極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

死が二人を分かつまでは

2017年10月20日 | 時事書評

       

                                 
                      梁恵王篇 「仁とは何か」  /  孟子  

                                                    

      ※ 最上の防衛策:斉が燕を併合したので、諸侯たちは燕の救援を計画した。斉の宣
                王は孟子に相談をもちかけた。

        「諸侯のなかに、わたしを討とうと計画する者が多いが、どんな対策を講じた
        ものだろう」孟子が宣王に謁見して言った。

        「七十里目方しかない小国の君主でありながら、天下に号令した人があるのです。
        湯王(殷の王)です。千里四大きな家を建てようと方もある大国の君主でありな
        がら、他国の侵攻におびえるお方があろうとは。書経に、『湯王は、葛(かつ)
        から征伐を始め給う』と、あります。そのころ天下の人民は湯玉に非常な信頼を
        寄せておりました。征伐軍が東へ進めば、西の蛮族が残念がり、南へ進めば、北
        の蛮族が残念がり、『なぜ、わたしたちのほうをあとまわしになさるのか』と、
        旱天に慈雨を祈る気持で湯王を待ち望んだものです。湯王は、人民の日々の仕事
        を妨げることなく、暴君を殺して、人民を苦しみから款いました。まるで慈雨で
        も降ったように、人民は喜びあったものです。書経には、『君のおいでを待ちわ
        びる おいでになればよみがえる』と歌っています。

        いまあなたは、人民を虐げていた燕を征伐なさった。燕の人民は、これこそ水火
        の苦しみから救ってくださるお方だ、と思い、食べ物、飲み物を用意してあなた
        の軍隊をもてなしたのです。それなのにかれらの父兄を殺し、若者を捕え、宗廟
        を壊し、財宝を奪うようなことがどうして許されましょう。
        いうまでもなく、天下の諸侯はお国の強大化を恐れています。そこへあなたは領
        土を二倍にされ仁。しかも仁政を行なおうともなさらぬ。天下の諸侯があなたに
        兵を向ける原因はこれです。
        王よ、いますぐ命令を出し、年寄り子供を国に帰し、財宝をもとへもどしなさい。
        燕の人々と協議のうえ、君主を立てて、こちらの軍を撒退させなさい。そうすれ
        ばいまからでも危機が回避できます」

      ※ 土井淑平著『小国と連邦の思想-スイスの歴史に学ぶ-』(The Thought of Small 
                               State and  Federation)にも引用されている。また、殷の湯王の精神は二千五百年後
        の『日本国平和憲法』にも活きている。 




【世界で一番美味いひとり宅めし Ⅰ】

昨日は、気がつけば正午過ぎで、めんどくささと、食欲も全面回復しておらず、ご飯に卵かけとふり
かけは花鰹と生醤油でなく、普段はおにぎりに使う丸美屋食品工業株式会社の『混ぜ込みわかめ海じ
そ』振りかけ頂く、これが、小食とはいえ、たった40円たらずで絶妙の美味しい超特急の宅飯とな
る。お米、生卵、ふりかけ、生醤油、そして象印の炊飯器と、美まし国「日本の誰でも極旨ランチ」
である。ただし、加工食品を構成する材料が純国産かどうかは不詳。

 ● 今夜のアラカルト
牛角風温玉やっこ 
トロトロの半熟卵とピリ辛のちょっと前ブームとなった食べるラー油をマッチさせた癖となる。
①器に豆腐1/2丁(17円)を入れて電子レンジ(500W)で1分加熱する。②別の器に水大さ
じ1を入れて卵1個(18円)を割り入れ、電子レンジで30秒ほど加熱したら、大さじで卵を押さ
えながら器に残った水を捨てる。③卵をのせやすくするためJの豆腐の上部中央をスプーンで一口分
すくう.へこんだ部分に食べるラー浦小さじ2と②の卵をのせる。

