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ぽかぽか春庭「上杉伯爵邸ランチ in 米沢」

2014-10-11 00:00:01 | エッセイ、コラム

上杉伯爵邸

201410011
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記秋の小さな旅(6)上杉伯爵邸ランチin 米沢

 リュックサックにおみやげの鯉煮つけをつめ、「どうして最初におみやげ買っちゃったんだろ、旅の終わりの最後に買えば荷物にならないのに、ばかだなあ」と思いながら、本日の目的地「旧米沢工業学校」に向かいました。現・山形大学工学部。校舎はルネッサンス様式の擬洋風建築の傑作です。しかし「校舎めぐり」で報告した通り、工事中でした。残念。

 米沢工業学校のほか、特に見たいところもなかったので、米沢と言えば上杉神社でしょ、ということで、神社境内へ。
 前回上杉神社に来た時は、青春18切符で一日最長距離を移動する、という乗り鉄の旅でした。この時は、鈍行で一日、上野、水戸、いわき、郡山、福島、米沢、新潟、直江津、富山、高山、岐阜、名古屋と、回ったので、米沢も大忙し通過しただけ。
 米沢駅前からタクシーに乗って、神社お参り、タクシーの運転手さんに1枚写真を撮ってもらって、米沢に来た証拠にして、すぐに駅に引き返しました。

 今回は、のんびり旅。上杉神社を見たら帰ろうと思い、ゆっくり過ごしました。月曜日は、どこの博物館記念館も休館日というところが多いから、見学場所は神社くらいです。
 自転車で神社近くまで寄ると、上杉伯爵邸というレストランが目に入りました。前回は神社だけ見たので、こんな邸宅があるとはわかりませんでした。

 上杉伯爵邸は、1996(明治29)年に、米沢藩14代目の上杉茂憲(もちのり)伯爵邸として建てられた「近代和館」ですが、1919(大正8)年の米沢大火で焼失。1925(大正14)に再建されました。姑が生まれた年です。すると、このお屋敷も来年は90歳なのね。 設計者は中條精一郎、施工は大工の江部栄蔵、胴板葦き、総ヒノキの入母屋づくり。1997年に、有形文化財指定を受けています。

 月曜日なので、ランチは予約客のみ、と入り口に出ていたので、「な~んだ」と思いましたが、受付にいた人に「今日の予約もできますか」とたずねたら、OKでした。「ランチは11時半からなので、そのころおいでください」というので、神社参拝をすることに。

 
 米沢牛の故事来歴の石碑のほか、おもしろそうなものは見当たりませんでした。


 まずはお参りして、境内近くのみやげもの屋でむすめに米織りのミニがま口、息子へストラップなどのおみやげを買いました。まだまだ11時。伯爵邸に戻って、「ランチの前に、館内を見学していてもいいですか」と聞いたら、「はい、見学は10時から無料でご自由にということで見ていただいております」という説明。なんだ、それを先に聞けばよかった。













 館内の部屋を勝手に見て歩き、ようやくランチ時間になりました。
 いす席の部屋に入り、今回の旅で、ただ一度のぜいたくランチ。ぜいたくと言っても、日頃、てんやの天丼500円とコンビニ弁当400円のどちらにするか悩むという我が生活から見てぜいたくというだけです。米沢の伝統料理セットで、2160円。6000円米沢牛すきやきには手がでませんでした。



 ランチのあとは、米沢駅近くの、近代和館の写真をとりました。
ホテル音羽屋本館 設計:棟梁西山留太郎  竣工年:1937(昭和12)年


 自転車を返却し、午後から夜まで東北線を乗り継いで帰宅。お土産の鯉煮付けの袋を見た娘に「こっちは賞味期限、来月だからおばあちゃんにあげられるけれど、こっちの賞味期限は明日だよ。あしたじゅうに食べなくちゃ。どうしてちゃんと賞味期限の日付をちゃんと見て買わないの」と、叱られました。いつも、ぼうっとして買うので。
 翌日、夕食に鯉の煮付けをいただきました。セーフ。米沢で買ったのにフクシマ製のゆべしとか、賞味期限ぎりぎりの鯉煮付けとか、どうも買い物は不得手です。

