極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

世界は非戦を!世界に平和を!

2023年10月23日 | 環境リスク本位制

  
彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救ったと伝
えられる"招き猫"と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え。(戦国時代の
軍団編成の一種で、あらゆる武具を朱塗りにした部隊編のこと)の兜(かぶ
と)を合体させて生まれたキャラクタ。


   



再エネ革命渦論 182 アフターコロナ時代 183
技術的特異点でエンドレス・サーフィング-
   特異点真っ直中 ㊿+⑬


Neural inference at the frontier of energy, space, and time | Science
https://www.science.org/doi/10.1126/science.adh1174

エネルギー、空間、時間の最前線における神経推論
カリフォルニア州アルデマンにあるIBM研究所が、前身のチップと合わせると
20年かけて研究してきたという新タイプのデジタルチップ「NorthPole」の
存在が明らかになった。開発陣のダルメンドラ・モーダ氏によると、脳の計
算方法からインスピレーションを得ることで、コンピューターチップの基本
構造を改めたと。

サイクルコンピュータを模した「PiezoTap」のデモ展示
TDKは「CEATEC 2023」(2023年10月17~20日)に出展し、圧電スイッチ/セ
ンサーや自動車の利便性向上に貢献する技術、フルカラーレーザーモジュー
ル搭載のAR(拡張現実)/VR(仮想現実)グラスなどを展示。
 EE Times Japan





手袋でもぬれた手でも操作できる圧電スイッチ/センサ やモノが軽く触れた
り近づいたりすると動作するタッチスイッチは、応用製品のデザイン性や使
いやすさを向上させられるという特長があり、スマートフォンやタブレット
端末をはじめとするさまざまな機械の操作に用いられている。タッチスイッ
チには、指先と検出部の静電容量の変化を検出してタッチ位置を検出する静
電容量方式が広く使われている。静電容量方式は非接触でも動作するなどの
利点があるが、水や汗に弱く、ぬれた状態では正しく操作ができないほか、
導電性でない一般的な手袋を着用するとタッチを検出できないという課題が
あった。TDKが開発中の圧電スイッチ「PiezoTap」は、タッチスイッチのこう
した課題を解決するものだという。圧電素子に圧力を加えた際に生じるひず
みに応じて電圧が発生するという圧電効果を利用している。圧電スイッチは
、水回り環境や手袋装着時でも操作できる。  圧電スイッチは圧電素子にひ
ずみが生じないと押圧を検知しないため、非接触でも動作する静電容量方式
と比べると操作時に必要な力は大きくなるが、「誤って指やモノが触れた程
度では動作しないことが、むしろ誤動作を防げるという利点にもなるという。
PiezoTapのサイズは7.0×7.0×0.2mm、重さは0.046gで、筐体の素材を問わず
に取り付けられる。「静電容量方式のタッチスイッチに慣れている設計者は、
圧電スイッチの扱い方が分からないと感じるかもしれない。その場合は、シ
ステム設計や筐体への貼り付け位置なども含めて提案したい」(ブース担当)  
ブースでは、自転車の走行速度や走行距離を測定するサイクルコンピュータ
を模したデモ機が展示された。競技用のグローブなどをはめたままで、雨粒
や汗が付着しても操作できる。他にはウェアラブル端末や家電製品への利用
を想定しているという。
✔ここ10数年でセンサ技術進化の飛躍に驚くばかりだ。

 



