
【はじめて命を知った十三歳の頃】
日本の教育界やスポーツ界でのいじめ、体罰、セクハラ、パワハラ実態に対する軌道修正の方向性が
やっと見えてきている。自分の息子たちをみていると歯がゆくムズムズする程、精神年齢発達の遅延
を感じ親として見守ってきた。『未生』という言葉をはじめて知ったのは二十歳になったころ、吉本
隆明の著書の中だった(著書名はうろ覚えだが彼の著書のなかに希少だが散りばめられているはずだ)。
めざましい科学技術進歩で幾何級数的に膨れあがった情報のなかで、どれだけ抽出摂取しているのか
比較できないが、「年齢×24時間×360日」というのは等しくあるのだから、たかが知れているように
も思えるが、それでも「命知らず」から命を知った瞬間から大きく考え方が変わっていったのは、明
確な線は引けないが-例えば、小学4年生に交通事故に遭っているがそれも引き金ねになっている-
中学1年生のころだろう。そのように、最大の関心事が「如何に生きるか」と変わって行くが、具体
に教育制度への懐疑に向ったのはその表れだろうと思っている。いわいる、スクーリング(=篩い分
け)という差別化という技術への懐疑ないしは、無自覚な異議申し立てであった。これは数年後に全
国を席捲することになる学園紛争のアランばりいえば‘パッション’(≠アクション)へと、あるい
は、桑田昭三らが導入した“学力偏差値”の相対化技法への肯定へと繋がって行く。もっとも、これ
は米国の心理学者ターマン、ソーダイクらの生み出した「教育測定運動」などのがベースにあり、そ
れまでの権威主義的な絶対評価主義的な日本の教育土壌にはなじみが薄かった。
なにが言いたいのか?例えば、定員十人の枠組みの中の学生十三名仮にひしめき三名を抱えるだけの
キャパがない場合のスクリーング技法が問われているわけで、ビジネス界(市場社会)ではこれが、
資本による“選択と集中”として常態化しているのだが(因みに、最近のテレビドラマ『メイド・イ
ン・ジャパン』は格好の教科書的コンテントだろう)、体育会系でいえば、前近代的な絶対権威主義
的な「しばき倒し篩い落し技法」が採用され、人文会系では「ネチ・ネチと突き回し篩落とし技法」
が外的環境・状況的にしばしば採用されるわけで、国内の景気動向や政府・自治体の緊縮予算、財政・
経理主義主導の下ではより強い方向にバイアスがかかるというわけだ。根本的な対処法は、この教育
環境システムの改革が本道なのだが、いまのところ、そこまで-剣道での用語でいうところの‘大上
段の構え’になって取り組まれていないと思う。結論をいそうごう。十三歳当時の決意「如何に生き
というるべきか」は、「あらゆる手法を用いても乗り超えていく、‘共に生き・共に育む道’」への
覚悟(試練)の自覚以外にこの‘上段の構え’ はない。そして、補助的に「肩肘張ることに疲れたな
ら‘絶対化’→‘相対化’する技法」も便宜的(世俗的)に使う知恵をつけておけと、これがわたし
(たち)の革命的技術時代の唯一の教育法なのだと、今回の騒動を看ていてそう思った。
※SHIKEN: JALT Testing & Evaluation SIG Newsletter. 14 (2) October 2010 (p. 6-10)
【環境にやさしい高効率な熱電発電】
北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)のマテリアルサイエンス研究科の末國晃一郎助教らのグループ
は、銅と硫黄を多く含む鉱物のテトラへドライトが、400 ℃付近で高い熱電変換性能を示すことを発
見し、この複雑な結晶構造と銅原子の異常大振幅原子振動に起因する超熱伝導率物質であることを証
明した。諄いが、電発電とは、固体素子を用いて、熱(温度差)エネルギーを電気エネルギーに変換
する技術。膨大なの未利用廃熱の有効活用できる熱電発電は注目を集め、自動車や工場の高温排気中
の中温廃熱(300~500 ℃)の回収・利用が求められ、本温度領域で有望視される熱電材料は鉛など
の有害元素を多量に含有するため実用化の大きな障壁となっている。JAISTの研究グループは、自然
