浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

韓国の「歌う民主主義」

2025-02-10 20:42:19 | 国際

『世界』3月号には、韓国に関する文がいくつか掲載されている。毎日新聞の堀山さんと金成玟さんの二つを取り上げよう。

 尹錫悦韓国大統領が、突然、戒厳令を発したが、即座に韓国の民衆が動き始め、戒厳令をストップさせた。街頭に出て来たのは、民主化世代と若者世代で、なかでもK・ポップファンの20代~30代の若い女性たちが多かった。

 他方、大統領を支持する保守派は、韓国の太極旗、アメリカの星条旗、そして何とイスラエル国旗をはためかし、彼らは、「保守化する20~30代男性と連帯し、世論の支持を高めることで状況を変えようとしている」と、堀山さんは書く。

 ということは、韓国では20~30代という世代において、男性と女性との間に断絶が生まれている、ということなのだろうか。

 金さんは、「2024年12月3日以降、自由にファン活動を楽しんでいた平和で平凡な日常を取り戻すために始まった彼女たちの闘いは、もはや戒厳令に抗議する市民のデモ全体をリードしている。真冬に一日も欠かさずデモを続ける彼女たちの姿は、敗北と無関心になれていた人びとにまで勇気と刺激を与えながら、新たな「歌う民主主義」の到来を実感させた。」と書く。

 韓国は、日本以上に儒教道徳が強い社会であった。長幼の序、男尊女卑は、韓国社会のあり方であった。しかし、韓国社会が民主化していくなかで、そのような儒教道徳は力を失い、そのなかで女性たちは、かなりの程度解放されてきた。それは韓国映画でもみることができる。女性の視点が、重要視されるようになってきたのだ。

 女性たちは、民主化への動きと自分たちの解放が、並行して進んできたという実感を持っている。だから、戒厳令が布告され、軍事警察国家が復活すれば、自分たちは再び、儒教道徳に縛られる、自由のない、K・ポップを楽しめない日常に戻されてしまうのではないかという強い危機感を持ったのだろう。

 女性たちが解放され、自立的な行動をとればとるほど、そういう女性を快く思わない保守的な思考をもった男性は、不愉快になっていくことだろう。

 いま、韓国の若い女性たちにとって、歴史を過去に引き戻すことは許せない。だから「歌う民主主義」の場に熱く参加してくるのだ。

 韓国の男性は、そして日本の男性と共に、現在が「男性の世界史的敗北」の時代であることに気づいていない。しかしそれは歴史の必然なのだ。「男性の世界史的敗北」というとき、それは、男性が女性に支配されることではない。男性と女性が、そしてそれにとらわれない性の人びとも含めて、できうる限り平等に、自由に生きていける社会を築いていく段階に来ているからだ。

 堀山さんは、「客観的な事実より自分の価値観に沿った情報を信じる「ポスト真実」」の世界があることを指摘するが、わたしたちは、「真実」をこそ、求めていきたい。そうでなければ、よい時代をつくることはできないからだ。

 

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羽が生えている!!

2025-02-10 08:16:49 | 政治

 近所の人から、最近は一万円札がどんどん消えていく、という話を聞いた。それはわたしの実感でもある。食料品など、物価の上昇はとどまるところを知らない。

 わたしは買い物は、通販以外は現金で支払っているが、だからといって多額の現金を家においておくことをしないから、必要になったときには銀行におろしにいく。その頻度は高くなる一方だし、いちどにおろすカネの額も多くなっている。それでもすぐになくなってしまう。

 政府・財務省は、急激な物価上昇の中、消費税の税収が伸びているのでウハウハであろう。日本の国では、一旦国庫に入ったカネは、自分たちのお仲間に分配するから、政治家、官僚、財界、そして政府自治体からうまい具合にカネを吸い取っている人びとも大喜びだろう。

 苦しむのは庶民であるが、しかし庶民はこの苦しみを自然現象のようにとらえていて、自分たちの力ではどうにもならないと思っていて、今まで通りに自民党や公明党の議員や彼らが推薦する人びとに投票をするし、あるいは選挙には行かない。