 次はまた、「電車に乗っているだけ」の「乗り鉄旅」がいいな。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「福島のゆべし in 米沢」

2014-10-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141009
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記秋の小さな旅(5)福島のゆべしin 米沢

 山形から米沢への電車は、朝の通学時間帯に当たったので、地元の高校生たちのいろいろなおしゃべりを聞けたし、車窓は黄金色に色づき始めた田園風景。とても楽しい1時間でした。電車のなかで、ソーレインホテルからテイクアウトのおにぎりを食べて朝ごはん。

 秋の小さな旅。
 青春18切符利用、ビジネスホテル宿泊。「小さな旅」とは言え、2日間で使った費用、青春18切符2枚で4200円。ソーレインホテルズ2泊で8500円。果物を買ったり博物館入場料なんぞを足しても、2日間で旅行費用2万にもいきません。2日節約旅行だったので、3日目は、ちょっとは散財しようと決意。  

 ちょっとはお金使ってもいいかと電車のなかで決意したのに。
 駅前のJRレンタカーショップで自転車を借りるのに、500円かかったので、「山形市は、観光課が無料レンタル自転車を貸し出してくれたのに、米沢市はお金取るのか!」と、しょっぱなからいじましい感想を持ちました。

 世が世なれば、上杉藩城下町だった米沢。一方山形は、最上氏鳥居氏松平氏水野氏らが次々と転封され、江戸時代最後は天領。しかし、県庁所在地ということになると、発展の差は歴然としてしまい、現代にいたっては、市の財政はかなりの差がついている模様。山形は無料自転車貸出しの財力がある。

 米沢は、舅のふるさとです。
 舅のご先祖は、上杉藩の下級武士でしたが、明治維新で藩がなくなり、武士の禄がなくなればたちまち食えなくなって、和ろうそく屋の入り婿になりました。そのろうそく屋もつぶれてしまって、舅の祖父は「代言人」になりました。明治26年に弁護士法ができるまで、弁護士は代言人と呼ばれ、最初は文字をきちんと書ける人であれば、誰でもなれたのだそうです。

 舅の父は、行政書士になり、家業のように、舅の兄弟達は行政書士や計理士になりました。6人兄弟の末っ子だった舅は、そろばんが得意だったので商業学校へ進学。冬は距離スキー、雪がないときは駅伝の選手で、今の国体にあたる明治神宮競技大会というのに出場して入賞したと、死ぬまで誇りのひとつにしていました。銀行員になり、結婚後妻と上京しました。

 姑は、米沢よりさらに山奥の出身。姑が米沢まで女学校に通うにも、冬場は駅に出るまで雪道を2時間も歩いた、という駅からさらに山奥の山村で生まれ育ちました。
 「冬場は、同級生たちは米沢市内に下宿するのに、うちは貧乏で、下宿費用が出してもらえないから、汽車通学を続けた」と、姑は孫たちに何度でも苦労話を語ります。

 夫を若くして亡くし、財産もない家で、姑の母親は女手ひとつで長男長女を師範学校に上げました。女性のほとんどは小学校を出れば子守奉公にでも出た時代に、「貧乏な家」と言っても、姑も女学校に通えたのですから、姑の母親は、「財産を残せないので、子供には教育だけは残してやろう」と決意していたのでしょう。

 女に学問はいらない、という父親を持ち、家計を支えるために小学校を出るとすぐに働かなければならなかった私の母に比べれば、姑はずっと恵まれた少女時代だったのではないかと思います。

 そんなこんなを思いながら米沢市内を自転車で疾走。最初にスーパーマーケット、ヨークベニマルに寄りましたヨークベニマルって、いかにも地元の商店ベニマルがイトーヨーカ堂に吸収合併させられた、って雰囲気のネーミングです。ハトのロゴマークはイトーヨーカ堂と同じ。