          
読書録:村上春樹著『騎士団長殺し 第Ⅱ部 遷ろうメタファー編』   

   第58章 火星の美しい運河の話を聞いているみたいだ

  「いいですよ。会って話をしましょう」と私は言った。「それで、ぼくはどこにうかがえばい
 い
のでしょう?」
 「いいえ、いつものように私たちがおたくにうかがいます。その方がいいと思うんです。もちろ
 ん先生の方がそれでよるしければということですが」
 「けっこうです」と私は言った。「ぼくの方にはとくに予定はありません。いつでもご都合のい
 
いときにいらしてください」
 「今これからでもかまいませんか? 今日ほとりあえず学校を休ませていますから。もちろん、
 もしまりえがそちらに行くことを承知すればですが」
 「君は何もしやべらなくていい。ぼくの方から話したと伝えてください」と私は言った。

 「承知しました。正確にそのように伝えます。いろいろとご迷惑をおかけします」とその美しい
 叔母は言った。そして静かに電話が切れた。
 二十分後にまた電話のベルが鴫った。秋川笙子だった。
 「今日の午後三時頃にそちらにうかがわせていただきます」と彼女は言った。「まりえもそのこ
 とを承知しました。といっても、いことがいくつかあるんだと、彼女にそう一度小さく肯いただ
 けですが」

  三時に待っていると私は言った。

 「ありがとうございます」と彼女は言った。「いったい何か起こっているのか、これからどうす
 ればいいのか、何もわからなくて、ただ途方に暮れているんです」
 ぼくだってそれは同じだと言いたかったが、言わなかった。彼女が求めているのはそういう返
 事ではないはずだ。
 「できるだけのことはやってみます。うまくいくかどうか自信はありませんが」と私は言った。
 そして電話を切った。

  受話器を置いてから私はまわりをそっと見回した。どこかに騎士団長の姿が見えないものかと
 思
って。しかしどこにもその姿は見えなかった。私は騎士団長のことを懐かしく思った。その姿
 や、その風変わりなしゃべり方のことを。しかしもう二度と彼の姿を見ることはあるまい。私が
 この手でその小ぷりな心臓を刺し貫いて殺害したのだ雨田政彦がうちに持ってきた鋭い出刃包
 を使って。秋川まりえをどこかから救出するために。その場所がどこであったのかを、私は知
 らなくてはならない。

 Nov. 4, 2013


   第59章 死が二人を分かつまでは 

  秋川まりえがやってくる前に、私はもう少しで完成するはずの彼女の肖像画をあらためて眺め
 た。それが完成したときどのような画面になるかを、私は鮮やかに思い浮かべることができた。
 しかしその画面が完成させられることはない。それは残念ではあるが、やむを得ないことだった。
  なぜその肖像画を描き上げてはならないのか、私にはまだ正確に説明することはできなかった。
 もちろん論理立てて証明なんてできない。ただそうしなくてはならないと感じるだけだ。でもそ
 の理由はおいおいわかってくるだろう。とにかく私は大きな危険を含んだものを相手にしている
 のだ、どこまでも注意深くならなくてはならない。


  私はそれからテラスに出て、デッキチェアに座り、向かいにある免色の白い屋敷をあてもなく

 眺めた。色を免れた白髪のハンサムな免色さん。「少し玄関で話をしただけだが、なかなか興味
 深い人物のようだ」と政彦は言った。「とても興味深い人物だよ」と私は控えめに訂正した。と
 い人物だよ、と私は今、あらためて言い直した。 
  三時少し前に、見慣れたブルーのトヨタ・プリウスが坂道を登ってきて、家の前のいつもと同
 じ場所に停止した。エンジンが止まり、運転席のドアが間いて秋川笙子が降りてきた。両膝を揃
 えて、身体をくるりと回すようにして優雅に。それから少し時間をおいて、助手席から秋川まり
 えが降りてきた。いかにも面倒くさそうにのっそりとした動作で。朝までは空を覆っていた雲は
 とこかに吹き払われ、あとにはきっぱりとした初冬の青空が広がっていた。冷ややかさを含んだ
 山からの風が二人の女性の柔らかな髪を不規則に握らせていた。秋川まりえは額に落ちた前髪を
 煩わしげに手で払った。

  まりえは珍しくスカートをはいていた。膝までの長さの紺のウールのスカートだった。その下
 にくすんだブルーのタイツをはいている。そして白いブラウスの上にVネックのカシミアのセー
 ターを着ていた。セーターの色は深い葡萄色だった。靴は焦げ茶のローファー。そういう格好を
 していると彼女は、上品な家庭で大事に育てられた、ごく当たり前の健全で美しい少女のように
 見えた。エキセントリックなところはうかがえない。ただしやはり胸の膨らみはほとんどなかっ
 た。

  秋川笙子は今日は、淡いグレーのぴったりとしたパンツをはいていた。良く磨かれた黒いロー
 ヒブールの靴。そして丈の長い白のカーディガンを着ていた。腰のところにベルトがついている。
 そしてしっかりとしたその胸の膨らみは、カーディガンの上からも明らかにうかがえた。手には
 黒いエナメルのパースのようなものを持っていた。女性はいつも何かしらそういうものを手にし
 ている。中にどんなものが入っているのか、見当もつかないけれど。まりえは何も手にしていな
 かった。いつものように両手を突っ込むポケットがないので、手持ちぶさたのように見えた。

   若い叔母と姪の少女、年齢の違い、成熟の度合いの差こそあれ、どちらも美しい女性だった。
 私は彼女たちの姿を窓のカーテンの隙間から観察していた。二人が並ぶと、世界が少しだけ明る
 さを増したような気配があった。クリスマスと新年がいつも連れだってやってくるみたいに。
  玄関のベルが鳴り、私はドアを開けた。秋川里子が私に丁寧に挨拶をした。私は二人を中に入
 れた。まりえはまっすぐ唇を結んだまま、ひとことも目をきかなかった。誰かに上下の唇をしっ
 かり縫い合わされてしまったみたいに。意志の堅い少女なのだ。一度こうと決めたらあとに引か
 ない。
  私は二人をいつものように居間に案内した。秋川里子は今回のことではいろいろとご迷惑をお
 かけして、と長々しく詫びかけたので、私はそれを止めた。社交的な会話を交わしているような
 時間の余裕はない。

 「もしよるしければ、しばらくまりえさんと二人だけにしていただけますか?」と私は単刀直入
 に言った。「その方がいいと思うんです。二時間ほどしたら、ここに迎えに来てください。それ
 でかまいませんか?」
 「ええ、もちろん」と若い叔母は少し戸惑ったように言った。「まりちゃんがそれでかまわなけ
 れば、私の方はもちろんかまいません」

 
 まりえはとても小さく一度肯いた。それでかまわないということだ。
  秋川笙子は小さな銀色の腕時計に目をやった。
 「五時前にまたここにおうかがいします。そのあいだ自宅に待機しておりますので、もし何かご
 用がありましたらお電話をください」  

   何か用事があったら電話をする、と私は言った。

  何か心にかかることがあるように、秋川笙子は黒いエナメルのパースを手に握ったまましばら
 くそこに無言で立っていた。それから思い直したように息をつき、にっこりと微笑み、玄関に向
 かった。プリウスのエンジンがかかり(音はよく聞き取れなかったが、たぶんかかったのだろ
 う)、車は坂道の方に消えていった。そして家の中にいるのは、秋川まりえと私の二人だけにな
 った。

  少女はソファに腰掛け、唇をまっすぐに結び、自分の膝をじっと見ていた。タイツに包まれた
 膝はひとつにしっかりと合わされていた。ひだのついた白いブラウスはとてもきれいにアイロン
 がかけられていた。





  しばらくのあいだ深い沈黙が続いた。それから私は言った。「ねえ、君は何も話さなくていい。
 黙っていたいのなら、好きなだけ黙っていればいい。だからそんなに緊張することはない。ぼく
 がI人でしやべるから、君はただそれを関いていればいいんだ。わかった?」

  まりえは顔を上げて私を見た。しかし何も言わなかった。肯きもしなかったし、首を横に振り
 もしなかった。ただじっと私を見ていた。そこにはどのような感情も浮かんでいなかった。彼女
 の顔を見ていると、大きくて真っ白な冬の月を見ているみたいな気がした。彼女はたぶん自分の
 心を一時的に月のようにしているのだろう。空に浮かぶ堅い岩のかたまりのように。
 「まず鍛初に君に手伝ってもらいたいことかあるんだ」と私は言った。「スタジオに来てくれな
 いか?」

