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【ロシア隕石の衝撃】
ロシア・ウラル地方のチェリャビンスク州付近に15日朝に落下した隕石罹災のニュースが一日中報道され
ていた。現地からの映像や住民の証言などから、そのすさまじい衝撃力と地元の混乱ぶりが伝わり大変な
驚きをもってことの成り行きを看ていた。地元報道によると、午前9時20分ごろに飛来した隕石の破片は
数百キロの範囲に散らばり、爆発の際の衝撃はすさまじく、多数の建物のガラスや扉が吹き飛ばされ、一
瞬のうちに数百人が負傷。衝撃波で転倒した人も多数にのぼったという。病院では衝撃波による窓硝子で
傷ついた被害者の治療でごったがやしている光景-足やほおなどを切った人たちの治療が映し出されてた。
米国の宇宙局(NASA)は、ロシアに落下した隕石の大気圏突入前の大きさは直径17メートル、重さ
は1万トンだったという。大気圏突入時の空気の振動を観測する空振計のデータ収集が進んだため、再計
算し第一報の直径15メートル、重さ7千トンより大きいものなっている。また、大気圏に突入しばらば
らに分解されるまでの時間は32.秒だったという。
これらは、地球近傍小惑星と呼ばれているもので、地球に接近する軌道を持つ天体(地球近傍天体、NEO
(Near Earth Object))のうち小惑星のみを意味するが、英語ではNEAs(Near Earth Asteroid) と呼ばれること
もある。NASAでは地球に接近するために監視が必要とされるものは約8500個とされる。軌道計算では、
これらの小天体は今後少なくとも、百年間は地球に衝突する恐れはないとしている。だからというわけで
はないが原子力発電での使用済み燃料の減衰に要する年数が数万年というから数百回はその恐れがあるわ
けだから、昨夜の続きになるが、即刻にも原子力発電政策の見直しの実行の有無が喫緊の課題というわけ
だろう。これは天からの警告として考えた方が良いようだ。エネルギー問題あるじゃないかとということ
になるが、これも解決済みなのだから安心して良いと考えていのだが。ところで、NASAは1km以上の全
ての地球近傍天体をリストに載せる議会命令を公布している。この大きさ、それ以上の大きさのNEOは、
地球に衝突すると地球単位の重大な災害を引き起こすものを対象とする。2009年6月までに千個以上の危険
性があるというのだ。勿論、未確認の地球近傍天体も多数あると見られている。米国、EUや他の国は現在、
地球近傍天体のためにスペースガードという捜索プロジェクトで捜索を続けている。なお、従来あまり調
査されていなかった、黄道面から大きく離れた領域を含む全天をより効率的に観測するために、ハワイに
専用の望遠鏡を設置するパンスターズ計画が進められている。
【建築法の改定 防犯・減災ガラスの普及】
ロシアの隕石落下の惨事を目の当たりにして、また別のことをわたしは考えていた。窓硝子が割れても飛
散しなければ良いわけだから、自動車のフロント硝子のようなものに強度・靱性を強化する法整備を喫緊
に実施すべきだと。このことは、防災・減災だけでなく防犯ということもあり、少々コストが掛かるが、
それこそ、生活品質向上政策を推進すればよいのではないかと思いつく。この程度であれば過剰品質では
ないだろうから簡単にできそうだ。これは規制強化ではあるが、これは国民の「安全・安心」に繋がり、
「必然性の意識化=自由」(フリードリッヒ・エンゲルス)に繋がり、これが「ロシア隕石の窓」のいわ
れなのだと。
【第二章 同意の形成】
富を得る鍵が、国がどのように領土を獲得して、所有し、搾取するかである、
世界から、国または企業がどのように知識を蓄積して、共有し、収穫するかである、
世界へと、移行している。
ウォルター・リストン(元シティバンク会長)
今夜は米国と英国がどのようにして、新自由主義が、それが誰によって実現してきたのかをデヴィッド・
ハーヴェイから学ぶこととする。