 姑が「これぞ米沢の味」と言う「鯉の煮つけ」を買う。ふたキレ入っていて1600円。姑のとうちの分と二袋買いました。米沢牛もおいしいけれど、姑が米沢に暮したころは、お肉は一般家庭ではそれほど食べられておらず、冠婚葬祭の祝い事のごちそうは、必ず鯉の煮つけだったから、姑には牛肉より鯉です。私もこの鯉の煮つけ大好きです。

 夫にはゆべし一袋。5個入り600円。ゆべし、秋田のゆべしも福島のゆべしもあるけれど、夫は、山形のゆべしがいちばんおいしい、というのです。両親のふるさとである米沢で買ったゆべしですから、夫には一番おいしいはずです。
 しかし、家に帰りついてから娘に見せたら、娘は袋裏の説明書きのところをじっくり読んで「これ、製造元はフクシマだよ」と、言う。あらま。でも、私は福島のゆべしも、山形のゆべしもおいしいと思います。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「縄文のヴィーナス in 山形県立博物館」

2014-10-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141008
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記秋の小さな旅(4)縄文のヴィーナスin山形県立博物館

 山形市霞城公園内にある済生館の見学が今回の主な目的です。でも自転車で大手門を入っていくと、まず目についたのは、県立博物館前に立つ、縄文のヴィーナス。
 夏に江戸東京博物館の「発掘された考古学展2014」を息子と見たときも、土偶の展示がいちばん好きでした。
 縄文のヴィーナスと呼ばれる土偶は何点かあるのですが、山形のヴィーナスは、江戸東京には展示してありませんでした。見たかったヴィーナスに会えました。

 山形県立博物館の入口前には、目玉展示品「縄文のヴィーナス」のパネル写真がお出迎え。まずは、ヴィーナス対決で一枚パチリ。縄文ヴィーナスvs自分史的ヴィーナス。え、誰とだれがヴィーナスやて?そりゃむろん、自分自身がヴィーナスだって思っている人がヴィーナスなのです。山形の縄文ヴィーナスだって、1989年に西ノ前遺跡から発掘されて長い眠りから覚めたとき、自分のこと、ヴィーナスと呼ばれるとは思ってもみなかったでしょう。



 土偶は小さな像が多いですが、山形のヴィーナスは高さ45cmで、国内では最大級の土偶です。2012年に国宝指定を受けていますから、その美しさは認定済みです。
 美しいなあと、見とれました。土偶は、豊穣のまじないなのか、死者の副葬品なのかも、まだ論争中。でもとにかく、豊穣を表す胸も、優美なおしりも、豊作まちがいないの美しさでした。縄文人たちは、栗やクルミの木を育て、雑穀を栽培していたということです。川での魚もごちそうだったことでしょう。



 ヴィーナス対決、、、、うん、私の胸とお尻じゃ豊作は期待できません。私の貧乳では冷害やら日照りやら、、、ヴィーナス対決、今日のところは、勝ちをゆずっておきましょう。


 霞城公園内で済生館の見学を終えて、市内の繁華街を通ると、街中のあちこちで、ストリートパフォーマンスが展開中でした。ストリートシンガー、ストリートダンサー、マジック、などなど。市民、セミプロ、プロ入り乱れてのアートフェスティバルが行われていました。

 私は、知的障害の人々のダンスパフォーマンスを見ました。
 ダンス技術はむろん上手ではないけれど、参加者が心からダンスを楽しんでいることがよくわかるパフォーイングでした。こんなふうに、だれでも楽しめるダンス、いいと思います。もう何曲か見ていきたかったけれど、建物めぐりもいろいろ行きたいところがあるので、、、
 指導の先生は「この子たちが、自分なりの感性で体を動かしているところを見てください」と曲目紹介で語っていました。



 地図を見ながら迷ってしまう私なのですが、今回は、迷って入り込んだ小道に、すてきな建物を見つけたりしながら、自転車散歩を楽しむことができました。
 市内のあちらこちらで写真を撮っていたら、カメラ充電切れ。駅前Docomoショップで充電することになったのですが、充電に1時間かかるといわれました。