  私か椅子から起ち上がってスタジオに入って行くと、少女も少ししてソファから起ち上がり、
 私のあとをついてきた。スタジオの中はひやりとしていた。私はまず石油ストーブをつけた。窓
 のカーテンを開けると、明るい午後の陽光が山肌を照らしているのが見えた。イーゼルの士には
 描きかけの彼女の肖像画が置かれていた。それはほぼ完成に近づいていた。まりえはその絵にち
 らりと目をやり、それから見るべきではないものを見たように、すぐに視線を逸らせた。
  私は床に屈み込んで、雨田典彦の『騎士団長殺し』をくるんでいた布をはがし、その線を壁に
 かけた。そして秋川まりえをスツールに座らせ、その絵をまっすぐ正面から見せた。

 「この絵は前に見たことがあるね?」

  まりえは小さく肯いた。

 「この絵のタイトルは『騎士団長殺し』っていうんだ。少なくとも包みの名札にはそう書かれて
 いた。雨田典彦さんが描いた絵で、いつ描かれたのかはわからないが、完成度はきわめて高い。
 構図右京晴らしいし、技法も完璧だ。とりわけ一人ひとりの人物の描き方がリアルで、強い説得
 力を待っている」

  私はそこで少し間を置いた。私の言ったことがまりえの意識に落ち着くのを待った。それから
 続けた。

 「でもこの絵はこれまでずっと、この家の屋根裏に隠されていた。人目につかないように紙にく
 るまれたまま、おそらくは長い年月そこで埃をかぶっていた。で右ぼくがたまたま見つけて、運
 び下ろしてここに待ってきた。作者以外にこの絵を目にしたことがあるのは、たぶんぼくと君だ
 けだろう。君の叔母さんも最初の日にこの絵を見たはずだが、なぜかまったく興味を惹かれなか
 ったようだ雨田典彦がどうしてこの絵を屋根裏に隠していたのか、その理由はわからない。こ 
 んなに見事な絵なのに、彼の作品の中でも傑作の部類に属する作品なのに、なぜわざわざ人目に
 触れないようにしておいたのだろう?」

  まりえは何も言わず、スツールに腰掛けて、『騎士団長殺し』を真剣な目でただじっと見つめ
 ていた。
  私は言った。「そしてぼくがこの絵を発見してから、それが何かの合図であったかのように、
 いろんなことが次々に起こり始めた。いろんな不思議なことが。まず免色さんという人物がぼく
 に積極的に接近してきた。谷の向こう側に往む免色さんだ。君は彼の家に行ったことがあるよ
 ね」

  まりえは小さく肯いた。

 「その穴を開くと、中から出てきたのは騎士団長だった。この絵の中にあるのと同じ人だよ」
  私は絵の前に行って、そこに描かれた騎士団長の姿を指さした。まりえはその姿をじっと見て
 いた。しかし表情に変化はなかった。
 「これとそっくり同じ顔をして、同じ服装をしている。ただし体長は六十センチほどしかない。
 とてもコンバクトなんだ。そしてちょっと風変わりなしゃべり方をする。でも彼の姿はどうやら、
 ぼく以外の人の目には見えないらしい。彼は自分のことをイデアだと言う。そして自分はあの穴
 の中に閉じこめられていたんだと言った。つまりぼくと免色さんが彼を、穴の中から解放したわ
 けだ。君はイデアというのが何か知っているかな?」

  彼女は首を振った。

 「イデアというのは、要するに観念のことなんだ。でもすべての観念がイデアというわけじゃな
 い。たとえば愛そのものはイデアではないかもしれない。しかし愛を成り立たせているものは間
 違いなくイデアだ。イデアなくして愛は存在しえない。でも、そんな話を始めるときりがなくな
 る。そして正直言って、ぼくにも正確な定義みたいなものはわからない。でもとにかくイデアは
 観念であり、観念は姿かたちを持だない。ただの抽象的なものだ。でもそれでは人の目には見え
 ないから、そのイデアはこの絵の中の騎士団長の姿かたちをとりあえずとって、いわば借用して、
 ぼくの前にあらわれたんだよ。そこまではわかるかな?」