界に存在する硫化鉱物のテトラへドライトとほぼ同じ組成をもつ材料を人工的に合成し、室温付近に
比較的高い熱電変換性能を示すことを日本応用物理学会報告していたが、これを産総研と共同で、テ
トラへドライトの母体Cu12Sb4S13の銅をわずかにニッケル置換した材料が、実用中温領域である400
℃付近で高い無次元熱電性能指数 ZT = 0.7(変換効率7%相当)を示すことを発見。この値は、既存
の p型鉛フリー硫化物の中で最も高い値。テトラへドライトは亜鉛と鉄を置換した材料でも高い熱電
変換性能をしめすことが分かっていた。テトラへドライトの高い熱電変換性能は、シリカガラスの半
分程度という超低格子熱伝導率に起因する理由の証明に大型放射光施設SPring-8の放射光を用いた粉
末X線回折実験を行い、CuS3三角形の中心に位置する銅原子が、三角形面に垂直な方向にゆっくりと
大振幅振動していることを発見する(銅の異常大振幅原子振動が、硬いCu-Ni-Sb-Sネットワークを伝
搬する熱を阻害することで、低い熱伝導率を実現したと推測)。
また、同上の熱電変換物質を使った素子モジュール構造の新規考案もなされているの参考に記載する
(下図参照)。それによると、放熱基板とケースの間に熱電素子を挿入した熱電発電モジュールの特
徴として、このケース蓋体は、金属板を、吸熱面部と放熱基板との間の側壁部分、また放熱基板に対
向するフランジ部との一体成型部の中間部を屈曲することで、放熱と吸熱面部、フランジ部を圧縮す
る。このような形にすることで下端を放熱基板に密着した熱電発電モジュール構造を(1)簡略化し
(2)製造コスト低減し(3)熱負荷を吸収し(4)高寿命化を図るという。これによりまたひとつ、
持続可能社会の環境キーテクノロジーの廃熱電利用モジュールの情報がこの‘極東極楽’の日本から
世界に向け発信されたことを意味する。
【符号の説明】 1 放熱基板 2 回路パターン 3 熱電素子 4 金属連結板 5 絶縁板 6 熱導入板 7 蓋体
8 吸熱面部 9 枠体部 10 フランジ部 11 ビード部
【第三章 新自由主義国家】
新自由主義理論における国家の役割はかなり容易に定義できる。これに対して、新自由主義化の実践
の方は、理論が提示する枠組みとはかなりかけ離れた形で進んできた。そのうえ、この三〇年間、国
家の諸機関・諸権力・諸機能がかなり混乱した変遷をとげ地理的に不均等に発展してきたことは、新
自由主義国家が不安定で矛盾した政治形態であることを示唆している。
新自由主義国家は理論的には、強固な私的所有権や法の支配、自由に機能する市場や自由貿
易の諸制度を重視している。これらは、個人の自由を保障するのに必要不可欠なものとみな
されている社会的諸制度である。その法的枠組みは、市場における法的人格同士の自由な交
渉による契約上の義務にもとづいている。行動・表現・選択の自由という個人の権利や契約
の不可侵性は保護されなければならない。したがって国家は、全力をあげてこれらの自由を
守るために、それが独占している暴力装置を用いなければならない。ひいては、ビジネス集
団や企業(法的には個人とみなされている)がこうした自由市場と自由貿易の制度的枠内で
活動する自由も、根本的に善だとみなされている。民間企業や企業家のイニシアチブは、技
術革新を引き起こし富を創出する上で決定的なものだとみなされている。技術革新を促進す
るために、たとえば特許制度を通じて知的所有権が保護される。生産性が持続的に向上すれ
ば、高い生活水準がすべての人にもたらされることになっている。新自由主義理論において
は、「上げ潮は船をみな持ち上げる」とか、〔上層から下層へと富が〕「したたり落ちる」
と想定されており、一国内であろうと世界規模であろうと、自由市場と自由貿易を通じてこ
そ最も確実に貧困を根絶することができるのだと考えられている。
新自由主義者がとりわけ熱心に追求しているのは、さまざまな資産を私有化することである。
明確な私的所有権が存在しないこと-多くの発展途上国ではよく見られることだ-は、経済
発展と人間の福祉の改善とに対する制度的障壁の中で最大のものの一つだとみなされている。