第3世代円偏光有機発光ダイオード
近畿大学と大阪公立大学は,安価でエネルギー変換効率が高く,第3世代の発
光材料と呼ばれるTADF分子という発光性の分子を用いて,第3世代円偏光有機
発光ダイオードを開発。特定の方向に振動する光を偏光といい,その中でも,
らせん状に回転しているものを円偏光という。円偏光を利用した発光デバイ
ス(円偏光を発する有機発光ダイオード)は,3D表示用有機ELディスプレー
などに使用される新技術として注目されている。
現在,光学活性な分子で構成された材料を用いて円偏光有機発光ダイオード
を作製し,右回転または左回転の円偏光を発生させる方法が一般的となって
いる。 こうした発光ダイオードの材料として,第1世代である蛍光材料,第
2世代であるリン光材料が知られており,携帯電話などのディスプレーを中心
に実用化されている。第1世代の蛍光材料は比較的安価に合成できるが,蛍光
材料を用いた有機発光ダイオードは発光量子効率が低く,また,第2世代のリ
ン光材料は発光量子効率が良いものの,希少価値が高いレアメタルを使用す
るため,デバイス製造コストが高くなるという課題がある。
【要点】
1.第3世代の発光材料と呼ばれる、光学不活性なTADF分子を用いて有機発
 光ダイオードを作製し、外部から磁力を加えることにより、緑色の円偏光
  の発生に成功
2.加える磁力の方向を変えることで円偏光の回転方向を制御し、右回転と
 左回転の円偏光を選択的に取り出すことに成功
3.本研究成果を、次世代フルカラー3D表示用有機ELディスプレイの製造や
 高度な次世代セキュリティ認証技術の実用化などへ生かすことに期待
概要】
第3世代の有機発光ダイオードの材料として開発が進んでいるTADF分子を用
いて有機発光ダイオードを作製し、このデバイスに対して外部から磁力を加
えることによって、TADF分子の発光に由来する緑色の円偏光を発生させるこ
とに成功。また、磁力の方向を変えることで円偏光の回転方向の制御が可能で
あることを明らかにした。本研究成果により、室温かつ永久磁石による磁場
下に第3世代有機発光ダイオードを設置するだけで、円偏光を発生させるこ
とが可能にした。また、光学不活性な分子は、特殊な合成方法や分離・精製
技術が不要であり、一般的に光学活性な分子よりも安価に入手できるため、
本手法を用いることで、円偏光有機発光ダイオードの製造コストが抑制でき
る可能性があつ。これにより、第3世代(TADF分子)のみならず第4世代(
TADF分子と蛍光分子)を用いた3D表示用有機ELディスプレイ等の製造コスト
削減や、高度な次世代セキュリティ認証技術の実用化などにつながることが
期待される。
【展望】
第3世代(TADF分子)のみならず第4世代(TADF分子と蛍光分子)を用いた3
D表示用有機ELディスプレイ等の製造コスト削減や、高度な次世代セキュリテ
ィ認証技術の実用化などにつなげる。
【論文掲載】
掲載誌:Frontiers in Chemistry Nanoscience
論文名:External magnetic field-induced circularly polarized luminescence and
electroluminescence from optically inactive thermally activated delaye d fluorescence
material 4CzIPN
(光学不活性な熱活性化遅延蛍光物質4CzIPNの外部磁場誘起
円偏光発光と 電界発光)
D O I:10.3389/fchem.2023.1281168

【ウイルス解体新書 173



序 章 ウイルスとは何か
第1章 ウイルス現象学
第2章 COVID-19パンデミックとは何だったのか
第3章 パンデミック戦略「後手の先」
第9節 感染予防・検査・治療
9-1 感染予防
寄生虫に感染することで新型コロナによる入院や死亡率が低下する可能性
⮚2023.10.22 GIGAZINE   人体に寄生する蠕虫(ぜんちゅう)が流行している
アフリカやアジアの一部地域では、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の入
院や死亡につながる重症例が少ないことが報告されている。新たに、「寄生
虫に感染するとCOVID-19で死亡する割合が低くなるかもしれない」という研
究結果を、アメリカ国立アレルギー・感染症研究所(NIAID)の研究チームが
発表。
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Prior hookworm infection could offer protection from severe COVID-19 symptoms
鉤虫感染歴があると、重篤な新型コロナウイルス感染症の症状から身を守る
ことができる可能性がある