 彼らこそが、この苦しみの元凶なのに、耐えていればいずれは・・・という日々をおくっている。

 エンゲル係数が、大きく伸びているという報道があった。そうだろうと思う。苦しみを増大させているのが、消費税である。消費税をなくせ!という主張は正しい。それに反対する政治勢力は、消えてしまえとも思う。少しでも、政府が国民の苦しさを何とかしようとしたいなら、消費税をなくすのが一番だ。なぜなら、消費税は、累進課税である法人税や所得税を減税するための手段として登場しているからだ。要は、金持ち減税であり、庶民増税の最重要な手段としての消費税なのだ。

 税制度というのは、所得の再分配、国家を通して、所得格差を実質的に減らしていくという制度なのである。しかし日本は、国家を通すと、さらに格差を増すという不思議な国となっている。そういう政策を展開している自民党・公明党政権がまだ居座っている。

 

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月初めは忙しい

2025-02-09 20:50:20 | 

 あまりに寒い日なので農作業はしていない。しかし、連続して『地平』と『世界』が届くので、それらに一応目を通すのがなかなか時間がかかる。だから忙しい。

 まず『世界』3月号。まず指摘しておかなければならないと思ったこと、を記しておく。それは、石原真衣の「〈サイレントアイヌ〉とはなにか」についてである。

 近代日本国家が、蝦夷地の先住民であるアイヌを、アメリカ大陸で白人たちがインディアンに対しておこなったように、迫害したことは周知の事実である。石原は、『中学生から知りたいパレスチナのこと』(とてもよい本である。)を著した岡真理と藤原辰史が、その本で、「ガザを見たとき、日本は自国の植民地主義を想起できているか」と問うて、それに対応して中国、台湾、朝鮮に対する近代日本国家の侵略・植民地主義を挙げていること、しかし二人がアイヌや沖縄に言及していないことを批判する。「すべてが過去形で語られる「日本の植民地主義」に関する岡と藤原の思考と記述は、アイヌや沖縄といった現在形で進行する日本の植民地主義を不可視化する。」と。

 いや、岡や藤原の著書を読んできた私としては、岡も藤原も、アイヌや沖縄のこともきちんと彼らの視野に入っているだろうと弁解してあげたくなる。なにごとかを説明するとき、それに関わるすべてのことを書くのではなく、いくつかのことを例示することにより読者の意識を喚起するという手法をとることは多い。だから、自分自身が切実に思っていることに言及しないことを材料にして、批判するのはどうかとも思う。

 今月号の『世界』、韓国についての論稿がよかった。おって紹介する。

 

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美術とことば

2025-02-08 16:43:51 | 美術

 昨日、芸術は何でもありであって、自由だと記した。美術の場合は、何でもあり、はその作品で示されなければならない。諸々の作品をもとに、それらから帰納的になにものかを、観る者は捉えるのである。

 今日、豊田美術館のパンフレットを読んだ。それには、展示されている「新印象主義とアナキズム」「モンテ・ヴェリタ:逃避と創造の地」「シチュアシオニスト・インターナショナルとアスガー・ヨルン」「ロシアと集団行為」「マルガレーテ・ラスペ」「コーポ北加賀屋」「オル太」「大木裕之」についての簡単な解説が載っていた。それらの多くは、写真などをともないながら展示場にも掲げられていたものだが、字も小さく詳しく読めるほどの展示状態ではなかったので、わたしは読まなかった。

 それら解説文を読んでいて、なかなか理解しがたい内容であると思った。

 「新印象主義とアナキズム」のところでは、シニャック、スーラらの絵画が展示されていた。彼らは点描画で新境地を開いたのだが、その解説に「絵の具を混色することなく、ひとつの色班をひとつの単位として、画面に均一に並べる新印象主義の絵画は、支配されることのない個々の自律とそれが織りなす全体調和という、アナキズムの理念の具現化ともみえる」とあった。スーラらがアナキズムと関係があったことをわたしは知らないが、点描という方法をそのように捉えることは、一面可能であると思うが、はたして画家本人はそのような意思をもっていたのだろうかと、ふと思う。