 そうすると、今日中に米沢へ行くのは少し遅くなるだろうし、米沢でまたホテル探しをする気力がなくなりました。日曜日の夜はもう、どのホテルもスキスキのはずです。各種学会参加者も帰っちゃったろうし。土曜日の夜に泊めてくれたソーレインホテルズにお礼のもう一泊することにしました。

 平日夜で、会員価格一泊3800円。安っ!狭いしサービス悪いけれど、この価格じゃ文句言えない。
 山形2泊目も、ソッコー寝付く。2泊目はエアコンつきの部屋でしたが、別段エアコンいらなかった。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「3時間ホームレス in 山形市」

2014-10-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141007
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記秋の小さな旅(3)3時間ホームレスin 山形市

 郡山での建物見学、安積開拓資料館から歩いて安積高校へ。ここでの旧福島県立尋常中学校(現・安積歴史博物館)については、学校校舎シリーズで紹介しました。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/aa0e21d97714e45c6714a08f81bca5cb

 郡山で泊まってもいいかなと思いましたが、時刻表を買って検討すると、夕方の鈍行で進んでも山形まで行きつくとわかりました。青春18切符利用者は、少しでも一日分の距離を伸ばしたいのです。2100円でできるだけ遠くに行けると得した気がします。

 夜7時すぎに山形駅に着きました。おなかもすいたけれど、まずは寝る場所を確保しようと、駅の周辺をぐるりと回ったのですが、ホテルサンルートやらルートインやら、ビジネスホテル、軒なみ断られました。

 4軒目のフロントさんが「9月第一週の土日6日7日は、3つの学会が山形市で開催されるので、どのホテルも満員ですよ。たぶん空室はなしでしょうね」と、予約もなしに泊まろうとしているリュックかついだおばはんの無知無謀をあざ笑うかのように教えてくれました。う~、ほんと無知でした。

 日本語学会も日本語教育学会も、年会費高いから退会してしまって、学会なんぞと縁がない私。9月第一週というのは、大学関係者にとって学会開催にちょうどいい時期だということに、思い及びませんでした。夏休みも終わったことだし、東北の県庁所在地、どこか泊まれるだろうとタカをくくったバチがあたりました。

 夜もどんどん更けていく見知らぬ街で、泊まるところのないホームレス気分、ほんとうにわびしくせつなく、とぼとぼと歩きつづけました。温泉宿などでは女性一人客は泊めたがらないところが多いけれど、最近のビジネスホテルは女性一人客でも泊まりやすい。ほんと、一人旅がしやすくなってありがたいと思っていたのですが、そういえば、去年はさすがに泊まるところの予約はネットでしておいたのだっけ。

 ま、駅前のカラオケ店は朝5時まで営業と出ていたから、いざとなったら、朝までひとりカラオケでもやっていよう、と覚悟を決めて、山形駅の一番近く、駅前徒歩1分のビジネスホテルに飛び込みました。フロントさんは「満室です」といいます。ま、そうだろうと思ったよ。

 戻ろうとするとフロントさんが「エアコンなしの部屋だったら、ご利用いただけるのですが」と声をかけてくれました。
 おお、ありがたい。9月の山形、そんなに暑くもない晩です。エアコンなくたって、平気ヘーキ。おふろに入れて、ベッドがあれば、あとは贅沢言いません。しかも、前払い金「4700円」というのを、「エアコンなしなんだから、4500円でいいでしょ!」と、交渉するずうずうしさ。

 朝、ホテルの値段表みたら、会員一泊3800円という激安ホテルでした。ほんとに狭かったし、部屋の無線ランとか設備も整っていないし、サービス朝食はおにぎりと味噌汁のみだし、そりゃ高いホテルに比べたら、サービス抜群とはいえなかったけれど、ソーレインホテルズさん、飛び込み客を泊めてくれてありがとう。何かの用で山形市に行くことがあったら、お礼にまた泊まるからね。
 まあ、ホテルとしては、エアコン壊れていて予約入れてない部屋を埋められれば、稼働率UPで損はないしね。

 おなかすいたので、駅前をもう一周したけれど、居酒屋さんにはひとりで入りにくかったし、チェーン店のファストフードではいくらなんでもつまらないし、と思って、屋台の焼き鳥屋で焼き鳥10本買いました。コンビニで発泡酒やサラダなどを買って、夕食としてはしょぼいけれど、デザートは、乗り継ぎの福島駅ナカの果物店で買った洋梨とぶどう。とりあえずの腹は満たしました。

 フロント脇のパソコンは客が自由に使えるみたいだから、ネット検索で山形市内の近代建築所在地を確認。私のお目当ては「済生館」という明治時代の病院兼医学校の建物でしたが、ほかにも古い建物があるに違いない。明治11年建設の済生館のほか、県庁や県議会が大正時代のもの、古い教会もあるということがわかりました。

 翌日の建物探訪に備えて、発泡酒カンひとつで、ソッコー寝付く。なにせ、速読と速タイピング、早食い早寝つきは、自慢の得意技。
 エアコンない部屋でぐっすり睡眠。すっきり目覚め。さあ、無料レンタル自転車を借りて、出発です。
 駅の観光案内所でもらった観光地図を自転車前かごに放り込んで、まずは、城跡の公園へ。

霞城公園入口


<つづく>
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ぽかぽか春庭「郡山・安積開拓資料館」

2014-10-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

開成館前で

20141005

ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月東北旅行(2)郡山・安積開拓資料館

 郡山市の開成館(安積開拓資料館)で、80代くらいのおじいさんが、息子さん(たぶん)といっしょに、前後しながら同じ時間帯に見学していました。
 おじいさんが「どこから来たか」と聞くので「東京からです」と答えると、「わたしらは、すぐ近所に住んでいるのに、この年になるまで、開成館を見学することもなかった。やっと来ることができて、こんな立派な建物を見て、天皇様のお泊まりになったところを見て、よかったです」という意味のことを話していました。たぶん、そういう話だったろうと思うのですが、今では若い人の間ではあまり話されなくなったという「純粋福島方言」だったので、聞き取れないところもありました。福島方言を聞けてうれしかったです。

 開成館の前で、息子さんとおじいさんのツーショットのシャッターを押してあげて、次に息子さんに頼んで私のカメラのシャッターを押してもらいました。(トップ画像がそうです)

明治天皇東北巡幸図


開成館の明治天皇行在所(あんざいしょ)


 安積(あさか)開拓については、安積疎水の名を近代史の本で読んだ程度で、詳しくは知りませんでした。
 安積疎水事業は、徳川幕府にはできなかった近代的土木事業を、地方の人々にも見せて、明治新政府の威光を示す、という意気込みで、明治12年に始まりました。国家直轄の農業水利事業の第一号です。

 水利がなく、荒れた原野が広がる不毛の地だった安積の地に、猪苗代湖から疎水をひき、水田に変えようという大事業、明治12年からのべ85万人の労働力、現在の貨幣価値だと400億円にあたる予算をつぎ込みました。

 安積疎水。幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、約 9,000 haの水田となり、全国でも有数の米作地帯となりました。

 安積開拓の目的のひとつは、不平士族対策です。明治維新後、藩が廃止されて、士族は禄を失いました。失業士族の反乱が広がったら、脆弱な明治政府は倒れてしまいます。1878(明治10)年の西南戦争以後、士族の再就職先として、明治政府が考えたのが、開拓事業。士族を農民として定着させるための「安積開拓」でした。

 開拓の歴史を示すパネルには、各地から集められた士族名の記録があり、開拓指導者として、安積開拓の父と呼ばれる中條政恒(元米沢藩士)が紹介されていました。

 中條の孫にあたるのが、中條ユリ(結婚後のペンネームは宮本百合子1899 - 1951)でした。百合子が17歳で書き上げた「貧しき人々の群れ」は、祖母が住み続けていた安積の桑野村での滞在経験を記録した、などが、「安積開拓120年記念誌」にも紹介されていました。

 開成館には、開拓農民の家の移築復元が3棟ありました。
 開拓民は、9つの旧藩から約500戸が入植しました。家の大きさにもランク付けがきっちり決められていて、一般入植者の家、リーダー格である副頭取の家、政府側官員の官舎、それぞれの大きさや設備も異なります。

安積開拓入植者住宅-旧小山家(一般入植者の家)
 明治15年に建てられた一般開拓民の家。土間(3坪)と板の間(2.5坪)座敷(8畳敷大のむしろ敷の座敷)。


 安積開拓入植者住宅-旧坪内家(鳥取藩からの入植者たちの中で副頭取をつとめた坪内元興の家)(坪内家画像は借り物です)


 安積開拓官舎・立岩一郎邸(政府側の開拓責任者の官舎)


 旅先で「ご自由にお持ちください」というパンフレットがあるとたいていもらってくるので、帰りのリュックが重くなるのですが、開成館の「ご自由に~」のところに『安積開拓120年記念、先人の夢に逢う』という立派な冊子がありました。郡山市の市史編纂室の編集による安積開拓史、行き帰りの電車で読んだので、安積開拓の歴史について、今まで知らなかったこと、いろいろ知ることができました。

 このコラムに書いた安積開拓のあれこれについては、この開拓史冊子を参考にさせていただきました。編集代表者山崎義人さんほかの方々、労作を無料でいただきました。市の費用で編集して配布した冊子、たぶん郡山に関係ないのに一番熱心に読んだ読者は私だと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東北行き当たりばっ旅」

2014-10-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141004
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月(1)東北行き当たりばっ旅

 今年の夏休みは、教科書編集の仕事があり、ずっと気が休まらない夏でした。
 編集といっても、私はほんとうにたいしたことができないままでした。
 「タスク型教材を作ります。○日までに○課の文法解説をピックアップしてタスク練習を考案すること」などと割り当てられると、気が小さいために旅行する気も起きませんでした。

 でも、9月最初のミーティングが2日と4日にあって、顔合わせをしてみると、主任の教授は東欧での学会発表に出かけたというし、もう一人の先生は小学生の息子さんとふたり旅でロンドンに1週間滞在したそうです。
 「うちの野生児、大英博物館見せても感激もせず、ロンドンで一番楽しかったのは、ハイドパークを走り回ったことだって。だったら、代々木公園で走り回っても同じだった」「でも、代々木だったら蚊に刺されたかも知れないから、息子さん、お母さんとハイドパークで遊べていい思い出になりましたね」なんて会話を交わし、そうだ、私も旅行しなきゃ、と思いました。

 あらま、10日に青春18切符の期限が切れるまでに、6,7,8の3日間しかないわ。9日にはまた教科書ミーティングだから。
 という具合で、何の計画も宿泊予約もなしに、9月6日の朝、起き抜けでリュックサックしょって出発。

 今年の青春18切符は、8月2日3日に、清里高原に出かけて往復に使い、8月下旬に日帰りで甲府へ行きました。まだ2枚残っていますから、これを「モトがとれるくらい遠くまで」でかけないことには、「乗り鉄」の名折れ。

 130円の初乗り切符で、できるだけ長い距離、電車に乗り続ける一筆書き乗車とか、青春18切符を使って24時間以内にできるだけ長い距離を移動する、とか、乗り鉄チャレンジはいろいろやってきました。
 今年、長距離記録は無理ながら、せめて5枚つづりの青春18切符を使い切らねば。

 昨年は青春18切符で「東北の近代建築を見る旅」に出かけました。
 そこで、東北シリーズ。2013年は日本海側、長野新潟山形。2014年は福島山形の山側、2015年は秋田青森へ、2016年には太平洋側へ。というおおざっぱな計画を立てました。
 今回は福島と山形の山側を歩いてみる、と行っても、宿泊予約もなしの行き当たりばっ旅です。

 朝、起き抜けに家を出て、東北線に乗車。黒磯、宇都宮と乗継いで、お昼に郡山へ着きました。エキナカのうどん屋で腹ごしらえ。きっと町中に出れば、名物のおいしい食べ物屋があるだろうに、「今回は食べ物はなんでもよい、できるだけ建物を見よう」という志。

 まず、駅の観光案内所で市内観光地図をもらい、バス路線を教わりました。駅の西口広場からバスに乗り、開成館前で下車。しかしバス停のまわりをぐるりと見ても、どこに開成館があるのかわかりません。普通、○○前、と言うと、バス停の前に建物があるでしょうに、と文句を言ってもしかたなし。通りがかりの人にたずねると、あそこに交番があるから、その角を曲がればよい、と教えてくれました。

 交番で再度たずねて、開成館へ。
 安積開拓の歴史をしのぶ、開拓者の家、開拓事務所所長の官舎などがまとめて移築されています。目玉は開拓事務所であった擬洋風建築の開成館。
 開成館については、のちほど「東北擬洋風建築散歩」シリーズにまとめようと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「甲府ほうとう」

2014-10-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

現在は府中市美術館でミレー展やってます

20141002
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記夏の終わりの小さな旅(2)甲府ほうとう

 山梨県立文学館、山梨県立美術館、どちらもこの夏はじめて見学しました。
 美術館が混んでいる様子だったので、最初に文学館へ。



 山梨ゆかりの作家や作品が展示してありました。太宰治の『富岳百景』など。村岡花子は山梨で生まれて5歳のときには一家で東京大森に引っ越したので、実は山梨とのご縁は、山梨英和女学校に赴任していた3年だけでしたが、朝のテレビドラマでは、実家はずっと山梨にあり、お父お母はずっと山梨に住んでいることになっていたので、テレビではちょくちょく山梨風景が登場しました。ドラマ冒頭の富士山の見える丘の景色が、「花子こころのふるさと」のようになっていました。

 美術館と文学館の間に、「ここから富士山が見えます」というお知らせ看板が立っていたのですが、8月26日はあいにくの小雨まじりの曇り日。富士山は最後まで見えませんでした。

 晴れていれば富士山が見えるスポット。


 美術館で、ミレー200年展を楽しんだあと、夕ご飯のお楽しみ。ほうとうを楽しみにして、電車の中で朝昼ご飯兼用のお弁当を食べただけでしたので、おなかがすきました。

 美術館から甲府駅前に戻るバス停近くに「甲州ほうとう 小作 県立美術館前店」というのがあったので、ほうとうひとつ頼みました。東京なら2~3人前になるのに、と思うくらいの大きな鍋が出てきましたが、大食い自慢の私、むろん完食。

  
 文学館の中のカフェで「信玄餅入りパフェ」780円というのも食べたので、本日はちょっとカロリーオーバーかなという気がしたし、前回清里から帰るとき新宿で乗り換えるつもりが眠ってしまい、東京まで行ってしまったので、今回はビールはやめておきました。

 夕暮れの中の藤村記念館

 
 一人旅、無事帰宅。小学生のときに先生に言われた「おうちに入るまでが遠足です」のことばを守って、大人の遠足、ちゃんとただいまと戻りました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「大人の一人えんそく in 甲府」

2014-10-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141001
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記夏の終わりの小さな旅(1)大人の一人えんそく in 甲府

 山梨県甲府に、学校校舎、旧睦沢小学校を見に行った報告をUPしました。 8月26日、そろそろ夏も終わりかなという日に甲府へ行き、駅前の睦沢小学校と、山梨県立美術館、県立文学館を見学したのです。
 
 甲府駅について、まずは、駅前の旧睦沢学校(現・藤村記念館)を見学。記念館見学報告はこちらに。
http://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/38c02e26238d90afd8c7c7ac7306b3bd 

 駅前からバスで、県立博物館へ。このとき、バス乗り場でちょっとしたトラブルがありました。旅行者は、バス停の丸い標識の前から順に並んで、バスの到着を待っていました。小雨が降ってきて、バス停の屋根からはみ出る人もいましたが、みなおとなしく並んでいました。地元の人と思われるオバサンが数人、あとから来て、順番の列ではなく、まんなかへんに固まっていました。