一九七九年以後の、通例サッチャーとレーガンに帰せられる新自由主義革命は、民主主義的な手
段によって達成されなければならなかった。この大規模な転換を引き起こすためには、選挙に勝
利するための、かなり広範囲にわたる民衆の政治的な同意を事前に形成することが必要であった。
一般にこの同意の根拠となるのが、アントニオ・グラムシのいう「常識」(それは「共通に持た
れる感覚」と定義される)である。常識は地域的ないし国民的な伝統にしばしば深く根ざした文
化的社会化の長期的な慣行の中から形成される。それは、その時々の問題に批判的に関与するこ
とで形成される「良識」とは異なる。それゆえ常識は、文化的な偏見が存在する場合には真の問
題を大きく見誤らせ、不明瞭にし、偽装させることがある。神や国への信仰、あるいは女性の社
会的地位についての考え方といった文化的・伝統的価値観や、共産主義者・移民・異邦人・「他
者」への怖れといったものが、他の現実を隠蔽するために動員される。政治的スローガンは曖昧
なレトリックを凝らすことで、特定の戦略を覆い隠すことができる。「自由」という言葉は、ア
メリカ人の常識的理解の中であまりにも広く共鳴を受けるので、それは「大衆への扉を開くため
のエリートたちの押しボタン」になってしまい、ほとんどあらゆるものを正当化する。
-中 略-
個人の自由を根源的なものとして重視する新自由主義のレトリックは、国家権力の獲得による社
会的公正を追求する社会勢力の隊列の中から、リバタリアニズム(自由至上主義)、アイデンテ
ィティ・ポリティクス、多文化主義、さらにはナルシスト的な消費主義を分裂させる力をもつ。
たとえば、運動の政治的担い手たちは、個人的自由を希求し、特定のアイデンティティの完全な
承認とその表明を求めているが、以前からよく知られているように、そうした願望を妨げること
なく、社会的公正を達成するのに政治行動上必要な集団的規律を確立することは、アメリカ左翼
の内部では非常に難しいことであった。新自由主義そのものはこうした分化をつくり出しはしな
かったが、それをたやすく利用することができたし、場合によっては助長することさえできた。
-中 略-
新自由主義化にとって政治的にも経済的にも必要だったのは、差異化された消費主義と個人的リ
バタリアニズムの新自由主義的ポピュリズム文化を市場ベースで構築することであった。このこ
とはまさに、新自由主義が、長年舞台の袖に潜んでいて今日まさに文化の領域でも知の領域でも
支配的潮流として全面開花している「ポストモダニズム」と呼ばれる文化的推進力と少なからぬ
親和性があることをはっきりと示している。以上が、大企業と階級エリートたちが一九八〇年代
に巧妙に取り組み始めた挑戦課題だった。
-中 略-
(米国での)資本蓄積危機と階級権力の危機という二重の危機に対する一つの対応策は、一九
七〇年代における都市闘争の真っ只中で生じた。ニューヨーク市の財政危機は象徴的な事例であ
った。資本主義の再編と脱工業化はニューヨーク市の経済的基盤を何年にもわたって侵食し、急
速な郊外化は都市中心部の大半の貧困化という現象を後に残した。その結果が、周辺化された住
民による社会的騒乱の爆発であり、これは一九六〇年代における「都市危機」として知られるよ
うになる現象へとつながっていった(同じような問題がアメリカの数多くの都市で噴出した)。
公務員の雇用を拡大し公的福祉を拡充すること-これは部分的には連邦政府による気前のよい補
助金によって促進されたが解決策になると思われた。ところが財政的な困難に直面したニクソン
大統領は一九七〇年代初頭にあっさりと都市危機の終結を宣言した。これは都市住民の多くにと
って寝耳に水であったが、連邦政府からの補助金が削減される合図であった。景気後退の速度が
増すとともに、ニューヨーク市の歳入と歳出のギャップ(それはすでに長年にわたる浪費的な借
入によって大きなものであった)が拡大した。当初、金融機関はこのギャップを埋める貸付を行
なう姿勢を示していたが、一九七五年、シティバンクのウォルター・リストン率いる投資銀行家