 「モンテ・ヴェリタ」はスイスにある。「真理の山」という意味だという。そこにいろいろな文化人や学者等(ヘルマン・ヘッセ、ユングなど)があつまってある種のサロンを形成していたようだ。展示場の写真を見ると、裸でダンスしていたりして、新興宗教の団体のように見えたが、そこは「逃避と創造の場」であったという。

 次は、「シチュアシオニスト・インターナショナル」。初見である。『美術手帖』のHPには解説があった。そのメンバーのひとり、アスガー・ヨルンの絵が展示されていたが、フムフムという感じでみた。ネットでは、彼女の絵をたくさんみることができる。アスガー・ヨルンについては、この解説がよい。上野俊哉氏の「ヨルンは労働より遊戯を、物質との遊びから得られる生の無意識の能動的享楽を肯定し、物質との目的のないコミュニケーションにアート(芸術と技術)の原理を置いている」は、なるほどと思う。そういう意味の絵画としてみることができる。

 「ロシアと集団行為」。無意味の中の意味、その意味はその場で創造されるのだ。それをネットでもみることができる。しかしその場で創造される「意味」が、多くの人にとっての「意味」かどうかはわからない。解説には「集団行為においては、集団と称しながら、その行為を決して等しく共有することができない。曖昧なゾーンでの出来事を、どうしてひとつの事実として語ることができようか。集団行為は、いくつものアクションを通じて、個と集団、個人の体験と記録の共有の関係を問い、記憶=歴史の記述を複数化することで、一つに回収されることへと軽やかに抵抗しつづける」とある。言われてみるとその通りであって、同じ行為を集団で行っていても、個人個人の動きは異なり、そこで感じることもそれぞれ異なり・・・・しかしこれって、当たり前のことじゃない?そういうところに着眼した点は感心するが、それがいかなる「意味」をもつのか。

 「マルガレーテ・ラスペ」以下についての言及は、もうやめる。

 ただ書いておきたいことは、芸術はその作品をみるのであって、展示されている作品からキュレーターの意図をさぐる。この展覧会のチラシ、パンフレットの記述、他者が理解できる文が並べられているわけではない。芸術をことばでもって表現することは、そもそも難しいのである。

 「近年、芸術を含むあらゆる場で、旧来の制度や差別への連帯闘争が試みられています。それらは切実な抵抗の態度であり、私たちを鼓舞する重大な拠り所となるものの、ゆえにこそ小さな個別の才を均してしまう危うさと隣り合わせにあるものともいえます。このギリギリの状況において、私たちのこの表現や日常的な振る舞いは、いかに一つに回収されることなく共存し、それでも抵抗の力を持ちつづけることができるのでしょうか。そのそれぞれの試みがアナキズムの実践だと言えます。」

 これはチラシに書かれていた文である。「旧来の制度や差別への連帯闘争」ということばがわからない。「旧来の制度や差別するものに対する闘争への連帯」というのならわかる。

 芸術はことばでは説明できない。説明できないからこそ、作品が適切に並べられていなければならない。

 この展覧会、一部では評価が高いようである。わたしは評価はしないが、受容することはできた。

 

 

 

 

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浜松市の水道料金アップについて

2025-02-07 21:21:33 | 政治

 浜松市が、今年度から水道料金を大幅にアップさせるという情報がある。そのアップ率は約18%であるという。浜松市では民営化された下水道料金が高いので、この水道料のアップは、市民に大きな影響を与えるだろう。

 水道料金値上げの背景には、水道を各戸に配水する水道管が老朽化し、その更新を図らなければならないから、ということがある。確かに近年、水道管からの水漏れが多発し、市もその対応に苦慮している。だからやみくもに値上げ反対というわけではない。しかし浜松市の水道料金の場合、ちょっと待って、といいたいことがある。