寄生性鉤虫による事前の感染はマウスを重度のSARS-CoV-2疾患から守ること
が示されており、これはなぜ新型コロナウイルス感染症パンデミックの最盛
期に特定のヒト集団がより良好に暮らしていたように見えるのかについての
潜在的な説明を提供するものである。
「この研究は、世界の特定の地域がパンデミックの初期から予想されるほど
ひどい状況にならなかったという観察から生まれた」と、国立研究所の同僚
と協力したマラガン研究所博士研究員ケリー・ヒリガン博士は言う。
最近Science Immunologyに掲載の研究を米国保健省博士論文を発表。
「アフリカとアジアの国々は、入院や死亡などの重篤な感染症の報告数が世
界の他の国々よりもはるかに少なかった。これは、データ内のいくつかの交
絡因子や報告率の低さを考慮しても同様だった。」「興味深いのは、これら
の地域が鉤虫感染症が流行している地域、つまり人口内に一貫して存在する
地域と強い相関関係がある、または重なっている。おそらくこの鉤虫による
風土病感染が、より重度のSARS-CoV-2ウイルス感染症の確立において国民全
体に「干渉」を引き起こしているのではないかと考えられる。」「感染干渉
は、場合によっては人々が一度に複数の感染性微生物によって病気にならな
い場合があるという現象の説明に使用される用語である。これは 1960年代に
ウイルスに関して初めて説明され、1 回のウイルス感染には、新たなウイ
ルスに感染するまでにわずかな猶予期間が伴う可能性あることが観察された。
ごく最近では、新型コロナウイルスのパンデミックでもこの効果が確認され
ており、SARS-CoV-2感染から回復している人々は、再び感受性を高める前に
、他の呼吸器ウイルス(RSV、インフルエンザ)に対する数週間の相対的な
免疫を持っていると考えられている。この現象の理由はまだ完全には理解さ
れていないが、ヒリガン博士にとっては特に興味深いものである。
「感染症が免疫システムを活性化して刺激すると、この刺激によって他の微
生物がトーホールドを獲得したり排除したり阻止したりするという追加の
があると一般的に受け入れられています」とヒリガン博士は言う。「探
求するのが本当に興味深いのは、この影響が、新型コロナウイルス感染症の
場合、ウイルス、細菌、寄生虫のいずれであっても当てはまりそうである。
私の協力者である国立衛生研究所のオエボラ・オエソラ博士、ピン・ローク
博士、アラン・シャー博士の意見 そして私が知りたかったのは、現在のパ
ンデミックに関連してこの効果をテストできるかどうか、そして同様の保護
効果が見られるかどうかです。」この研究では、マウスの免疫系と細胞生物
学が私たちのものとよく似ているため、マウスの肺における鉤虫感染を調べ
た。この共同研究では、鉤虫に感染したマウスは、鉤虫が体から除去された
後でも、対応するマウスよりも重篤な新型コロナウイルス感染症の症状を発
症する可能性が低く、感染からはるかに早く回復することが判明した。細胞
レベルで何が起こっているのかをさらに詳しく見てみると、この研究では、
鉤虫がマクロファージと呼ばれる肺に常駐する特定の種類の免疫細胞の変化
に影響を与えていることが観察されている。蠕虫感染後は、蠕虫感染にさら
されたマクロファージとそうでないマクロファージの間で、トランスクリプ
トームレベル(さまざまな遺伝子のスイッチがオンまたはオフになるレベル
)で明らかな違いが見られることがわかった」とヒリガン博士は言う。その
結果、蠕虫の影響を受けたこれらのマクロファージは、他の感染の脅威、こ
の場合は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)ウイルスに対して警報を発
する能力がはるかに優れていることが判明。彼らは、ウイルスの除去を専門
とするCD8 T細胞と呼ばれる他の免疫細胞を対照群よりもはるかに早く感染
部位に動員する特定の化合物を分泌しこれを行った。「ウイルス応答に不可
欠なこれらのCD8 T細胞の動員が促進されることがわかった。これらの修飾
されたマクロファージのおかげで、T 細胞はより早く感染組織に入り込み、
感染をより早く除去することができ、その結果、病気の症状がはるかに軽減
されている。「さらに、この効果は長期間持続するようで、鉤虫が体から除
去された後もマクロファージはCD8 T細胞を動員して活性化する非常に強力
な能力を保持している。」この研究は前臨床段階であり、まだヒトに応用さ
れていないが、研究者らは現在、これらのマクロファージと、そのような行
動の変化を引き起こすために鉤虫がマクロファージに何をしているのかをよ
り深く理解することに重点を置いている。「将来を見据えて、これらのT細
胞を肺に運ぶ信号を理解したいと考えており、この線虫がこれらの特殊なマ
クロファージを作成するために何をするのか、そしてワームの仲介を必要と
せずにこの効果を再現できるかをさらに理解したい。」
【掲載論文】
More information: Oyebola O. Oyesola et al, Exposure to lung-migrating helminth
protects against murine SARS-CoV-2 infection through macrophage-dependent T cell
activation, Science Immunology (2023). DOI: 10.1126/sciimmunol.adf8161