の強力な一団がやってきて、債務の返済繰り延べを拒否し、市を事実上の倒産に追い込んだ。そ
の後、救済措置がとられたが、そこには、市の予算管理を引き継ぐ新しい諸機関の設立が含まれ
ていた。新しい諸機関は債権者〔市債の保有者〕への返済を優先させるために、市の税収に対す
る第一請求権を債権者に与えた。その残りが市の提供する不可欠なサービスに用いられた。その
結果、市の強力な自治体労組の要求が抑えこまれ、賃金が凍結され、公務員の雇用と社会福祉(
教育、公衆衛生、交通サービス)が削減され、受益者負担が導入された(初めてニューヨーク市
立大学に授業料が導入された)。最も屈辱的だったのは、自治体労組が自分たちの年金基金を市
債に投資しなければならなくなったことである。こうして組合は自分たちの要求を穏健化させる
か、さもなくば市が破産して自分たちの年金基金を失う危険性に直面することになった。これは
民主的に選挙された自治体であるニューヨーク市に対する金融機関のクーデターに等しいものだ
った。そしてそれはあらゆる点で先のチリにおける軍事クーデターと同じ効果をもった。財政危
機のさなかに富が上層階級に再分配された。ゼーヴィンはこう論じている。ニューヨーク市の財
政危機は、「所得、富、権力の逆進的な再分配と一体となった新しいインフレ抑制戦略」のきっ
かけだった。それは「新たな戦争におけるおそらく決定的な戦闘の前哨戦」であり、その目的は
「ニューヨーク市で起こっていることはよそでも起こりうるし、いくつかのケースでは実際に起
こるだろうということを見せつけること」であった。
-中 略-
だがニューヨークの投資銀行家たちは市から立ち去りはしなかった。ニューヨークを自分たちの
目的に合致したものにつくり変える機会をつかんだからである。「良好なビジネス環境」をつく
ることが最優先された。これは、資本主義企業に助成金と税制上のインセンティブを保証すると
ともに公共の資源をビジネスに最適なインフラ(とくに電気通信関係)をつくるために利用する
ということを意味した。企業向け福祉が国民向け福祉に取って代わった。市の中枢機関が文化的
中心地や観光名所としてのニューヨーク市のイメージを売り込むのに動員された(有名なロゴ「
INY」が考案されたのもこの頃である)。支配エリートは、あらゆる傾向の多様なコスモポ
リタン的風潮に文化的領域を開くことを、時に文句を言いながらも支持した。自我やセクシュア
リティやアイデンティティをナルシスト的に探求することは、ブルジョア都市文化のライトモチ
ーフになった。市の強力な文化機関によって推進された芸術の自由や芸術的放縦は、事実上、文
化の新自由主義化をもたらした。レム・コールハースの印象的な言葉を使えば「錯乱のニューヨ
ーク」は、民主主義的ニューヨークの集団的記憶をかき消したのである。市のエりIトたちは-
悶着がなかったわけではないが-ライフスタイルの多様性(性的嗜好やジェンダーに関わるもの
も含む)とますます増進する消費者の個性的な選択(たとえば文化生産の分野でのそれ)を受け
入れた。ニューヨークはポストモダン文化と知的実験の中心地になった。その間、投資銀行家た
ちは、金融活動、法律やメディアなどに関わる二次的サービス(当時起こりつつあった金融化に
よってかなり活性化した)、多様化された消費主義などを軸に市の経済を再建した(富裕層の流
人による都市の「中産階級化」と地域「再生」はめざましい経済効果をともなった)。市政府は、
社会民主主義的どころか経営主義的でさえなくなり、ますます企業主義的なものにされていった。
資本投資をめぐる都市間競争は、市の行政を官民パートナーシップによる都市統治へと変貌させ
た。市の事業はますますドアの内側で協議されるようになり、地方自治における民主主義と代表
制の内実は衰退していった。
このように、刺激に富んだ例を挙げいかにして米国で新自由主義の国民的合意形成されてきたを語り、そ
うして彼は「新自由主義への転換を支えるために動員された経済思想は、マネタリズム(フリードマン)、