土地の囲い込みと私的所有権の確立は、いわゆる「共有地の悲劇」(土地や水といった共有
資源を個々人が無責任に過剰利用する傾向)を避ける最良の方策だとされている。かつては
国家の手で運営ないし規制されていた諸部門は、私的所有の圏誠に引き渡され、規制は緩和
されなければならない(あらゆる国家干渉からの自由)。競争-個人間、企業間の競争、ま
た何らかの地域的単位(都市、地域、国、地域集団)間の競争―は最大の美徳だと考えられ
ている。もちろん、市場競争の基本ルールはきっちり遵守されなければならない。そうした
ルールが明確に定められていないとか、所有権があいまいな場合には、国家はその権力を行
使し、市場システムを押しつけるか、このシステムそのものをつくり出さなければならない
(たとえば汚染物質排出権の市場取引)。競争と結びついた民営化と規制緩和は、官僚的形
式主義を排し、効率と生産性を引き上げ、品質を改善し、負担を軽減する-安価な商品・サ
ービスによって直接的に、税負担の軽減によって間接的に-とされている。新自由主義国家
は、グローバル市場の中で他国と並ぶ一個の単位として、競争上の地位改善につながるよう
な国内再編と新たな社会的諸制度を継続的に追求しなければならない。
-中 略-
だが、新自由主義派の理論家たちは民主主義に対して根深い不信を抱いている。多数決原理
による統治は、個人の諸権利や憲法で保障された自由にとって潜在的脅威だとみなされてい
る。民主主義はぜいたく品とみなされ、政治的安定を保障する強力な中産階級の存在と結び
ついた適度な豊かさのもとでのみ実行できるとされている。したがって、新自由主義者は、
専門家やエリートによる統治を支持する傾向にある。民主主義や議会による意思決定よりも、
行政命令や司法判断による統治の方がずっと好ましい。新自由主義者は中央銀行などの主要
機関を民主的な圧力から守ろうとする。法の支配や立憲体制の厳格な解釈を軸にすえる新自
由主義理論の前提では、紛争や対立は法廷で調停すべしということになる。いかなる問題で
あれ、その解決策や救済策は、法制度を通じて個々人によって追求されなければならない。
-中 略-
新自由主義国家に問する一般理論の内部でも、いくつかあいまいな論点や対立点が存在し
ている。第一に、独占権力をどのように解釈するかという問題がある。競争はしばしば独
占ないし寡占をもたらす。というのも、より強い企業がより弱い企業を駆逐するからであ
る。ほとんどの新自由主義理論家の考えによれば、こうしたことは、競争相手の参入を実
質的に阻むものが何もない-この条件はしばしば実現しがたく、したがって国家が助力し
なければならない-かぎり、とくに問題はなく、むしろ効率を最大化すると言われている。
いわゆる「自然独占」の場合はそれよりも難しい。電力供給網ガス・パイプライン、上下
水道システム、さらにはワシントンーボストン間の鉄道路線などが、それぞれ複数で競合
しあっても無意味だろう。こうした分野では、供給・アクセス・価格設定上の国家規制は
不可避である。部分的な規制緩和は可能かもしれないが(たとえば、競合する複数の業者
に、同じ電線に電力を供給することや同一路線に列車を走らせることを認めるなど)、実
際には、二〇〇二年のカリフォルニア州の電力危機がはっきりと示したように、暴利目的
で乱用されたり、イギリスの民営化された鉄道の状況が証明したように、どうしようもな
い混乱と無秩序が発生する可能性も十分にある。
第二の大きな争点は「市場の失敗」に問する問題である。市場の失敗が起きるのは、個人
や企業が自分たちの責任を市場の外部にはじき出し-専門用語で言えば「外部化」し、自
分たちにかかってくるコストのすべてを払おうとはしない場合である。その古典的事例が
環境汚染である。そのさい、個人や企業は廃棄物処理費用を免れようと、環境のことなど
一顧だにせずに有害廃棄物を投棄する。その結果、豊かな生態系は損なわれるか破壊され
るだろう。職場で危険物質や身体的危険にさらされれば人間の健康が破壊されるし、その
職場から健康な労働者層が激減する場合さえあるかもしれない。新自由主義者たちがこう