 「だいたいわかる」とまりえは初めて目を間いた。「その人には前に会ったことがあるから
 「会ったことがある?」、私はびっくりして、まりえの顔を正面から見た。しばらくのおいた言
 葉が出てこなかった。それから騎士団長が伊豆高原の療養所で私に言ったことをはっと思い出し
 た。 

 少し前に会っできたところだ、と彼は言っていた。短く話もしてきたと

 「君は騎士団長に会ったことかあるんだね?」

  まりえは肯いた。

 「いつ、どこで?」
 「メンシキさんのうちで」と彼女は言った。
 「彼は君に何を言ったんだろう?」

  まりえは再び唇をまっすぐ合わせた。今はそれ以上話したくないという意思表示のようだった。
 
だから私は彼女から何かを聞き出すことをあきらめた。
 
 「この絵からは、ほかにもいろんな人物が現れて出てきた」と私は言った。「両面の左下のとこ
 ろに、型もじやの変な顔をした男の姿が見えるだろう。これだよ」

  私はそう言って、顔ながを指さした。

 「ぼくはこいつのことを仮に〈顔なが〉と呼んでいるんだけど、とにかく異形のものだ。大きさ
 はやはりコンパクトで、体長七十センチほどだった。彼もやはり両面から抜け出すようにしてぼ
 くの前に現れ、絵と同じように蓋を持ち上げて穴を開き、ぼくをそこから地底の国に導いてくれ
 た。とはいっても、手荒く無理強いして案内させたようなものだけど」

  まりえは長いあいだ顔ながの姿を見ていた。しかしやはり何も言わなかった。
  私は続けた。「それからぼくはその薄暗い地底の国を歩いて抜け、丘を越え、流れの速い川
 
渡り、そしてここにいる若くて綺麗な女性に出会った。この人だ。モーツァルトの歌劇『ドン・
 
ジョバンニ』の彼にあわせて、彼女をドンナ・アンナと呼ぶことにする。やはり背丈は小さい。

 彼女はぼくを洞窟の中の横穴に導き入れてくれた。そして死んだ妹と一緒に、ぼくがそこをくぐ
 り抜けるのを励まし、肋けてくれた。もし彼女たちがいなかったら、ぼくはあの横穴をくぐり抜
 けることができず、そのまま地底の国に閉じこめられていたかもしれない。そしてひょっとした
 ら(もちろんこれは推測に過ぎないわけだけど)、ドンナ・アンナは雨田典彦さんが若くしてウ
 ィーンに留学していたときの恋人だったかもしれない。彼女は七十年近く前に、政治犯として処
 刑された」

  まりえは絵の中のドンナ・アンナを見ていた。まりえの眼差しはやはり白い冬の月のように表
 情を欠いていた。
  あるいはドンナ・アンナはスズメバチに刺されて亡くなった、秋川まりえの母親であるかもし
 れない。彼女がまりえの身を護ろうとしていたのかもしれない。ドンナ・アンナは同時にいろん
 なものを表象しているのかもしれない。でももちろん私はそのことは口に出さなかった。

 「それからここにもう一人の男がいる」と私は言った。そして床に裏返しに置かれていたもう一
 枚の緒を表向きにした。そしてそれを壁に立てかけた。描きかけの「白いスバル・フォレスター
 の男」の肖像画だ。普通に見れば、キャンバスがただ三色の緒の典で塗りつぶされているように
 しか見えない。しかしその厚い緒の典の奥には、白いスバル・フォレスターの男の姿が描かれて
 いる。私にはその姿が見える。しかしほかの人の目には映らない。

 「この緒は前にも見たね?」

  秋川まりえは何も言わずにこっくりと肯いた。

 「君はこの絵 はもう完成していて、このままでいいと言った」

  まりえはも一度肯いた。

 「ここに描かれているのは、あるいはここにこれから描かれなくてはならないものは、〈白いス
 バル・フォレスターの男〉と呼ばれる人物だ。ぼくはこの男に宮城県の小さな海岸の町で出会っ
 た。二度出会った。とても謎めいた、意味ありげな出会いだった。彼がどういう人物なのかぼく
 は知らない。名前も知らない。でもぼくはあるときその男の肖像画を描かなくてはと思った。と
 ても強くそう思った。それで彼の姿かたちを思い出しながら描き始めたんだけど、どうしても描
 き終えることができなかった。だからこうして終の色で塗りつぶされたままになっている」
 まりえの唇は相変わらず一直線に結ばれていた