合理的期待形成論(ロバート・ルーカス)、公共選択理論(ジェームズ・ブキャナンとゴードン・クロッ
ク)、そして、あまり評価されないがけっして影響力が小さくないアーサーこフッファーの「サプライサ
イド」理論をないまぜにした思想であった。ラッファーは何と、減税によるインセンティブ効果が経済活
動を活性化させ自動的に税収を増大させるとさえ主張した(レーガンはこの理論に夢中になった)。これ
らの諸議論のうちでより広く受け入れられた共通項は、政府の介入は解決よりもむしろ問題を生じさせる
ということ「安定した通貨政策プラス高所得階層への思い切った減税」は、適正に展開された企業活動に
インセンティブを与えることによって「より健全な経済を生み出す」というものであった。『ウォールス
トリート・ジャーナル』を筆頭にビジネス紙誌がこうした思想をとりあげ、新自由主義はすべての経済的
病理を解決する上で不可欠であると公然と唱えるようになった。これらの思想を広範に流布させる役割を
果たしたのは、シンクタンクの基に支援されたジョージ・ギルダーのような旺盛な執筆者たちであり、ス
タンフォードやハーバードなどの有名一流大学で設立された経営学大学院であった」とむすぶ。さて、次
に「イギリスにおける同意の形成はかなり異なった形で生じた。〔アメリカの〕カンザス州で起こったこ
とは、〔イギリスの〕ヨークシャーで起こったこととはきわめて異なっていた。まず文化的・政治的伝統
が非常に異なっていた。イギリスでは道徳的多数派に動員されるキリスト教右派は、言及に値しない程度
しかいない。大企業が公然と政治行動を支援することはあまりなく(政党への献金もわずかだった)、そ
の代わり、政府、学術界、司法、高級官僚(当時においてはいぜん独立の伝統を保持していた)を産業・
金融界のリーダーたちと長年結びつけてきた階級的・特権的ネットワークを通じて影響力を行使すること
が選択された。政治的状況もまた根本的に異なっていた」という特徴をもつ英国の「合意形成」過程を学
んでみよう。
第二次世界大戦後にイギリスで形成された福祉国家は、万人のお気に召すものであったわけでは
ない。高級紙『フィナンシャル・タイムズ』を筆頭にメディアを通じて強力な批判意見が流布さ
れ、メディアは金融界にしだいに従属していった。個人主義と自由は、国家機構の窮屈な官僚主
義的愚劣さや強圧的な労働組合勢力と対立するものとして描き出された。こうした批判はイギリ
スでは一九六〇年代に広まり、一九七〇年代の経済停滞の先行き不透明な時代になると、ますま
す激しくなった。当時人々は、イギリスがコーポラティズム国家、陰影な凡庸におおいつくされ
た国」になるのを怖れたのである。ハイエクに代表される思想的潮流は有力な反対勢力を形成し、
大学の内部で支持者を獲得し、さらに重要なことには、一九五五年創設の経済問題研究所(IE
A)の活動を支配した。この機関の出身者としては、後にマ-ガレット・サッチャーの主席顧問
となるキースジョゼフかおり、彼は一九七〇年代に著名人物へと出世した。一九七四年に政策研
究センターが、一九七六年にアダム・スミス研究所が設立されたこと、一九七〇年代にマスコミ
が新自由主義化にしだいに傾倒していったことは、世論の形勢に重大な影響を与えた。それ以前
から、政治的に斜に構えた大規模な若者運動が台頭し、一九六〇年代には「スインギング・ロン
ド6」の自由奔放なボッブカルチャーが流行したが、この両者とも、網の目状に広がった階級関
係の伝統的構造を嘲笑し、それに挑戦した。個人主義と表現の自由が重大な争点になり、左翼的
傾向を持った学生運動は、イギリスの固定化した階級システムや植民地的遺産といった諸要素に
さまざまに影響されそれらと複雑に妥協しながらも、六八年の運動がどこでもそうであったよう
にイギリス政治における能動的要素となった。階級的特権(貴族のそれだろうが政治家のそれだ
ろうが組合官僚のそれだろうが)に対する侮蔑的態度は、のちのポストモダン時代の急進主義の