した問題の存在を認めると、ある者は一定の譲歩をして限定的な国家介入に賛成するが、
他の者たちは、何か治療しようとすればほとんど確実に病よりも悪い結果をもたらすのだ
から何もしない方がよいと主張する。それでも、何らかの介入が行なわれるべきだとした
ら、それは市場メカニズム(たとえば、課税、インセンティブ、汚染物質排出権の市場取
引など)を通じてなされるべきということに、大方の新自由主義者は一致する。「競争の
失敗」に対しても同じようなアプローチが選択される。契約関係、二次契約関係が増える
につれて、取引コストも増大する。一例だけ挙げれば、巨大な通貨投機機構が登場すれば、
それは投機的利益を得る上でますます決定的なものになると同時に、ますますコストのか
かるものになるだろう。また別の問題も起こりうる。たとえば、ある地域で競合関係にあ
る病院が、めったに使われることのない同じ精密機械をいっせいに購入したために、総コ
ストが上昇してしまうような場合だ。この場合、国家による計画、規制、強制的調整を通
じてコストの抑制をはかるべきだという意見が有力なのだが、ここでも新自由主義者はこ
うした介入に根深い不信を抱いている。
通常、市場の活動主体はみな同一の情報にアクセスできると想定されている。自己利益に
もとづいて合理的な経済的決定を下す諸個人の能力を妨げるような、権力や情報の非対称
性は存在しないということが想定されている。だが、実際にはこのような条件はめったに
ないし、むしろ、情報や権力の非対称性にもとづくいくつかの重要な結果が生じている。
他人よりも情報や権力を多く持っている行為主体にとっては、その利点を利用して、いっ
そう大きな情報と権力を獲得することさえ容易にできる。知的所有権(特許権)の確立は、
さらなる「レントの追求」を促す。特許権をもつ者はその独占権力を用いて、独占価格を
設定するか、非常に高額の代金が支払われないかぎり技術移転を妨害しようとする。それ
ゆえ国家が対抗措置をとらないかぎり、非対称的な権力関係は減少するどころか、時とと
もにますます増大する傾向にある。完全な情報や対等な競争環境といった新自由主義の想
定は、無邪気なユートピアであるか、富の集中とその結果としての階級権力の回復を意図
的にごまかしているかのどちらかである。
新自由主義理論は技術革新を、新しい製品、新しい生産方法、新しい組織形態の追求に駆
りたてる競争の強制力にゆだねる。しかし、この推進力は企業家の常識にあまりに深く埋
め込まれているために、物神崇拝の対象にさえなっている。どんな問題にも技術的解決策
があるというわけだ。企業ばかりでなく国家機構(とりわけ軍隊)の中にもこの考えが定
着するにつれて、技術革新の強固な自立化傾向が生じ、それは安定性を損ないうるだけで
なく、場合によっては逆効果にさえなりかねない。技術革新を専門とする部門がこれまで
市場になかった新製品とその新しい使い方を編み出すような場合(たとえば新薬が生産さ
れ、そのために新しい病気もでっち上げられる)、技術の発展が暴走する可能性がある。
そのうえ、有能な新参者が技術革新を動員して、支配的な社会的諸関係や諸制度を掘りく
ずすこともある。彼らはその活動を通じて、自分たちの金儲けに有利になるよう常識さえ
もつくりかえるかもしれない。このように、技術の発展力学、不安定性、社会的連帯の解
体、環境悪化、脱工業化、時間・空間関係の急激な変化、投機的バブルなどといったこと
と、危機を醸成する資本主義内部の一般的傾向とのあいだには、密接なつながりがある。
最後に、新自由主義の内部には、検討を要する基本的な政治問題がいくつかある。一方に
おける魅力的だが疎外をももたらす所有的個人主義と、他方における有意義な集団生活を
求める欲求との間には矛盾が存在している。個人には選択の自由があるとされているにも
かかわらず、各個人は、弱い自発的集団(たとえば慈善団体)は別にしても強力な集団的
機関(たとえば労働組合)の建設は選択しないものだと想定されている。ましてや、国家
を用いて市場に介入したり市場を廃絶しようとするような政党の創設を選択することは絶
対にないことになっている。新自由主義者はその最も恐れる対象-ファシズム、共産主義
