極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

三都物語

2023年10月24日 | 環境リスク本位制

  
彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救ったと伝
えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。(戦国時代の
軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編のこと)の兜(かぶ
と)を合体させて生まれたキャラクタ。

【今夜最新作:村上春樹】

 Part 1 Chapter 11

  電車に乗ってきみの住む街に、きみに会いに行く。五月の日曜日の朝、
 空はまっさらに晴れ上がり、ひとつだけ浮かんだ白い雲は、滑らかな魚
 の形をしている。
  書館に行くと言って家を出た。でもぼくはきみに会いに行く。ナイロ
 ンのナップザックの中には昼食用のサンドイッチ(母が作ってくれた。
 しっかりラップに包まれている)と勉強の道具が入っているが、勉強を
 するつもりはない。大学の入学試験まであとフ年も残されていない。し
 かしそのことはできるだけ考えないようにしている。
  日曜日の朝の電車は乗客がまばらだ。座席にゆったり腰掛け、「永続
 的な」という言葉について考えを巡らせる。しかし高校三年生になった
 ばかりの十七歳の少年にとって、永続的なものごとについて考えを巡ら
 せるのは簡単なことではない。披に想像できる永続性の幅はかなり狭い
 ものだから。「永続的」という言葉から思い浮かべられるのは、海に雨
 が降っている光景くらいだ。
  ぼくは海に雨が降っている光景を目にするたびに、ある種の感動に打
 たれる。それはたぶん海というものが永劫に-あるいはほとんど永劫に
 近い期間にわたって-変化することのない存在であるからだろう。海の
 水は蒸発して雲になり、雲が雨を降らせる。永遠のサイクルだ。海の水
 はそうやって次々に入れ替わっていく。しかし海という総体が変化する
 ことはない。海は常に同じ海だ。手を触れることのできる実体であると
 同時に、ひとつの純粋な絶対的な観念でもある。
  ぼくが海に降りしきる雨を眺めながら感じるのは(たぶん)そういう
 種類の厳かさだ。
  からぼくがきみとの間の心の絆をもっと強いものにしたい、もっと永
 劫的なも のにしたいと考えるとき、頭に思い浮かべるのは、雨が静か
 に降りしきる海の光景になる。ぼくときみとは浜辺に座って、そんな海
 と雨を見つめている。ぼくらはひとつの傘の中にくっつくように収まっ
 ている。きみの頭はぼくの肩にそっともたせかけられている。
  海はとても穏やかだ。風らしい風も吹いておらず、小さな波が音もな
 く規則正しく浜辺に打ち寄せている。まるで下されたシーツが風にそよ
 いでいるみたいに。ぼくらはいつまでもそこに座り込んでいることがで
 きる。しかし、そこからぼくらがどこに向かおうとしているのか、どこ
 に向かえばいいのか、そのイメージが浮かんでこない。なぜならぼくら
 はその浜辺で、傘を差して二人で並んで座っていることで、もう既に完
 結してしまっているからだ。既に完結してしまったものが、そこから腰
 を上げてどこに向かえるだろう?
  あるいはそれが永劫というもののひとつの問題点かもしれない。これ
 からどこに向かえばいいのかわからないこと。しかし永劫を求めない爰
 にどれはどの値打ちがあるだろう?
  それからぼくは永劫について考えることを諦め、きみの身体について
 考える。きみの一対の胸の膨らみのことを考え、きみのスカートの中に
 ついて考える。そこにあるもののことを想像する。
  ぼくの指はきみの白いブラウスのボタンをひとつずつ不器用に外し、
 きみのつけている(であろう)白い下着の背中のフックをやはり不器用
 に外す。ぼくの手はそろそろときみのスカートの中に伸びていく。きみ
 の柔らかな大ももの内側に手を触れ、それから……いや、ぼくとしては
 そんなことを考えたくはない。本当に考えたくないのだ。でも考えない
 わけにはいかない。それは永劫性なんかに比べて遥かに想像力を働かせ
 やすい種類のものごとだから。
  でもそんなことをあれこれ想像しているうちに、ぼくの身体の一部は
 いつしかすっかり硬くなってしまう。大理石でできたみっともない形の
 穀物みたいに。ぴったりとしたブルージーンズの中で、勃起したぼくの
 性器はひどく居心地が悪い。早く通常の状態に戻さないことには、座席
 から立ち上がることもおぼつかないだろう。
  もう一度、雨降りと海のことを頭に思い浮かべようとする。そのしん
 とした風景はぼくの健康すぎる性欲を少しは鎖めてくれるかもしれない。
  目を閉じて気持ちを集中する。でも海辺のイメージはうまく脳裏に蘇
 ってこない。ぼくの意志とぼくの性欲は、それぞれ異なった地図を手に、
 べつべつの方向に進んでいくみたいだ。