  それからまりえは首を横に振った。

 「その人はやはり怖い」とまりえは言った。

 「その人?」と私は言った。そして彼女の視線を追った。まりえは私の描いた『白いスバル・フ
 ォレスターの男』を見つめていた。
 「それはこの絵のこと? 白いスバル・フォレスターの男のこと?」

  まりえはこっくりと肯いた。彼女は怯えながらも、その終から視線をそらせることができない
 ように見えた。

 「君にはその男の姿が見えるんだ?」
  まりえは骨いた。「塗られた結の其の奥にその人がいるのが見える。そこに立ってわたしのこ
 とを見ている。黒い帽子をかぶって」

  私はその絵を床から取り上げ、もう一度裏返しにした。「君にはこの絵の中の、白いスバル・
 フォレスターの男の姿が見える。普通の人には見えないはずのものが」と私は言った。「でもも
 うこれ以上彼のことは見ない方がいい。君にはたぶん、まだ見る必要のないものだと思うから」
 まりえは同意するように肯いた。
  <白いスバル・フォレスターの男〉がこの世界に本当に存在するものなのかどうか、それもぼ
 くにはわからない。あるいは誰かが、何かが、この男の姿かたちを一時的に借用しているだけか
 もしれない。イデアが騎士団長の姿かたちを借りたのと同じように。あるいはぼくはそこに、自
 分白身の投影を見ているだけなのかもしれない。でも本当の暗闇の中ではそれはただの投影なん
 かじやなかった。それは確かな触感を持つ、生きて動いている何かだった。その土地の人々はそ
 れを〈二重メタファー〉という名で呼んだ。ぼくはいつかその絵を完成させたいと思っている。
 でも今はまだ早すぎる。今はまだ危険すぎる。この世界には簡単に明るみに引き出してはならな
 いものがあるんだ。しかしぼくはあるいは……」

  まりえは何も言わず、じっと私の顔を見ていた。私はそのあとをうまく続けることができなか
 った。

 「……とにかくいろんな人の手助けを受けて、ぼくはその地底の国を横断し、挟くて真っ暗な横
 穴を抜けて、この現実の世界になんとか帰り着いた。そしてそれとほぼ同時に、それと並行して、
 君もどこかから解放されて戻ってきた。その巡り合わせはただの偶然とは思えないんだ。君は金
 曜日からおおよそ四日間どこかに消えていた。ぼくも士曜日から三日間どこかに消えていた。二
 人とも火曜日に戻ってきた。その二つの出来事はとこかできっと結びついているはずだ。そして
 騎士団長がそのいねば継ぎ目のような役目を果たしていた。しかし彼はもうこの世界にはいない。
 彼はもう役目を終えてどこかに去ってしまったんだ。あとはぼくと君と、二人だけでこの環を閉
 じるしかない。ぼくの言ってることを信じてくれる?」

  まりえは肯いた。

 「それが今ここでぼくの話したかったことだ。そのために君と二人だけにしてもらったんだ」
 
  まりえは私の顔をじっと見ていた。私は言った。

 「本当のことを話しても、ほかの誰にも理解してはもらえないと思った。たぶん頭がおかしくな
 ったと思われるだけだろう。なにしろ筋の通らない、現実離れした話だからね。でもきっと君に
 なら受け入れてもらえると思ったんだ。そしてまたこの話をするからには、相手にこの『騎士団
 長殺し』の終を見せなくてはならない。そうしないと話が成立しないからね。でもぼくとしては
 君以外のほかの誰にも、この終を見せたくなかった」