社会主義、権威主義的ポピュリズム、そして多数決さえj-から身を守るため、民主主義
的統治に厳しい制限を課さなければならず、逆に重要な決定を下すさいには非民主的で閉
鎖的な機関(連邦準備制度やIMF)を頼りにする。このことから、国家が介入主義的ではな
いと想定されている世界で、極端な国家介入やエリートと「専門家」による統治がなされ
るという逆説が生まれる。それは、長老賢者の会議がすべての重要決定を命ずるとされて
いるフランシス・ベーコンのユートピア物語『ニュー・アトランティス』(一六二六年初
版)を彷彿とさせる。したがって、集団的介入を追求する社会運動に直面するや、新自由
主義国家は-時に抑圧的に-介入することを余儀なくされ、こうして自ら掲げたはずの自
由そのものを否定してしまう。だが、こうした状況下で新自由主義国家は秘密兵器を動員
することができる。国際競争とグローバリゼーションがそれだ。両者は個々の国家の内部
で、新自由主義的な政策目標に反対する運動を抑制するのに用いることができる。それが
うまくいかなければ、国家は説得やプロパガンダに訴えなければならないし、必要とあら
ば新自由主義への反対を弾圧するために露骨な暴力や警察力に訴えなければならなくなる。
これはまさにポランニーが恐れた事態だ。すなわち、自由主義の-ひいては新自由主義の
-ユートピア計画は、結局は権威主義に頼らなければ維持されえない。少数者の自由のた
めに、大衆の自由は制限されるだろう。
デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺 治 監訳「第三章 新自由主義国家」
(『新自由主義-その歴史的展開と現在 』より)
このように長々と引用してしまったのは、デヴィッド・ハーヴェイの説得力の魅力のためであり、余
りにもこの日本組み込まれた“新自由主義的社会現象”の近似例の豊富さのためだ。そして、彼は、
新自由主義化か進行する時代に新自由主義国家の全般的特徴を描き出すことは困難だが、それには特
別な理由が二つあるとし「第一に、それらの国家が新自由主義理論の公式教義から系統的に逸脱して
いることが、ただちに明らかとなるからである。ただし、すでに述べた内在的な諸矛盾にそのすべて
の原因があるわけではない。第二に、新自由主義化の発展力学はきわめて強力であり、時間と場所に
よって実に多種多様な適応形態を強制してきたからである。こうした不安定かつ変化しやすい歴史的
構図から、典型的な新自由主義国家の像を構成しようとするのは、愚かな試みに見えるかもしれない。
にもかかわらず、特殊に新自由主義的な国家という概念に一定の意味を持たせるような議論の一般的
脈絡を描き出すことは有益だと思われる」とし次のように指摘する。
階級権力を回復しようとする強力な動きは、新自由主義の理論を実践の上で歪曲し、いくつ
かの点ではそれを覆しさえする。それはとりわけ次の二つの次元で見られる。その第一の次
元は、資本主義的事業のために「良好なビジネス環境ないし投資環境」をつくる必要性から
生じる。政治的安定や法の十全な尊重、法の公正な適用といった、一見「階級的に中立」と
考えられるいくつかの条件がある一方で、明らかに偏向した条件も存在する。とりわけ労働
や環境を単なる商品として扱うことからこうした偏向が生じる。典型的な新自由主義国家は、
紛争が起こると、労働者の集団的権利(および彼らの生活の質)や環境の再生能力よりも良
好なビジネス環境をつくることを優先させるだろう。また偏向の第二の次元が起こってくる
のは次のような理由からである。紛争の際、新自由主義国家がたいてい、住民の福利や環境
の質よりも、金融システムの保全や金融機関の支払い能力を優先させることである。国家の
実践は実に多岐にわたり、時にまったくばらばらで、絶えず変動していることから、こうし
た系統的な偏向は必ずしも容易に判別できるわけではない。しかも、プラグマティックでご
都合主義的な思惑が重要な役割を演じることも少なくない。たとえば、ブッシユ大統領は自
由市場と自由貿易を信奉しているにもかかわらず、鉄鋼業が盛んなオハイオ州での選挙戦の