  ぼくらは地下鉄の駅近くの、小さな公園で待ち合わせている。前にも
 何度か待ち合わせたことのある場所だ。小さな子供たちのためのいくつ
 かの遊具があり、水飲み場があり、藤棚の下にベンチがある。ぼくはそ
 のベンチに座ってきみを待つ。しかし約束の時刻になってもきみは現れ
 ない。それは珍しいことだ。きみはそれまでコ院も遅刻したことがなか
 ったから。というか、きみはいつだってぼくより早く待ち合わせの場所
 に来ていた。ぼくが約束の時刻より三十分早くそこに行くと、きみは既
 にそこでぼくを待っていた。
  「いつもそんなに早く来るの?」と尋ねたことがある。
  「あなたが来るのをこうして一人で待っているのが、なにより楽しい
 の」ときみは言う。
 「待っていることが?」
 「そうよ」
 「ぼくと会うことそのものより?」
  きみはにっこり笑う。でもその質問には答えない。ただこう言うだけ
 だ。
  「だって、こうして待っているあいだは、これからなにが起こるか、
 これからなにをするか、可能性は無限に聞かれているもの。そうでしょ
 ?」
  そのとおりかもしれない。実際に会ってしまえば、そんな無限の可能
 性は避けがたく、ひとつきりの現実に置き換えられていく。きみにはそ
 れがつらいのだろう。きみの言おうとすることは、理解できる。しかし
 ぼく自身はそんな風には考えない。だって可能性はただの可能性に過ぎ
 ない。
  実際にきみの隣にいて、きみの身体の温かみを肌に感じ、手を握った
 り、物陰でこっそり口づけしたりすることの方がずっと良い。
  でも約束の時刻から三十分経過しても、まだきみは姿を見せない。ぼ
 くは腕時計の針にひっきりなしに目をやりながら、不安に襲われる。き
 みの身に何か普通ではないことが起こったのではあるまいか? 心臓が
 乾燥した不吉な音を立てる。きみは急な病に倒れたか、それとも交通事
 故に遭ったかしたのだろうか? きみが救急車で病院に運ばれていくと
 ころを想像する。救急車のサイレンに耳を澄ませる。      ,
  あるいはきみは、ぼくがその朝の電車の中できみについて性的な想像
 に耽っていたことをどのようにしてか見当はつかないがI察知し、そん
 なみっともない真似をするぼくにもう会いたくないと思ったのではない
 か? そう考えると、恥ずかしさに耳たぶが熱くなる。そういうのって
 仕方ないことなんだ、とぼくは言葉を尽くしてきみに説明し、弁明する。
 それは大きな黒い大みたいなものなんだよ。いったんある方向に動き始
 めると、もう手の施しようがないんだ。どれだけ強くロープを引っ張っ
 ても----

  約束の時刻より四十分遅れてきみは姿を見せる。そして何も言わずに、
 ベンチのぼくの隣に腰を下ろす。遅れてごめんねとか、そんなことも一
 切口にしない。ぼくも何も言わない。ぼくらは口を閉ざしたままそこに
 並んで座っている。小さな女の子が二人、ブランコに乗っている。どち
 らが大きくブランコを漕げるか競っている。きみの息遣いはまだ荒く、
 額にうっすらと汗も浮かんでいる。たぶんここまで走ってきたのだろう。
 呼吸をするたびに、胸が盛り上がったり引っ込んだりする。
  きみは丸襟の白いブラウスを着ている。ぼくが電車の中で思い浮かべ
 たのとほぼ同じ、飾りのないシンプルなブラウスだ。そこにはぼくがさ
 っき(想像の中で)外したのと同じような小さなボタンがついている。
 そして紺色のスカートをはいている。ぼくが先ほど思い浮かべたものと
 は、色の濃さこそ少しばかり違うものの、おおよそ同じ見かけの紺のス
 カートだ。きみがぼくの想像したのと-妄想したという方が近いだろう
 か---ほとんど同じ服装をしていることにぼくは驚き、言葉を失ってし
 まう。そして同時にやましさのようなものを感じずにはいられない。で
 もそれ以上のことを思い浮かべないようにぼくは努力する。いずれにせ
 よ、簡素な白いブラウスと無地の紺色のスカートという身なりのきみは、
 日曜日の公園のベンチでまぶしく美しく見える。

                           この項つづく



   


再エネ革命渦論 183 アフターコロナ時代 184
技術的特異点でエンドレス・サーフィング-
   特異点真っ直中 ㊿+⑭

緑色蛍光蛋白質から赤色蛍光蛋白質を創出 10月19日、大阪大学と京都大学
は,緑色蛍光蛋白質(GFP)を改変して赤色蛍光蛋白質(RFP)を人工的に創
り出すことに世界で初めて成功。蛋白質 は、現代の生物・医学研究で欠く
ことのできないツールですが、組織や臓器といった厚い試料や長時間の観察
に必要な赤色の蛍光蛋白質は、天然RFP から作った明るさが不十分なものし
かなかったが今回、研究グループはアザミサンゴ※1 の GFP(AG) に着目し
、赤い光( 6 00 nm 以上)を発する蛍光蛋白質では最大 級 の量子効率を
持つ RFP につくりかえることに成功しました。また、立体構造も明らかに
し、赤色蛍光発色団形成に重要なアミノ酸 とその立体 配置を明らかにした。こ
れにより生体深部のイメージング に適した高性能 RFP の開発が期待される。


【展望】
不可能と思われていた緑色の蛍光蛋白質を赤色に変えることが可能であるこ
とを実証しました。今回作成したAR1.0 は、明るい蛍光を発するGFP 並みの
量子効率をもちますが励起光の吸収効率が悪いため、厚い試料の観察にはま
だ明るさが十分とはいえません。一方で、今回の研究により赤色発色団を形
成するために重要なアミノ酸や発色団周囲の環境が明らかにした。本研究は
、天然に広範に存在するGFP からのRFP の創成に道を開くもので、停滞して
いた明るく高性能なRFP の開発を一気に加速させる成果。このようなRFP を
用いれば、現在は難しい組織や臓器内といった生体深部のイメージングが生
きたままで可能になり、医学・生物学研究の進展に大きく寄与する。
【掲載論文】
タイトル:“Red fluorescent proteins engineered from green fluorescent proteins”
DOI:https://doi.org/10.1073/pnas.2307687120
掲載誌;Proceedings of the National Academy of Sciences