第4章 終 章 備えあれば憂いなし

風蕭々と碧い時












John Lennon Imagine  



もんたよしのり ギャランドゥ

もんた よしのり(1951年1月8日 - 2023年10月18日)は、日本のシンガーソン
グライター・俳優。広島県福山市生まれ、兵庫県神戸市育ち。1971年、上京、
シングル「この足の鎖ひきちぎりたい」でソロ歌手としてデビュー。1979年、
東京での活動に限界を感じ実家の神戸へ戻るも、音楽活動をあきらめきれず
作曲活動を続ける。 1980年、自身最後のチャンスとの決意で「もんた&ブラ
ザーズ」として再デビュー、「ダンシング・オールナイト」をリリース。大
ヒットとなり、第22回日本レコード大賞金賞、第11回日本歌謡大賞放送音楽
特別賞、第13回全日本有線放送大賞などを受賞、第31回NHK紅白歌合戦にも出
場した。この当時は北島音楽事務所に所属していた。1981年、俳優として
『燃える勇者』で映画に初出演する。本業では第10回東京音楽祭に出場し、
「スティーヴィー・ワンダー賞」を受賞。 一昨年7月に亡くなった実弟と同
い年、享年七十二である。秋風染みるよるとなった。
                                合掌

今夜の寸評: 優勝は?!タイガース vs バッッファローズ
世界は非戦を! 世界に平和を!
Non-war to all the world!  Peace to the world!


自在行動概論 ③
パレスチナ問題とその歴史 「環境リスク本位制時代」を公言している私に
は、「パレスチナ問題」は、「人類消滅」を加速させる「世界大戦」の説明
要因の1つであることを踏まえ、その歴史をお温習いしておこう。 そもそ
の古称は「フル」、「カナン」というパレスチナ周辺はペリシテ人の土地で
パレスチナという言葉はペリシテという言葉がなまったものと考えられてい
る。 紀元前13世紀頃にペリシテ人によるペリシテ文明が栄えたが、ペリシ
テ人のその後は全く分かっていない。

その後は紀元前10世紀ごろにイスラエル人によるイスラエル王国がエルサレ
ムを中心都市として繁栄した。 やがて三大陸の結節点に位置するその軍事
上地政学上の重要性からイスラエル王国は相次いで周辺大国の侵略を受け滅
亡し、西暦135年にバル・コクバの乱を鎮圧したローマ皇帝ハドリアヌスは、
それまでのユダヤ属州の名を廃し、属州シリア・パレスチナ (en:Syria Palae-
stina
) と改名する。7世紀にはイスラム帝国が侵入してきた、シリアを支配す
る勢力とエジプトを支配する勢力の間の対立戦争の舞台となった。11世紀に
はヨーロッパから十字軍が攻め込んできた結果としてエルサレム王国が建国
されるが、12世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンに奪還され、パ
レスチナの大半は王朝の支配下に入った。16世紀になると、マムルーク朝を
滅ぼしたオスマン帝国がパレスチナの地の支配者となる。