勝利を確かなものにしようと、鉄鋼関税を設定した。ちなみに、選挙結果は思惑どおりとな
った。国内の不満を和らげるために、国外からの輸入数量制限が恣意的に設けられる。ヨー
ロッパ諸国は、社会的理由、政治的理由、はては美学的理由からあらゆるものの自由貿易を
主張しているのに、自国の農業は保護している。特定の業界(たとえば武器取引)の利益を
推進するために特別の国家介入がなされたり、中東のような地政学的に重要な地域では、政
治的なつながりと影響力を獲得するために、信用の供与が恣意的に各国に拡大されていく。
以上の理由からして、新自由主義の正統理論に常に忠実な原理主義的な新自由主義国家論者
に出くわしたとしたらまったく驚くべきことだろう。
『同上』
次に、デヴィッド・ハーヴェイは新自由主義国家像の5つの特徴を指摘する。(1)新自由主義国家
は市場機能のお膳立てに期待し、グローバル政治で一個の競争単位とし、市民の忠誠心の確保問題が
起こり、これが政策目標と深く対立する。(2)市場論理貫徹の権威主義は、個人的自由と簡単には
あいいれない。個人と個人とのあいだにあるような対称性が企業と個人との権力関係では、自分の健
康状態は自分の選択と責任だと主張するのと、非効率で高度に官僚化した巨大保険会社への法外な保
険料の支払いという矛盾-正統性と同意の維持になおいっそう難しい綱渡りとなる。(3)金融シス
テム機能の保全が、儲け本位の無責任な個人的な投機によるさまざまな金融スキャンダル、慢性的な
不安定が生み出されるが、公的介入をめぐり深刻な問題が残されてきため、危機回避のために再規制
を求める動きが活発になっている。(4)競争こそ最も立派な美徳にあるにもかかわらず、現実は、
少数の集権的かつ多国籍企業の寡占・独占的でトランスナショナルな権力の強化が進行する。(5)
一般市民レベルの市場自由化信仰と商品化が安直に席巻し、社会的連帯が破壊され、社会という考え
方そのものさえ解体され、社会秩序の真空化起き、反社会的行動を規制することも著しく困難になり、
その結果、民主主義諸国には無力感と不安感が漂い、新手のポピュリスト政治家が台頭し容易に暴動
に転化しかねない新しい経済体制段階にある、という。
また、この章の終わりで、新保守主義(ネオコン)との違いが書かれている。「原則的に新自由主義
理論は、たとえ強い国家という考えを支持するものであっても、国民には好意的ではない。新自由主
義が繁栄するには、「埋め込まれた自由主義」のもとで国家と国民とを結びつけていた影の緒を切断
しなければならなかった。(中略)新自由主義国家が存続するには、ある種のナショナリズムが必要
なのである。新自由主義国家は、世界市場における競争主体になることを強いられ、また、できるか
ぎり最高のビジネス環境を確立しようとして、ナショナリズムを動員する。有利な地位をめざすグロ
ーバルな闘争の中で、競争はつかの間の勝者と敗者をつくり出すが、このこと自体が国民的誇りやナ
ショナル・アイデンティティ追求の源泉となりうる。国際スポーツ競技でのナショナリズムはその表
われである。(中略)たしかに、新自由主義がある種のナショナリズムと戯れる危険性はあるのだが
獰猛な新保守主義がナショナルな道徳的目標を抱き込むことの方がはるかに危険である。(中略)新
自由主義の諸矛盾に対する解決策であるように見えたものが、逆にそれ自身が問題をはらんだものへ
と容易に転化するこれらの権力が、競争するだけでなくおそらくは激しく争いあいさえするナショナ
リズムヘと堕落する危険性を浮かび上がらせている。避けがたい過程が進行しているのだとしても、
それは、国民性の相違なるものに帰せられる永遠の真理から生じているのではなく、新保守主義的転
換から生じている。したがって破滅的な結果を避けるためには、新自由主義の諸矛盾に対する新保守
主義的回答を拒否しなければならない。しかしながら、そのためには、何らかのオルタナティブが存
在していなければならない」と警戒してこの章をむすんでいる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます