは実のところ、
 ほとんど奇跡に近いことなんじゃないかと思ったりもします。



  もちろん世間には男性読者向けの本があり、女性読者向けの本があってもいいでしょう。そう
 いうものもやはり必要です。でも僕自身は、自分の書いた本が男女の区別なく同じように読者の
 心を喚起し、動かしてくれればいいなと思っています。そして恋人同士が、男女のグループが、
 あるいは夫婦が、親子が、僕の本について熱心に語り合ってくれたりしたら、それに勝る喜びは
 ありません。小説というものは、物語というものは、男女間や世代間の対立や、その他様々なス
 テレオタイプな対立を宥め、その切っ先を緩和する機能を有しているものだと、僕は常々考えて
 いるからです。それは言うまでもなく素晴らしい機能です。自分の書く小説がこの世界の中で、
 たとえ少しでもいいからそういうポジティブな役割を担ってくれることを、僕はひそかに願って
 いるのです。

 ひとことで言ってしまえば――あまりにベタすぎて口に出すのはちょっと恥ずかしいのですが
 ――僕はデビューして以来一貫して読者には恵まれていたなと、しみじみ感じています。繰り返

 すみたいですが、僕は批評的には、長年にわたってけっこう厳しい立場に置かれ続けてきました。
 僕の本を出す出版社内でも、僕の書いたものを支持してくれる編集者よりは、どちらかといえば
 批判的な立場を取る編集者の方が数が多かったみたいです。そんなこんなで、いつも何かしら厳
 しいことを言われたり、冷ややかな扱いを受けてきました。なんだかずっと(強くなったり弱く
 なったりという時期的変動はあるものの)向かい風を受けながら、一人ぼっちで黙々と仕事をし
 てきたような気がするくらいです。

  それでも僕がめげたり落ち込んだりせずに済んだのは(たまにいささか消耗することはありま

 したが)、僕の本に読者がしっかりついてくれていたからだと思います。それも、こんなことを
 自分の口で言うのもなんですが、かなりクオリティーの高い読者です。たとえば読み終えて「あ
 あ、面白かった」と本をそのままどこかに置いて忘れてしまうのではなく、「これはどうして面
 白かったんだろう?」とあらためて考えてくれるような読者が多かったみたいです。そしてその
 一部は――それも決して少なくない数の人々です―――同じ本をもう一度読み直してくれました。
 場合によっては何十年という長きにわたって何度も。人によっては気の合う友だちにその本を貸
 して読ませ、お互いの意見や感想を交換し合います。そうやっていろんな方法で立体的に物語を
 理解し、あるいは共感のありようを確かめようとします。僕はそういう話をたくさんの読者の口
 から聞きました。そしてそのたびに深い感謝の念を抱かないわけにはいきませんでした。そうい
 うのって、著者にとってはまさに理想的な読者のあり方だからです(僕自身、若いときにはそう
 いう本の読み方をしていました)。

  そしてまた僕が少なからず誇りに思うのは、この三十五年ほどのあいだ本を出すたびに、読者
 の数が着実に増え続けてきたことです。もちろん『ノルウェイの森』が圧倒的に売れたりしたこ
 とはありましたが、そういう「浮動層」を含んだ一時的な数の変動とは別に、僕の新しい本が出
 るのを待って、出たら買って読んでくれるという「基礎層」の数は継続的に、着々と積み上げら
 れてきたように見えます。数字的に見てもそうですが、手応えとしてもそれははっきりと触知で
 きます。その傾向は日本ばかりでなく、外国にも確実に広がっています。面白いことに、日本の
 読者も海外の読者も、今ではだいたい同じような読み方をしているみたいです。

  言い換えれば僕は、読者とのあいだに太いまっすぐなパイプを繋ぎ、それを通してじかにやり
 とりをするシステムを、時間をかけて築き上げてきたということになるのかもしれません。それ
 はメディアや文芸業界といった「仲介業者」を(それほど)必要とはしないシステムです。そこ
 でなによりも必要とされるのは言うまでもなく、著者と読者の間のナチュラルな、自然発生的な
 「信頼の感覚」です。多くの読者に「村上の出す本なら、いちおう買って読んでみようか。損に
 はなるまい」と思ってもらえるような信頼関係がなければ、いくら太い直通パイプを繋いだとこ
 ろで、そういうシステムの運営は長続きしません。


 
  昔、作家のジョン・アーヴィングに個人的に会って話をしたとき、彼は読者との繋がりについ
 て僕に面白いことを言いました。「あのね、作家にとっていちばん大事なのは、読者にメインラ
 インをヒットすることなんだ。言葉はちょっと悪いけどね」。メインラインをヒットするという
 のはアメリカの俗語で、静脈注射を打つ、要するに相手をアディクト(ドラッグの常用者)にし
 ちゃうことです。そういう切ろうにも切れないコネクションをこしらえてしまう。次の注射が待
 ちぎれない関係を作ってしまう。これは比喩としてはとてもよくわかるんだけど、イメージがか
 なり反社会的なので、僕は「直通パイプ」という、より穏やかな表現を使いますが、でもまあ、
 言わんとすることはおおむね同じです。著者と読者が個人的に直接取引をしている(「お兄さん、
 どないですか。ええもんありまっせ」)――そういう親密なフィジカル感が欠かせないものにな
 ろます。

  ときどき読者から面白い手紙をいただきます。「新しく出た村上さんの新刊を読んでがっかり
 しました。残念ながら私はこの本があまり好きではありません。しかし次の本は絶対に買います。
 がんばってください」、そういう文面です。正直に言いまして、こういう読者が僕は好きです。
 とてもありかたいと思います。そこには間違いなく「信頼の感覚」があるからです。そういう人
 たちのために僕は「次の本」をしっかり書かなくちゃなと思います。そしてその本が、彼の/彼
 女の気に入ってもらえることを心から願うのです。ただし「すべての人を喜ばすわけにはいかな
 い」ので、実際どうなるのかは僕にもわかりませんが。


                           「第十回 誰のために書くのか?」

                            村上春樹 『職業としての小説家』

 

 


【生パスタ海老のトマトクリームの試食記】

セブンイレブンの電子レンジ用冷凍たこ焼きは申し分ないのでランチ用に1回(多い場合2回)ペースで
食べるようになった。ただ、ソースは付属するお好み焼き用のソースと花鰹は好みで加えたりしているが
、マヨネーズ、生おろしニンニクとオリーブオイルをブレンドしたソースをつくりたっぷりとこのソース
をつけて頂くが、これに前のソースを混ぜと花鰹をふりかけるアレンジもあり、これは自慢のソースとな
っている。ここでの技術要件は、表面及び内部の食感が良好で、冷めたり再加熱したときにも食感を保っ
こと。たこ焼きやお好み焼きを製造するためのミックス――穀粉類100質量部に対して、乾燥パスタ粉
砕物0.1~40質量部を含有することなどのが提案されている(事例:「特開2013-220033  たこ焼き用
または
お好み焼き用ミックス」)。



※ JP 2014-12028 A5 2014.4.24


今回は、同社の「生パスタ 海老のトマトクリーム」(318円/袋税抜き)。5百キロワットで5分10
秒で、
お気に入りのパスタ皿に移し替えればできあがりだし、そのまま容器のふたを取るだけでも頂ける
が、味は申し分ないし海老やブロッコリーも問題がないが、何だろう?とろっとした食感は必要だが、そ
のなかでも、ぱりっとした感じが欲しいのだが物足りない。製造は、麺類を調理する→調理した麺類を蒸
気加熱処理→蒸気加熱処理した麺類を水洗せずに急速凍結させ→凍結させた麺類を密封包装の順で包装容
器入り調理済み麺類の製造する(事例:「特開2014-012028  冷凍調理済みパスタ類の製造方法」「特許5
409700 冷凍食品および冷凍食品の製造方法」) 。問題の1つは加熱し蒸す時に麺が動かないことにある
(推測)、2つめは、容器物の一部を隔離し内圧上昇によるリスクを避けている(推測)ことによる。圧
力を逃がす加工方法は、簡単にいうと表面を疎水層加工オブラートのよう様な円形パッチを貼り付けてお
き、所定圧力以上になれば破裂できよう過去するか、廉価な専用の電子レンジ用容器にパスタを移し替え
凹凸形成した底部に乗せ、前記したパッチを遠洋の排弁(パッチ)を上蓋に貼り付ける加熱する。容器下
部の容器素材は、(1)マイクロ波の反射機能素材と(2)断熱保温機能素材を持ったものを使用する(
詳細は付記せず)。これにより麺に(1)動きをつくるとともに、(2)加熱ムラをなくす――こうすれ
ば、「しゃきとろ感」が得られるだろう。勿論、現行の容器を改善することもでできるのでそちらの方が
1手間ですみ望ましい。パスタが踊れば美味くなる!と。

特許 5409700 B2 2014.2.5




 

    ● 今夜の一品

クワトロワン・カラットのダイヤモンドが ボツワナで見つかった。1905年に南アフリカで見つかった
3106カラットの「カリナン・ダイヤ」に次ぎ、史上2番目の大きさになるという。裏庭に井戸深掘りて
みようか? ひょっしたら翡翠かなんかでてくるかもしれない。

 

  

コメント
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