 どうして列に並ばないのかなあと思っていると、バスが来て、バス前方の乗り口ではなく、うしろのドアが開きました。都バスだと前乗り後ろ降りですが、甲府駅前では後ろ乗り、前降りだったのです。金額が固定制でない地方では、後ろ乗り前降りのほうが多い。
 後ろドアが開くと、オバサンたちは、そこからさっさと乗り込みました。

 一番前から乗るのだと信じておとなしく並んでいた人たちは、くるりと向きを変えて後方ドアから乗り込みましたが、並んでいたのに座れない人もいました。私は一人旅なので、一人座席に座れましたが、二人連れの人たちは、二人がけのいすはオバサンたちがさっと占領したので並んで座ることができませんでした。「ああいう、順番を守らない人がいるっていやねぇ」と、文句言っていました。
 おそらく地元の人たちにしてみれば、バスは後ろ側の出入り口から乗るのは常識なので、一番前から列を作っているほうが非常識なのでしょう。

 エレベータの立ち位置について、関西は歩く側が左、立つのが左側、と東京周辺とは逆であることは留学生にもお知らせしていますが、そうか、バスの乗り込むドアも地域によって異なるから、都バスの前が乗り口、後ろドアが降り口というのとは違う地方もあるよなあ。しかし座れなかった人たちは、美術館間まで15分の間、「前から順にならんでいた列を無視して、あとからきて後ろドアから乗り込んだひとたち」について、「ずうずうしい」と、非難し続けたのでした。
 列が並んでいるのを無視して、「いつものように」後ろドアからささっと乗り込んだほうは、それがいつもの当然のやり方とおもっているし、前ドアから乗ると思って列を作っていた人々にすれば、列先頭から乗り込むのが当然と思ったのです。

 自分たちの尺度がすべてであり、己が正義。他者のルールは認めないということ。キリスト教の考え方だと仏教は非常識というのも、その逆もあるだろうし、イスラム教では施しを受けた方に対して施しを与えたほうが、「ありがとう」とお礼を言うのだ、と聞いて、「そんな理不尽なこと納得がいかない」と言った人もいます。でもイスラム教では「あなたに施しをすることで、アラーに向かって善行をしたことを報告できるから感謝する」という意味で、お金や親切を与えた方が「ありがとう」と言う。それはそれで理にかなっていると思うのだけれど、自分の尺度がすべてと思っている人にとっては奇異に思える。

 あとから来て先に乗り込んだオバサンたちが、列が出来ているのを無視して乗り慣れたバスにさっさと乗り込んでしまったのも、それを美術館に着くまで15分間えんえんと文句言い続けるのも、双方、「自分が正義」と思っているのでしょう。世界中、争いごとは全部「正義をつらぬくために」行われるのであって、ナチスのホロコーストも「アーリア民族による正義」だったのですから、私にはどうにも「絶対的な正義」というものが信じがたいのです。
 ミレー展をやっている山梨県立美術館に着くまで、この「自分の側の尺度」について考えていました。

 ミレーがバビルゾンで絵を描き始めた頃は、「金持ちの肖像画を描くのではなく、農村風景や農民を描いた絵が売れるはずはない」と、当時の絵画の基準からはずれた画題を非難されてきた、ということです。
 日本人には、田舎の風景を描く画題は南画でも洋画でも好まれていましたから、バルビゾン派が紹介されて以来、ミレーの農村風景や農民はたいそうな人気で。今回の山梨県立美術館訪問も、夏休み期間であるとはいえ、26日木曜日という平日だったにもかかわらず、けっこうな人出でした。



 ミレー展、山梨県立美術館の次には府中美術館に巡回展示していきました。府中にくることがわかっていたなら、甲府には行かなかったかもしれませんけれど、まあ、青春18切符利用の日帰り旅行、美術館のとなりの県立文学館なども見て、甲州名物のほうとうも食べたので、よい一日になりました。

<つづく>
コメント (4)
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