世界は非戦を! 世界に平和を!
自在行動概論 ④
パレスチナ問題とその歴史
「環境リスク本位制時代」を公言している私(たち)には、「パレスチナ問
題」は、「人類消滅」を加速させる「世界大戦」の説明要因の1つであるこ
とを踏まえ、その歴史をお温習いしておこう。
via jp.Wikipedia

 1967 - 1993:第一次インティファーダ
イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、シナイ半島、ヨルダン川西岸、ゴラ
ン高原を占領し、国際連合安全保障理事会は停戦決議を可決した。11月に国
連安保理でイスラエルの承認、イスラエルの占領地からの撤退、中東地域の
航海自由の保障、避難民問題の解決などを決議した(国際連合安全保障理事
会決議242(英語版))。しかし、イスラエルの占領地については、英文版と
仏文版で解釈が異なり、英文版では、必ずしもすべての占領地から撤退する
必要はないと解釈できる余地があった。いずれにせよ、イスラエル、PLO及び
アラブ諸国の双方共に、この時点では安保理決議242号に従わなかった。 占
領地では再び軍政が敷かれ(イスラエル国防軍軍律)、基本的にパレスチナ
人など非ユダヤ人住民が軍律に拘束された。イスラエル軍は、一旦は占領地
で被占領民の保護を定めた1949年のジュネーヴ第4条約に従うことを宣言した。
しかし、10月22日付の命令144で、(ヨルダン川)西岸地区、ガザ地区、ゴ
ラン高原では、IDFはジュネーヴ第4条約に制約されないと布告した。これら
の土地は、ジュネーヴ第4条約に規定された占領地には当たらないという、
イスラエル側の主張に基づく。

1973年10月にエジプトとシリアがイスラエルを奇襲し、第四次中東戦争(ヨ
ム・キプール戦争、ラマダーン戦争)が勃発した。石油輸出国機構10カ国は
イスラエルを占領地から撤退させるまで石油生産の5%以上を毎月削減すると
の決議を可決し、オイルショックが起こった。国際連合安全保障理事会は停
戦決議を可決した。 1974年10月、PLOが国連でオブザーバーの地位を獲得し
た。 アメリカによる和平交渉により1978年9月にキャンプ・デービッド合意
が成立し、1979年3月にエジプト・イスラエル平和条約が調印された。これ
によりシナイ半島がエジプトに返還され、「土地と平和の交換(英語版)」
と称された。PLOやアラブ諸国は、合意をエジプトの「裏切り」と強く反発し、
エジプトはアラブ連盟を追放された(1990年復帰)。

1980年3月1日、国連安保理で、イスラエルが1967年以降、アラブ側の領土を
占領し、またユダヤ人入植地を建設した行動を全て無効とし、速やかな撤退
の要求の国際連合安全保障理事会決議465(英語版)を採択した[26]。この時
はアメリカも賛成に回ったが(棄権するつもりだったが間違えたと声明)、
イスラエルはこの決議を無視した。また、7月にイスラエルは「統一エルサレ
ムはイスラエルの不可分かつ永遠の首都である」とするエルサレム基本法を
制定し、東エルサレムの恒久的併合を宣言した。 1981年、アメリカのロナル
ド・レーガン大統領は、ユダヤ系ロビーやイスラエルの反対を押し切って、
サウジアラビアに武器を輸出した。1978年4月にシナイ半島がエジプトに返還
された。6月にイスラエルがレバノンに侵攻しレバノン戦争が起こった。PLO
はベイルートから撤退した。9月にアメリカが中東和平案を提示し、アラブ首
脳会議でフェズ憲章が採択された。 1987年にイスラエル占領地でパレスチナ
人の抵抗運動である(第一次インティファーダ)が発生した。12月14日、反
イスラエル・反PLOを主張する、抵抗運動組織ハマースが発足した。 1988年
7月31日にはヨルダンがイスラエル占領下のヨルダン川西岸地区への領有権
主張を取り下げ、PLOが唯一正統なパレスチナ人の代表であると宣言する。
同年11月15日、第19回パレスチナ民族評議会(PNC)でパレスチナの独立宣
言を行なった。
前日の11月14日には、安保理決議242号、338号に基づく政治解決を求める決
議を採択した。これにより、パレスチナの主流派は安保理決議242号を承認し、
イスラエルの承認を前提として(二国家解決)、同決議に基づく国境線によ
るパレスチナの領有権を求める路線が確立した[。
1990年、湾岸戦争でイラクがクウェートに侵攻した。イラクのサッダーム・フ
セイン大統領は、イスラエルのパレスチナ占領を引き合いに出し、クウェー
ト占領を正当化しようとした。かねてからフセインと親交のあったPLOのヤ
ーセル・アラファート議長(パレスチナの大統領)はイラクを支持したため
クウェートを含むアラブ諸国の反発を買い、援助も削減あるいは打ち切られ
苦境に陥った。