後期19世紀 - 1920:起源
「シオニズム」、「バルフォア宣言」、「フサイン=マクマホン協定」、「

三枚舌外交」 サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青は
フランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(
パレスチナ)は共同統治領 。第一次世界大戦において連合国側のイギリス
は同盟国側の一角であるオスマン帝国に対し側面から攻撃を加える意図の下、
トルコの統治下にあったアラブ人(イエフディ(現地ユダヤ人)やキリスト
教徒も含む)たちに対してオスマン帝国への武装蜂起を呼びかけた。その際
この対価として1915年10月にフサイン=マクマホン協定を結びこの地域の独
立を認めた。 他方、膨大な戦費を必要としていたイギリスはユダヤ人豪商
ロスチャイルド家に対して資金の援助を求めていた。この頃、世界各地に広
がっているユダヤ人の中でも、ヨーロッパでは改宗圧力を含め差別が厳しか
ったため、シオンに還ろうという運動(初期シオニズム)が19世紀末以降盛
り上がりを見せていた。そこでイギリスはアーサー・バルフォア外相を通じ、
1917年にユダヤ人国家の建設を支持する書簡をだし、ロスチャイルド家から
の資金援助を得ることに成功した(バルフォア宣言)。 しかしイギリスは
同じ連合国であったフランス、ロシアとの間でも大戦後の中東の分割を協議
しており、本来の狙いはこの地域に将来にわたって影響力を確保することで
あった(サイクス=ピコ協定)。 こうしたイギリスの「三枚舌外交」はロ
シア革命が起こり、ウラジーミル・レーニンらによって外交秘密文書がすべ
て公表されるに至り公のものとなった。 第一次世界大戦でアラブ軍・ユダ
ヤ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国と対決し、現在のヨルダン
を含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治となった。

1920 - 1948:イギリスによるパレスチナの委任統治
イギリス委任統治領パレスチナ」も参照 現在のパレスチナの地へのユダヤ
人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こ
うとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、ア
ラブ人とともに嘆きの壁事件など衝突がありながらも、安定した社会を築き
上げていた。しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発
するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、
ヨルダンのフセイン1世、アミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラ
ブ過激派により暗殺)、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(1946
年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動(民族性・
宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈する。

「パンとワイン」紛争
 初期の問題において、民族自体はあまり関係がなかった。衝突は、銀行と
工業により避けようもなく次第に深まっていく。その主な原因は、オスマン
から切り離された事で、外国貿易が重要性を増した事にある。そしてイギリ
スは荒廃した土地を復興させ、輸出農業の生産の増大を計った。農民の多く
はアラブ人であった。ただし、農業金融を一手に引き受けていたのは1922年
以後増大したユダヤ系銀行であり、製粉所等の加工工業もまたユダヤ人の手
にあった。パレスチナの土地に適していたのはオレンジとリンゴであり、イ
ギリスに対してはオレンジの輸出が多くアラブ人達は柑橘類の生産を望んで
いたが、製粉所含む食品工業のため銀行は穀物の増産を図っていく。また、
葡萄園はユダヤ人の所有にあった。 当時のパレスチナにおいて工業の外国
貿易に対する価値は非常に大きかった。イギリスに次いでシリアがパレスチ
ナを助けていたが、ドイツとアメリカもまたパレスチナに対し工業生産材の
輸出を行っており、アメリカには加工した工業品を輸出することによって貿
易のバランスを保っていたため、このバランスを維持するために工業の発展
が不可欠だった。そして、パレスチナの外国貿易に関する諸々の取り決めは、
委任統治領という立場にもかかわらず、国内有力事業家の組合によって決定
されていた。その事業家の多くが外部からの投資を受けた人間(即ち原住民
ではなくユダヤ人の移民ら)であり、柑橘類を主軸に求めるアラブ人と、穀
物類を主軸に求めるユダヤ人との農業問題への価値観の差異は、アラブ人へ
の一方的な抑圧となり、やがて対立が深まっていく。1916年設立のハマシ
ュビール(en:Hamashbir Lazarchan)は勢力が大きくなり市場取引を支配し、ま
たイギリスとの連携を強め、ニール[要出典]はドイツ人に代わり産業を支配、
耕地を購入し所有していった。また人口の増大、特にユダヤ人増大による小
麦の需要に基づく土地の疲弊は著しく、1939年には1ha辺り480kgの小麦しか
収穫できない(イギリスでは2200kg、エジプトでは1630kg)など、問題への
期限は迫っていた。

パレスチナ分割
国連による「パレスチナ分割決議」 1947 「パレスチナ分割決議」、「パレ
スチナ内戦」、および「イスラエル独立宣言」

1936年4月に起きたパレスチナ独立戦争(アラブ暴動)で、イギリス側はア
ラブ人とユダヤ人の共存は困難であるとして、ピール委員会(英語版)は善
後策の調査を始めた。ピール委員会は、暴動の原因をアラブ人・ユダヤ人相
互の民族主義に求めたが、アラブ人の「後進性」も強調された。 1937年7月
7日、ピール委員会は、パレスチナをアラブ国家と小さなユダヤ国家(15%
程度)、国際地域に分割する提案を行った。また、希土戦争 (1919年-1922
年)後に行われたギリシャとトルコの住民交換を先例に、少数民族の交換(
実質的な強制移住)も言及された。これが、公のものでは最初のパレスチナ
分割案である。アラブ人は全面的に拒否し、アラブ高等委員会(英語版)は
「ユダヤ人とその他の少数民族の正当な権利をすべて保護し、イギリスの合
理的な利益を守る」前提の上で、パレスチナ単一国家の独立を要求した[17]。
ユダヤ人国家として、肥沃な土地が割り当てられたことも拒否の理由だった。
また、全てのユダヤ人の新規移民の停止を要求した。 ユダヤ人もまた、シ
オニスト大会で分割案拒否を決議した。しかし全面否定では無く、ユダヤ人
国家の拡大や、あわよくばパレスチナ全域の占有を目的とした議論の継続が
された。また、ピール委員会案では、ユダヤ人国家にアラブ人225000人、ア
ラブ人国家にユダヤ人1250人が少数民族として残ることが想定された。この
ため、ユダヤ人の中では、アラブ人の「移送」もまた議論されるようになっ
た[18]。 第二次世界大戦後、後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギン
率いるエツェル、イツハク・シャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテ
ロと、アメリカの圧力に屈したイギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を
委ねた。ユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1に過ぎなかったが、1947
年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%
の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181
号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された[19]。ピー
ル案よりユダヤ人に有利になったこの決議は、国内の選挙において、ユダヤ
人の投票獲得を目当てにしたアメリカのハリー・S・トルーマン大統領の強
烈な圧力によって成立している。ユダヤ人を自国から追い出したいキリスト
教徒が主なアメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国
が反対した。(イギリスはこれ以上反感を買うことを恐れて棄権) 1948年2
月、アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の阻止を決議した。アラ
ブ人によるテロが激化する中、1948年3月にアメリカは国連で分割案の支持
を撤回し、パレスチナの信託統治の提案をした。1948年4月9日、ユダヤ人テ
ロ組織、イルグン、レヒの混成軍が、エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村
で村民の大量虐殺を行い、その話が広まって、恐怖に駆られたパレスチナア
ラブ人の大量脱出が始まった。1948年5月、イギリスのパレスチナ委任統治
が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)を根拠に、1948年5月1
4日に独立宣言しイスラエルが誕生した。同時にアラブ連盟5カ国(エジプト・
トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)の大部隊が独立阻止を目指
してパレスチナに進攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争、パレスチ
ナ戦争)が起こった。