  まりえは黙って私の顔を見ていた。その瞳には少しずつ生命の光が戻ってきたようだった。

  「これは雨田典彦さんが精魂を傾けて描いた絵だ。そこには彼の様々な深い思いが詰まってい
 る。役は自ら血を流し、肉を削るようにしてこの終を描いたんだ。おそらく一生に一度しか描け
 ない種類の絵だ。これは彼が自分自身のために、そしてまたもうこの世界にはいない人々のため
 に描いた終であり、言うなれば鎮魂のための絵なんだ。流されてきた多くの血を浄めるための作
 品だ」

 「チンコン?」
 「魂を鎮め、落ち着かせ、傷を癒すための作品だ。だから世間のつまらない批評や賞賛は、ある 
 いは経済的報酬は、彼にとってはまったく意味を持たないものだった。むしろあってはならない
 ものだった。この経が描かれ、この世界のどこかに存在しているというだけで、彼にはもう十分
 だったんだ。たとえ紙にくるまれて、屋根裏に隠され、他の誰に見られなかったとしてもね。そ
 してぼくは彼のそういう気持ちを大事にしたいと思う」

  しばらく深い沈黙が続いた。

 「君は昔からよくこのあたりに遊びに来ていた。秘密の通路を通って。そうだね?」

  秋川まりえは肯いた。

 「そのときに雨田典彦さんに会ったことはある?」
 「要を目にしたことはある。でも会って話をしたことはない。こっそり隠れて遠くから眺めてい
 ただけ。そのおじいさんが経を描いていたところを。わたしはひとの土地に勝手にシンニュウし
 ていたわけだから」

  私は肯いた。その光景をありありと思い浮かべることができた。植え込みの陰に隠れて、まり
 えがこっそりとスタジオの中を覗いている。雨田典彦がスツールに腰掛け、意識を集中して絵筆
 をふるっている。誰かが自分を眺めているかもしれないというような考えは彼の頭をよぎりもし
 ない。

 「わたしに手伝ってほしいことかあると、先生はさっき言った」と秋川まりえが言った。
 「そうだった。そのとおりだ。君にひとつ手伝ってもらいたいことがあるんだ」と私は言った。
 「この二枚の経をしっかり包装して、人目に触れないように屋坦畏に隠してしまいたい。『騎士
 団長殺し』と『白いスバル・フオレスターの男』を。ぼくらはもうこれらの経を必要とはしない
 いは経済的報酬は、彼にとってはまったく意味を持たないものだった。むしろあってはならない
 ものだった。この経が描かれ、この世界のどこかに存在しているというだけで、彼にはもう十分
 だったんだ。たとえ紙にくるまれて、屋根裏に隠され、他の誰に見られなかったとしてもね。そ
 してぼくは彼のそういう気持ちを大事にしたいと思う」

  しばらく深い沈黙が続いた。

 「君は昔からよくこのあたりに遊びに来ていた。秘密の通路を通って。そうだね?」

  秋川まりえは肯いた。

 「そのときに雨田典彦さんに会ったことはある?」
 「要を目にしたことはある。でも会って話をしたことはない。こっそり隠れて遠くから眺めてい
 ただけ。そのおじいさんが経を描いていたところを。わたしはひとの土地に勝手にシンニュウし
 ていたわけだから」



In pictures: Germany begins publishing list of works found in Nazi art stash

 
それにしても秋川まりこは白いバル・フォレスターの男>の何におびえたのだろうか。このにきて
この作品のコアを予感させるものである。


                                      この項つづく
 

 ● 今夜の一曲

プロ薬も悲願の日本シリーズ優勝に王手をかけ熾烈な戦いが繰り広げられている。『涙の敗戦投手』 
楽天の則本昂大投手が泣き崩れている写真が飛び込む。と、同時に舟木一夫の『涙の敗戦投手』が
よみがいる。

  ∮ みんなの期待 背にうけて
    力のかぎり 投げた球
    汗にまみれた ユニフォーム

    だけど敗れた 敗戦投手
    落ちる涙は うそじゃない

    味方と敵に 別れても
    斗いすめば 友と友
    勝つも負けるも 時の運
    肩をたたいて 手に手をとろう
    いっか笑顔で また逢おう ♪

                      作詞 丘 灯至夫  作曲 戸塚三博 

 

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