1993 - 2000:オスロ和平プロセス
1991年10月、マドリードで中東和平会議開催。しかし、PLO指導部はイスラエ
ルの反対で排除され、パレスチナはPLO色の薄い人物を、ヨルダンとの合同代
表団という形で参加させたに留まった。
1993年9月13日調印、イスラエルとPLO、パレスチナ人の暫定自治の原則宣言
にワシントンD.C.で調印(写真参照)(オスロ合意)成立。
その結果、1994年5月よりガザ・エリコ先行自治が開始され、自治政府も組織
されはじめた。PLOのアラファート議長とイスラエルのイツハク・ラビン首相、
シモン・ペレス外相がノーベル平和賞を受賞した。 1995年9月24日、ワシン
トンで「暫定自治拡大合意(英語版)」(オスロ合意Ⅱ)がPLOとイスラエル
の間で調印された。ヨルダン川西岸は、パレスチナ自治政府が治安・行政の
双方を担当する「A地区(日本外務省の呼称は「A地域」、以下同)」、パレス
チナが行政、イスラエル軍が治安を担当する「B地区」、イスラエル軍が治安
・行政共に担当する「C地区」に分割された。「C地区」は、将来の交渉で順
次、パレスチナへの移管が行われる計画だった。

1996年1月にパレスチナ評議会の選挙が行われた。その矢先の1995年11月4日
に和平に尽力したイスラエルのラビン首相はテルアビブにおいてカハネ主義
者のイガール・アミルに射殺された。イスラエルでは原則として労働党が「
和平推進」(エルサレムとヨルダン川西岸の戦略的に重要な土地を併合)、リ
クードが「和平反対」(パレスチナ全土を併合)とみなされてはいる。しかし
イスラエルがシナイ半島からの撤退に基づく対エジプト和平を推進したのは
右派政党のリクードのメナヘム・ベギン政権であった。また、パレスチナ暫
定合意や対ヨルダン和平を推進したのは左派政党の労働党のラビン政権では
あるが、ラビンは政界で活動する以前はイスラエル軍の参謀総長として第三
次中東戦争を指導していた。 1996年、イスラエルに対する、アラブ・イスラ
ム原理主義者(ハマース、イスラーム聖戦、ヒズボラ)によるテロが激化。

1997年1月17日、ヘブロン・プロトコル、自治拡大。
1998年10月23日、ワイリバー覚書、自治拡大。
2000年7月には、キャンプ・デービッド2000年サミット(英語版) 首脳会談
後のアラファート議長が、イスラエル側の「西岸地区の91%の支配権を認め
る、ただしこれとは別に西岸地区の1割の面積を当分の間(6〜21年)イスラ
エル側の支配下に置く」とする和平案を拒否した。イスラエルのエフード・
バラック首相は「寛大な申し出を拒否した」と非難した。
パレスチナ側が拒否をした理由として、一つは単純に準備不足があった。ア
ラファートはアラブ諸国と協議の後に結論を出そうとしたが、イスラエルと
アメリカは本会談で結果を出そうと結論を急がせていた。もう一つは、パレ
スチナ側は、安保理決議242及び338の受諾自体を譲歩と認識していた。しか
しイスラエルは、安保理決議242に基づく領土の「譲渡」を完全に行う必要は
なく、オスロ合意でパレスチナ側も受け入れたと認識した、認識のズレがあ
った。その結果、東エルサレムの帰属やパレスチナ難民帰還問題など、各論
で折り合うことができなかった。また、航空交通管制や水利権において、イ
スラエル側が現状維持を主張したことも対立点となった。
:インティファーダとは、アラビア語の動詞اِنْتَفَضَの動名詞に関連する名
詞で、「揺れ、震え;覚醒、目覚め;蜂起、反乱」の意。現代では主に民衆
蜂起の意味で用いられている。英字表記はIntifada, Intefadah, Intifadahなど

2000 - 2005:第二次インティファーダ
「ガザ地区等撤退」および「ヨルダン川西岸地区の分離壁」も参照
2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ
)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。 双方の市民には平和運動や交流
活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パ
レスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としているが、武力の弱さ
をおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を
頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。 一方で、イスラエル政府も占領中のヨル
ダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用
している。イスラエル人の入植者達がパレスチナ人住民のオリーブ畑に放火
した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレス
チナ人住民はイスラエル軍も放火に加担していると証言している。

2000年9月30日、アル・アクサ・インティファーダ(第二次インティファーダ
)発生によりPLOとの和平交渉が決裂した。 双方の市民には平和運動や交流
活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動がある。パ
レスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としているが、武力の弱さ
をおぎなうためとしてテロ戦略を採用する武装組織も存在し、若者や女性を
頻繁に自爆テロ攻撃に使っている。 一方で、イスラエル政府も占領中のヨル
ダン川西岸地区に入植者を送り込み、一般市民を不法な領土拡張政策に利用
している。イスラエル人の入植者達がパレスチナ人住民のオリーブ畑に放火
した後、畑を耕して自分たちの土地として既成事実化している。またパレス
チナ人住民はイスラエル軍も放火に加担していると証言している。

最近ではパレスチナ人の自爆テロは、イスラエル側が建設した分離壁(下記
参照)によって困難になっており、パレスチナの各武装組織はカッサームロ
ケットによる砲撃に重点を移しつつある。その結果、イスラエルの民間人に
多数の犠牲者がでている。これに対しイスラエル側は攻撃ヘリコプターによ
る爆撃、ブルドーザーによる住居破壊(イスラエル軍のブルドーザーは、米
国キャタピラー社の特注品である)、戦車による砲撃などでパレスチナに反
撃している。 また、2002年4月にイスラエル軍のジェニーン地区侵攻でパレ
スチナ人の虐殺が行われたとパレスチナが主張したが、イスラエルはそれを
否定し、国連の査察受け入れを拒否して国連査察団が現地に入ることなく解
体してしまうなど、イスラエルは国連や第3国からの介入を基本的に拒否して
いる。
2002年2月にサウジアラビアのアブドゥッラー皇太子がイスラエルが全占領地
から撤退すれば、国家として承認するという中東和平の提案をした。
3月27日には、アラブ連盟で「アラブ和平イニシアティブ(アラブ和平構想)
」の採択が行われ、満場一致で可決された。主な内容は以下である。

1.イスラエルは、1967年6月4日以降の占領地から撤退する(国連安保理決議2
 42に基づく要求)
2.イスラエルは、国連総会決議194に基づく、パレスチナ難民問題の解決を行う
3.イスラエルは、1967年6月4日以降の、パレスチナ自治政府領に相当する占
 領地をパレスチナに返還し、東エルサレムをパレスチナの首都と認める
4.以上の代償として、アラブ諸国はイスラエルとの和平協定に署名し、地域
 の全ての国の平和を達成する
5.同時に、アラブ諸国はイスラエルとの国交正常化に踏み切る

同年6月、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領がパレスチナ暫定国家建
設を支持し、イスラエルが入植活動を停止し、パレスチナがテロ組織を解体
するという 中東和平構想を発表した。 2003年4月、アメリカ、EU、ロシア
国連の4者により中東和平案のロードマップがイスラエルとパレスチナ自治政
府に提示された。10月に国連総会で分離壁の建設中止についての決議が採択
された。

2005 - 2008:アッバース時代のはじまり
アラファート議長の死後、2005年1月の自治政府議長選ではマフムード・アッ
バースが当選した。しかし、選挙中に武装部門のファタハに担ぎ上げられた
り、その一方で武装闘争は誤りであったと述べるなどという言動もあったの
で過激派への対策がどのようになるかは不透明である。 2005年4月には、ア
メリカのブッシュ大統領がイスラエルのアリエル・シャロン首相との会談で
2005年8月を目処にイスラエル側がガザ地区の入植地からの撤退を予定する一
方でエルサレムに隣接しているヨルダン川西岸地区最大のマーレ・アドミム
地区への入植地拡大を計画していることに対し、「中東和平の行程表(ロー
ドマップ)に反する」として、強い懸念を示した。シャロンと「約束の地」
への思い入れが強い宗教右派の間には対立が存在し、更には入植者が強い抵
抗を示す中で、治安部隊によるガザからの退去作業が8月17日より開始され
ガザの入植地は解体された。しかし、ヨルダン川西岸地区の入植地は明け渡
さず、逆に新たな入植地の拡大を進めている。

さらに、2005年7月7日に起こったロンドン同時爆破事件では56名が犠牲とな
った。 アラファート議長の死後、2005年1月の自治政府議長選ではマフムー
ド・アッバースが当選した。しかし、選挙中に武装部門のファタハに担ぎ上
げられたり、その一方で武装闘争は誤りであったと述べるなどという言動も
あったので過激派への対策がどのようになるかは不透明である。 2005年4月
には、アメリカのブッシュ大統領がイスラエルのアリエル・シャロン首相と
の会談で、2005年8月を目処にイスラエル側がガザ地区の入植地からの撤退
を予定する一方でエルサレムに隣接しているヨルダン川西岸地区最大のマー
レ・アドミム地区への入植地拡大を計画していることに対し、「中東和平の
行程表(ロードマップ)に反する」として、強い懸念を示した。シャロンと
「約束の地」への思い入れが強い宗教右派の間には対立が存在し、更には入
植者が強い抵抗を示す中で、治安部隊によるガザからの退去作業が8月17日
より開始され、ガザの入植地は解体された。しかし、ヨルダン川西岸地区の
入植地は明け渡さず、逆に新たな入植地の拡大を進めている。 2006年1月25
日投開票のパレスチナ総選挙で、ハマースが第一党になった。 同年3月29日、
アッバース議長の元でハマースのイスマーイール・ハニーヤ内閣が成立した。
ハマースをテロ組織と指定するEU、アメリカ、日本などは援助を差し止め、
ファタハとハマースの武装衝突が激化するなど、パレスチナの混迷が続いて
いる。 6月27日、アッバース議長とハマースのハニーヤ首相が1967年の国連
停戦決議に基づく国境線の合意(事実上のイスラエル承認)で合意した。し
かし、イスラエルはパレスチナ人に対する予防拘禁の強化を図る一方、兵士
の拉致を理由に逆にガザ侵攻を拡大。ヨルダン川西岸地区では閣僚を含む立
法評議員(国会議員に相当)、地方首長を約80人を拉致し、評議会を機能停
止に追い込んだ。カタールは国連安保理にイスラエルのガザ撤退および閣僚
等の解放を求める決議案を提出した。しかし、7月13日、アメリカの拒否権で
否決されている。また、同月12日から13日にかけて、日本の小泉純一郎首相
はイスラエル、パレスチナを訪問し、イスラエルのエフード・オルメルト首
相、パレスチナのアッバース議長と会談。しかしハニーヤ首相と会おうとは
しなかった。小泉首相はヨルダンを含めた4ヶ国協議を提案し、それぞれの賛
同を得た。しかし、イスラエルにガザ侵攻への自制を求めた件については「
イスラエルの立場は明確だ」と退けられている。また、ハマース政権成立後
では初めて、パレスチナに対する約3,000万ドルの人道支援を発表した。ただ
し、直接援助はイスラエルの反発に配慮し行わず、国際連合世界食糧計画な
どを介した形となる。

                            この項つづく

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【自爆テロの歴史】
自爆テロ(じばくテロ、英: suicide terrorism kamikaze)とは、犯人自身も死
亡する事を前提としたテロリズムであり、自分が死に、また仲間も巻き添え
にすることを承知の上で殺人・破壊活動などを行う。攻撃の内容がテロリズ
ムに当たるのかどうかを特に問わない場合はsuicide attack “自殺攻撃”と呼
ばれている。 ここでは爆弾を用いたものに限らず、犯人自身が必然的に死ぬ
ことを承知の上で行う攻撃やテロリズム全般を扱う。
【概要】
一般に、「自爆テロ」と日本語に訳されているのは、英語で「suicide terrorism
もしくは世界共通語「kamikaze カミカゼ」と呼ばれているものである
通常、人というのは、自身の身を守るもので、テロリズムを行う犯人も、計
画を立てる時、何かを攻撃するにしても自分は(自分だけでも)生き残ろう
とするが、自爆テロというのは、そうした常識に逆らうもの、常識を超えた
ものである。 世のさまざまな警備策(セキュリティ)というのは一般に人は
自分の身を守るものだという前提の上に組み立てられていることが多い。た
とえば、逃げ道がない場所では犯行はしづらいだろう、とか、人が何らかの
物を床に置いてそそくさとそれから遠ざかるように立ち去ったら(その段階
になって)人の命に危険を及ぼす可能性のある不審物と見なして調べたり除
去する、とか、もしも怪しげな人物がいたら心理的に威嚇すれば遠ざけるこ
とができる(はずだ)、といったような警備上の常識的な判断の中にも、“
犯人も(通常の人のように)自身を守ろうとするものだ”という前提が暗黙
に置かれている。 通常、誰かが爆弾を爆発させて誰かを攻撃する計画を
立てる場合でも、通常は当然のように「起爆させる犯人自身が生き残って逃
走する」こと大前提に置いた上で考えるもので、その結果、タイマーを作動
させて爆弾の遠くに離れるか、あるいは遠隔操作で起爆させるか、ドローン
などで目標まで爆弾を運ばせてから爆発させる必要がある、と考えることに
なる。ところが、犯人や仲間が死ぬことを承知の上で行動するとなると、そ
うしたタイマーや遠隔起爆装置やロケットの類は必要ない、ということにな
り、犯人は単純に犯行の場で自身の手で爆弾を起爆させればいい、というこ
とになる。すると、通常のセキュリティ(防御、警備)の常識・前提が覆っ
てしまい、警備する側の常識的な想定を超えたものになり、警備に一種の「
盲点」や「穴」のようなものが出現することになる。対処する側は時に自身
の命をかけることになる。 自爆テロというのは、貧しくて高度な教育を受け
ていない人のグループでも実行でき、金のかかる電子装置などを用意しなく
ても確実に攻撃目標を攻撃できてしまうので『貧者のスマート爆弾』とも言
われている。もともと英語のsuicide bombing(自爆)を日本語訳した言葉だ
が、原語が軍施設や兵士に向けられた攻撃・破壊活動も含む。
suicide bombingを機械的に「自爆テロ」と訳したことによる混乱も見られる
(#用語の相違参照)。
はじめに自爆テロ戦術が多発したのは、スリランカのタミル・イーラム・解
放の虎(LTTE)であり、シンハラ族とタミル族双方の民族紛争と虐殺の中で
生み出された戦法であった。1990年代は襲撃と並んで闘争手段の一つとなり
、女性の自爆者も出ている。 中東地域では1983年4月18日のベイルートにお
けるアメリカ大使館爆破事件でイスラムシーア派組織ヒズボラが実行して以
後、イスラム過激派(当初は主にシーア派)の常套的な攻撃方法として定着
する。以降、チェチェン紛争、パレスチナの第二次インティファーダ、アメ
リカ同時多発テロ、イラク戦争を経て、イスラム過激派による自爆テロの発
生件数と犠牲者は増加の一途をたどっている。 特にイラク戦争以降、イスラ
ム教徒のあいだで火に油を注ぐように、反欧米感情が高まり、イスラム世界
を中心に世界各国に拡散する傾向にある。たとえば、今まで自爆テロのなか
ったヨーロッパでも、2004年のマドリード列車爆破テロで実行犯の一部が逮
捕のさい自爆したほか、2005年のロンドン・バス爆破テロでイスラム系住民の
若者が自爆。アフガニスタンにおいては、ソ連のアフガニスタン侵攻や軍閥
内戦時代にもほとんど見られなかった自爆テロが、近年になって首都カーブ
ルなどで頻発している。いずれもイラク戦争で伸張したアルカーイダの影響
が大きいと指摘されている。最近では、テロリストがストリートチルドレン
などの子供を騙し荷物(爆弾)を兵士に渡した所でタイマーなどで爆発させ
るといった手段を用い、さらに従順で洗脳しやすい子供や貧困層がよく狩り
出される。他にも、自爆死したテロリストの家族について、家族の自爆死の
精神的ショックを利用してマインドコントロールを行い、絶望感と攻撃対象
への憎悪を煽り、その家族をさらに自爆テロ犯に仕立て上げる様な事も行わ
れている。ただし、しばしば行われる誤解は、自爆テロが宗教的観点に基づ
くというものや、貧困層の人間や子供を使われることが多いというものだが
、実際には政治基盤が悪く官僚や党の権力が弱い、国民的な民主的国家にお
ける世論の操作に用いられるものであり、宗教よりは精神病理に関係がある
事が認められている。また、チェチェンやクルド系のテロ以外では成人男性
が多く、中産階級や大学出の人間が大半である。 イラク戦争の中で殺害され
た戦場ジャーナリスト橋田信介の妻、橋田幸子が新宮市での講演で、アラブ
人と現代の日本人の思想の違いを説明している。これによると、イスラム社
会の諺に『人の命は山よりも重く、羽根よりも軽い』という『愛する人を殺
された悲しみは山より重く、あだ討ちのための自分の命は羽根より軽い』と
いうものがあり、この思想が自爆テロを引き起こす根底として存在している
という。これは浄土宗の開祖・法然の『あだ討ちが美徳ならば憎しみの連鎖
はいつまでも続き、何も生まれないと思う』という思想と正反対のものでも
あるとしている。 近年の世界的なテロの傾向として、自爆テロ戦術はイスラ
ム過激派など「自爆して死んだとしても、異教徒を殺して死ねば殉教者とし
て天国へ行ける」という宗教的な動機が多い。1960年代から1970年代にかけ
て世界中で多発したハイジャックなどのテロは左翼過激派によるものが多く、
「生きて政権をとる」という目標があればこそ、自爆テロは最後の手段であ
り、人質をとって獄中同志の釈放や身代金支払いなどの要求を押し通す場合
においても、不特定多数を巻き添えにしながら自らの命を捨てる行為は忌む
べきものであり、なるべく避けようとする傾向があった。しかし、2019年に
コロンビアのボゴタで警察学校に爆発物を搭載した日本製の四輪駆動車が突
入し、22人が死亡(実行犯を含む)した事件では、同国の左翼ゲリラ「民族
解放軍(ELN)」が犯行声明を出した。これまで同国のテロでは、ゲリラが
重要施設や石油パイプラインを爆破し、治安機関要員を狙った即席爆発装置
による攻撃が主流であったが、ゲリラが自爆テロも辞さない方針を示したこ
とで、今後テロ対策の見直しを迫られる可能性がある。