1948 - 1967:中東戦争
「第一次中東戦争」および「第三次中東戦争」

1949グリーンラインの境界線 勝利が予想されたアラブ側は内部分裂によっ
て実力を発揮できず、イスラエルは人口の1%が戦死しながらも列強からの豊
富な物資援助により勝利する。1948年の時点でパレスチナの地に住んでいた
70〜80万人のアラブ人などが難民となった(いわゆるパレスチナ難民)。パレ
スチナ人を主とするアラブ人は、「ナクバ(النكبة)」(アラビア語で「大
破局」「大災厄」を意味する)と呼ぶ。 パレスチナ難民の発生原因につい
ては、当時は、ユダヤ人軍事組織によって追放されたというパレスチナ側の
主張とパレスチナ人が自発的に立ち去ったというイスラエル側の主張があっ
た。現在では、イスラエルの政府資料やアメリカの諜報資料が公開され、
イスラエル側の主張が虚構であり、大多数のパレスチナ難民は、ユダヤ人軍
事組織による大量虐殺(イスラエルの歴史学者のイラン・パッペによれば、
総計2千人〜3千人が犠牲になった)、銃器による脅迫、また、ユダヤ人軍事
組織による攻撃を恐れて、難民となったことは、学術的に明らかになってい
る。現在の学術的な争点は、パレスチナ人の追放が計画されたものか、それ
とも戦闘激化に伴った偶発的なものかという点である。 また、イスラエル
建国に伴うアラブ諸国におけるユダヤ人への迫害の増加により、セファルデ
ィムなどアラブ諸国のユダヤ人住民40万人がイスラエルに移住し、アラブ諸
国に残された財産の大部分は没収された。
                           この項つづく

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■ 人類の起源 出アフリカ

人類の起源
最大の転機は1987年、細胞内小器官ミトコンドリアのDNA解析がもたらした。
ミトコンドリアの遺伝子は母親からだけ受け継がれる。世界各地の人々のミ
トコンドリアに蓄積した突然変異をもとに、枝分かれの時期を推定し、さか
のぼっていくと、12万~20万年前ごろアフリカにいたであろう女性にたどり
着いた。数年の激論の末、この分析は認められ、現生人類の起源はアフリカ
で、十数万年前以降に世界各地に広がっていったという「単一起源説」が常
識になった。それまで、各地の原人や旧人が一部で交雑しながら地域ごとに
特色ある現生人類に進化してきたという「多地域進化説」が優勢だったから、
大逆転である。そうなると、アフリカを出た現生人類がいつ、どのように移
動していったのかが大きな問題になる。遺跡や石器などの考古学資料を、現
生人類の旅路のなかに位置づけ直す作業が始まる。

ゲノム(全遺伝情報)を超高速で解読する技術が広まり、古人骨に残る微量の
DNAからも読めるようになる。ミトコンドリアDNAと同じように、蓄積された
突然変異を手がかりに、ほかの集団との血縁的なつながりも推定できるよう
になる。主に考古学的資料に基づき、アフリカから西アジアに出てきた現生
人類は、約5万年前から、

①ヒマラヤ山脈の南を抜けて東南アジアからオーストラリア大陸へ
②ヒマラヤ山脈の北を回ってシベリアへ
③ユーラシア大陸西部へ、
と大きく三つのルートで進出していったことがわかる。