土台になった。政治への懐疑主義は、あらゆる「大きな物語」に対する懐疑の下地となった。
-中 略-
アメリカの事例とイギリスの事例の最も明確な共通点は、労使関係とインフレ克服闘争の分野に
見ることができる。後者に関してサッチャーは、マネタリズムと厳格な緊縮予算を時代の風潮に
した。高金利は高失業率を意味した。一九七九~八四年の平均失業率は10%以上にのぼり、イギ
リス労働組合会議(TUC)はこの五年間で組合員の一七%を失った。労働者の交渉力は弱体化し
た。サッチャーの経済顧問アラン・バッドは後にこう指摘している。「経済と公共支出を引き締
めることによる一九八〇年代のインフレ抑制策は労働者を打ちのめす口実だった」。彼は続いて
こう述べている、イギリスではマルクスが「産業予備軍」と呼んだものが大量に生み出され、そ
の結果、労働者の力が掘りくずされ、資本家はその後容易に利益を上げることができた、と。そ
して一九八四年にサッチャーは、レーガンが一九八一年に敢行した全米航空管制官組合への挑発
に匹敵する行動に出た。炭鉱の大合理化と閉鎖を官百することによって(輸入石炭の方が安価だ
った)、炭鉱労働者のストライキを挑発したのだ。ストライキはほぼ一年続き、かなりの世論の
同情と支援があったにもかかわらず、炭鉱労働者は敗北した。イギリス労働運動の背骨が打ち砕
かれM。サッチャーは、イギリスを国際競争と外国からの投資にさらすことで組合の力をさらに
弱体化させた。国際競争は一九八〇年代に多くの伝統的なイギリス産業を破壊した-シェフィー
ルドの鉄鋼業、グラスゴーの造船、これらは数年以内にほぼ消え去り、それにともない組合勢力
の大部分も消えさった。サッチャーは自国のイギリス国有自動車産業を強力な組合や強力な労働
者主義的伝統とともに効果的に破壊した。その代わりに、ヨーロッパヘの進出を望む日本の自動
車企業にイギリスを海外拠点として差し出した。日本の自動車工場は郊外に建設され、日本型の
労使慣行に従いそうな非組合員の労働者が雇われた。これらすべての要素があいまって、イギリ
スは、わずか10年で相対的に低賃金で、他のヨーロッパ諸国に比べて労働者がおおむね従順な
国に変わった。サッチャーが退陣する時点で、ストライキ件数は以前の10分の1のレベルにま
で落ち込んだ。サッチャーはインフレを根絶し、労働組合の力を押さえつけ、労働者たちを飼い
慣らした。その過程でサッチャーは自分の政策への中産階級の同意を調達した。
デヴィッド・ハーヴェイ 渡辺 治 監訳「第二章 同意形成」
(『新自由主義-その歴史的展開と現在 』より)
とここまではしおって要約してきたが、デヴィッド・ハーヴェイのレーガンとサッチャーの成功の評価を
「すなわち、彼らが、これまでは少数派だった政治的・イデオロギー的・知的立場を採用し、それを一気
に主流の地位に押し上げたことである。彼らがその形成に助力した諸勢力の同盟関係と彼らが率いた多数
派勢力とは、次世代の政治的リーダーたちが取り除きたくても取り除けない遺産となった。レーガンとサ
ッチャーの成功を最もよく証明するのは、おそらく、クリントンやブレアにとって政治的に立ち回る余地
が非常にかぎられていて、たとえ自分のよりましな本意に反しても階級権力の回復プロセスを維持する範
囲内にとどまらざるをえない状況下に置かれたことであろう。そして、ひとたび新自由主義が英語圏の世
界に深く根づくと、資本主義が全体として国際的に機能しているその仕方が新自由主義にとってかなり適
合的だという事実が否定し難しくなっていた。このことは、われわれが後で見るように、英米両国の影響
力と権力が新自由主義をいたるところで押しつけたにすぎないと言っているわけではない」と、言うなれ
ば、もっと歴史的にも、地理学的に特徴をもって影響を与えたと-与えている。
この項つづく
気がつけば、深夜だ。すこしのめり込みすぎてしまったか。
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