自爆攻撃の歴史
近代:17世紀後半の清の役人郁永河の記録によると、1661年に台湾へ侵攻し
てきた鄭成功の軍隊と戦闘したオランダ兵士たちによって自爆攻撃が行われ
た。戦闘で負傷した彼らは、そのまま捕虜になることを選ばず、火薬を用い
て自軍と敵軍の両方を爆破した。しかしながら、これは実は、鄭成功によっ
て制圧された陣地を爆破し、間接的に敵軍を攻撃するためのオランダ軍の正
規作戦であって、これが包囲していた鄭成功の命を奪いかけたので、中国側
はこれを自殺攻撃と勘違いした恐れがある。 1830年、ベルギー独立革命にお
いて、オランダの中尉Jan van Speijkはベルギー人に降伏することを拒み、
アントワープの泊地で自身の船に乗り込んできた敵とともに船を爆破した。
この巻き添えで敵味方合わせて数十名が死亡した。 また、プロイセン王国の
兵士Karl Klinkeは、1864年4月18日にドゥッブル堡塁の戦いでデンマークの
要塞の堡塁を自爆攻撃で爆破し味方軍の道を開いた。 18世紀のジョン・ポー
ル・ジョーンズの記録によると、オスマン帝国軍の海兵たちは自分たちの船
に火をつけ、敵船に突っ込むという戦術をとった。彼らはこれによって自分
たちの命がなくなることを自覚した上での攻撃であった。 近代に起こった政
治手段としての自爆攻撃は、1881年のツァーリアレクサンドル2世の暗殺に
まで遡ることができる。冬宮殿近くのサンクトペテルブルクの中央通をドラ
イブしていたところ、人民の意志のメンバーであるニヒリストIgnacy Hrynie-
wiecki 
の身を挺した自爆攻撃を受けた。犯人は死亡し、アレクサンドルも手
製の手投げ弾の爆発により重傷を負い、数時間後に死亡した。 日本軍の特別
攻撃第二次世界大戦末期に日本軍がさかんに行った「特別攻撃」では、飛行機
ごと敵の艦船などに突っ込んでゆく攻撃方法を採り、英語圏ではsuicide terrori-
sm kamikaz
eと表現される。 1943年、ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルス
ドルフは自爆テロによってアドルフ・ヒトラーの暗殺を試みたが、爆破を完
遂することができなかった。ベルリンの戦いにおいて、ドイツ空軍はオーデ
ル川にかかるソ連の橋に対して自己犠牲任務飛行を行った。これらの任務はH
einer Lange中佐の指揮の下、レオニダス飛行中隊のパイロットによって遂行
された。1945年4月17日から20日まで、使用可能なあらゆる航空機を用いて、
ドイツ空軍は、その航空団により17の橋を破壊したと宣言した、
しかしながら、その事件について本を記した軍事史家のAntony Beevorは、
の報告は誇張されており、確実に破壊できたのはキュストリンの鉄道橋だけ
だったであろうと考えている。彼は、"35名のパイロットとその乗っていた
航空機が犠牲になったが、限定的で一時的な戦果しか揚がらなかったことを
考えると、対価は非常に高く付いた"とコメントした。この任務はソ連の地
上部隊がユータボークの空軍基地近くに到達したとき中止となった。 第二
次世界大戦に続いて、ベトミンの"死の志願兵"たち (death volunteers) はフラ
ンス植民地軍と戦闘した際、刺突爆雷でフランス軍の戦車を攻撃した。