科学的な根拠が分厚くなり、その旅路が一直線の順風満帆なものではなく、
気候変動のほか、寒冷地や高地、熱帯雨林、海などの難所に阻まれて、あち
こちで足踏みや後退もしてきたことが見えてきた。例えば、シベリアから当
時、陸続きになっていた北米大陸に進出するまでには3万年近く(およそ1000
世代)の歳月を待たなければならなかった。 現生人類の前に「出アフリカ」
を果たしていた旧人との関係も、大きく見直された。地中海東部沿岸では、
寒冷化で北方から退いてきた旧人のネアンデルタール人と長く共存していた
ことがわかり、さらに、ネアンデルタール人のDNAは、今世紀になってロシ
ア・南シベリアの洞窟で古人骨が見つかった別の旧人デニソワ人のDNAとと
もに、現代人に無視できない割合で受け継がれていることもわかり、現生人
類は、その長い移動のなかで、やみくもに前進していたのではなく、相当長
い時間と場所を旧人と共有し、交雑もしていたと。現生人類と旧人たちを「
別種」とするのはおかしいのではないか。そんな見方も強まっている。
via アフリカを出た人類、どう全世界に広がったのか ホモ・サピエンスの
旅路が見えてきた:朝日新聞GLOBE+

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■ 出エジプト記
『出エジプト記』(しゅつエジプトき、ヘブライ語: שמות‎、英語: Exodus
は、旧約聖書の2番目の書であり、『創世記』の後を受け、モーセが虐げら
れていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出する物語を中心に描かれている。
モーセ五書(トーラー)のひとつであり、ユダヤ教では本文冒頭より2番目
の単語から『シェモース』(Shemot)と呼ぶ[注釈 。全40章から成る。構成
は、エジプト脱出とシナイ山での契約が二つの大きなテーマとなっている。
キリスト教において旧約聖書という時、「旧約」すなわち古い契約というの
はこのシナイにおける神と民との契約のことをさす。

■ 古代イスラエル
古代イスラエル(こだいイスラエル)は、伝説的な太祖アブラハムの時代か
らユダヤ戦争終結までのイスラエル古代史を概説する。古代イスラエル史は
旧約聖書に基づく記述が多く見られるが、考古学的事実や他資料からの裏付
けが取れている部分は相当に少ない。 
紀元前1200年前後は「海の民」が南西の海岸平野からシリアやカナン地方に
侵入してきた頃であり、それを代表するのが旧約聖書にイスラエル人のライ
バルとして登場するペリシテ人である。イスラエル人はこれと同時期に山岳
地域からカナン地方に進出してきてペリシテ人と衝突を繰り返した。最近の
考古学調査では、ガリラヤ山地、中央山岳地帯、南部ユダヤのネゲヴ北部な
どに前1200年頃から居住地域が急増し、西部に勢力を広げていったことが確
認されている。この動きの中にイスラエル人たちの部族が含まれていたとさ
れる。 ヨルダン川東岸の山岳地帯からカナン地方に進出してきた前述のイ
スラエル人達の出自は不明である。イスラエル人たちが始祖とするアブラハ
ムは、旧約聖書によれば「カルデアのウル」からカナンの地へ移住してきたこ
とになっている。この「カルデアのウル」を南部メソポタミアのウルとする
のはレオナード・ウーリーによって始められてから考古学者や歴史学者に支
持されてきたものの、バビロニアからの移住は考えにくくメソポタミア北西
部からの移住だとする見方もある。彼らの出自としてはこの他にも、カナン
諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナン
の諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から
移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々で
あり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部
族連合が形成されたのであろうと考えられている。 カナン侵攻 前述のよう
に、紀元前12世紀頃からイスラエル人たちは山岳地帯からカナン地方に進出
した。これを描いたのが旧約聖書のヨシュア記と士師記である。この進出が
敵対的侵攻だったのか平和的な定住だったのかについては諸説あるが、預言
者的かつ軍事的指導者である「士師」が相次いで現れてイスラエル人全体を
導いたとする旧約聖書の記述などからは敵対的侵攻が多く含まれていた。

■ イスラエル王国の誕生
サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧
し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあっ
たサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王は
ペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。 サウル王の
死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都
ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族
はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国
を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシ
ュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。 紀元前9
95年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以
後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築い
た。 ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。
ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサ
レムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿
と呼ばれることになる。 ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は
崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサ
レムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛
んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。ア
ッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として
連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住
させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離された
イスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリア
にはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地
に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれる
ようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に
混交させたことから後に差別される存在となった。
                            このつづく

         

                       

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