現代:一部で、1972年の日本赤軍前身メンバーによるテルアビブ空港乱射事
件がその後のアラブ人による自爆テロの契機とする説が唱えられることがあ
るが、この事件では銃乱射後に制圧される過程で犯人三人中二人が手榴弾で
自決したと伝えられているのであって(イスラエル兵による射殺であったと
も言われる)、直接的な因果関係は見出し難く通説化はしてない。 また、
イラン・イラク戦争において、イラン人少年ムハンマド・ファーミダが体に
手榴弾を巻き付け戦車の前で自死した事件を、国民的英雄としてアヤトラ・
ホメイニが称揚したことが、イスラム圏での自爆攻撃の遠因となったという
説もある。 ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件の結果。ビルがすっか
り吹き飛んでしまっている。 1983年にはベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆
破事件が起きた。これは犯人がワゴン車で水などを運搬しているかのように
装いつつ大量の爆薬を持ち込みアメリカ海兵隊兵舎を爆破し、兵舎が“吹き
飛ばされ”たように破壊されてしまった事件である。 イスラエルのガザお
よび西岸では、自爆テロは反イスラエル戦略としてイスラム教徒によって実
行されており、また時には日本赤軍と提携関係のあるPFLPなどの宗教に関係
ないパレスチナ人グループによって行われる。 イスラエルにおける第2次イ
ンティファーダでは、"Istishhadia"のための志願者が多く存在し、テロリス
トを構成していると指摘されている。この戦術は一般に受け入れられるよう
になっており、募集係および指令係はかつてないほど「候補者の巨大なプー
ル」を抱えており、インタビューを受けたファタハの人物が言うには志願者
で「溢れかえっている」。2000年10月から2006年10月の間に、167件の明らか
な自爆テロが発生しており、他の型の自爆攻撃が51件起こっている。 自爆テ
ロはイラクおよびアフガニスタンでも一般的に起こっている。自爆テロは、
チェチェン紛争における戦術として用いられるようになった。ロシアではこ
の紛争に起因する自爆テロが多発しており、2000年に一組の男女が爆弾を積
んだトラックでAlkhan Kalaのロシア軍の基地へ突入したものから始まり2002
年モスクワ劇場占拠事件から2004年ベスラン学校占拠事件にまで渡る。2010
年モスクワ地下鉄爆破テロもまたチェチェン紛争が原因で起こったと考えら
れている。 西ヨーロッパやアメリカでも自爆テロは発生している。2001年9
月11日にニューヨーク、ワシントンDCおよびシャンクスヴィルで起こ
ったア
メリカ同時多発テロ事件では3000人近くの人々が犠牲となった。




風蕭々と碧い時












John Lennon Imagine  

 

 

今夜の寸評: 優勝は?!タイガース vs バッッファローズ

 


胸さわきの旅はいま始まって
時の流れのままにこころを遊ぱせ
この私は誰を訪ねるあてもなく
まるで詩人のように景色に染って

ああなんて街それそれ美しいの
ああなんて人それそれ生きているの

昨日今日日月日変わり行く私
紅くいろづくときめきを誰に告けましょう

風そよけぱひとリ胸抱きしめて
愛の不思議を思う吐息をもらして
この涙はきっと感じるよろこぴね
揺れる瞳に映る季節に恋いして

ああなんて街それそれ美しいの
ああなんて人それぞれ生きているの

朝に舞う夢黄昏に出会い
ほんの一時のためらいを誰に言いましょう

昨日今日日月日変わり行く私
紅くいろづくときめきを誰に告げましょう

三都物語(さんとものがたり)は、1990年(平成2年)に開始された西日本旅
客鉄道(JR西日本)のキャンペーンの一つで、同社の登録商標(第2637104号
ほか)である。1989年、京都・大阪・神戸観光推進協議会が設立されて三都
物語のキャンペーンの支援が行われた。協議会は2020年時点でJR西日本と京
都市、京都市観光協会、大阪市、大阪観光局、神戸市、神戸観光局で構成さ
れ、三都物語以外に三都スペシャルキャンペーンなど三都を冠した名前を使
ってキャンペーンが行われている.「三都物語」(さんとものがたり)は、
1992年6月25日にリリースされた谷村新司の楽曲で28枚目のシングル。かつて
運転されていたトワイライトエクスプレスの大阪行きでは、車内放送にて札
幌駅発車直後には1番が、大阪駅到着直前の車内放送では2番と最後のリフレ
イン部が流されていた。 全曲 作詞:多夢星人(阿久悠)作曲:谷村新司 
編曲:佐孝康夫

         

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