太田川ダムの建設

 天竜川の東には磐田市、袋井市、森町がある。この地域は、1974年7月の七夕豪雨で、大きな被害を受けたところである。そこで静岡県は、太田川にダムを建設しようと企画し始めた。もちろん治水用のダムである。ところが、治水だけではなく、利水の機能も含めれば補助金が多くなることから、県は利水の機能ももたせようと、机上の数値をあみだした。すなわち、浜松市も含めた磐田袋井地域の人口は増加し、水の需要が高まる、このままでは給水能力が不足する、としたのである。それを理由に、太田川ダムに利水の機能をもたせたのである。

 そのHPにはこう記されている

近年流域市町村の都市化が著しく進み、一度災害が起きたときの想定被害額が格段に大きくなったことや、社会資本の整備の進展、水需要の増加などから、 治水、利水の重要性はさらに増していることなどを勘案して、静岡県では河川の改修計画を検討した結果、従来からの河川改修と並行してダムを建設することとしました。

また、当流域の森町、袋井市、磐田市等の水道用水についても都市化の影響により逼迫してきています。
そのため、将来の水需要に対処すべく水源確保の機能を併せ持つ多目的ダムを建設することとしました。

 ところが実際は、水道水は余っているのである。浜松市は太田川ダムからの水供給量として、一日16万5000㌧を契約しているが、実際の使用量はその約6割で推移してきた。県のHPのQ&Aでは、水需要が増えるようなことを無理して記しているが・・・

 浜松市は太田川ダムからの水供給に対してカネを支払っている。つかってもいない水に対して、浜松市は毎年7億から9億のカネ(カラ料金)を払っているのである。浜松市がこの太田川ダムの受水市となってから、2022年までの間に、なんと149億円以上のカラ料金を払っている。そのなかには、受水量に対応する費用だけではなく、ダム建設や水路建設の事業にかかった「固定費」も入っているというが・・。

 太田川ダムは、浜松市を受水市町のなかに組み入れることにより、建設されたのではないかと、わたしは疑っている。

 なお2018年の浜松市の「外部監査」の報告書には、「水運用の経済性・効率性を高めるためには、自己水源からの取水と遠州水道からの受水の割合を検討し、遠州水道の受水単価が明らかに不効率な場合には、契約内容の見直しや解除に向けた調整も必要であると考える」とある。つまり、太田川ダムからの取水がなくても、浜松市にはやっていけるだけの「自己水源」が確保できるということである。

 少なくとも、カラ料金を払い続けていてカネが足りないから水道料金をあげる、ということについては、市民として納得できない。

 

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【展覧会】「しないでおく、こと。ー芸術と 生のアナキズム」

2025-02-07 16:49:27 | 美術

 今日は、豊田市美術館に行った。「しないでおく、こと。ー芸術と 生の アナキズム」という展覧会があったからだ。浜松から豊田市は、なかなか遠い。しかし、行かずばなるまいと思い、車に乗って馳せ参じた。

 展覧会は小規模で、これで1500円かいなと思うほどのもの。最初に新印象主義の画家の絵が陳列されていた。絵はほぼそれだけだ。ほかには、モンテ・ヴェリタ、シチュアシオニスト・インターナショナルSituationist ーinternational、ロシアと集団行為に関する展示、マルガレーテ・ラスペの作品など。またそれぞれが行った芸術活動の様相がヴィデオで示されていた。そして床などのスペースには、「コーポ北加賀屋」の作品というか、ゴミのようなものが置かれていた。片づけなければならないと思うほどであった。

 若い頃、前衛劇をよく見た。台詞には意味深長なことばがちりばめられ、俳優の所作には象徴的だと思われるものがあった。わたしはしっかりと見つめ、真面目に台詞の意味を考えようとした。

 しかしそこには、重大な意味なんかないことに気づいた。一瞬の台詞や動きに、感覚的に反応し、面白ければ笑う、ただそれだけのものだということを学んでいった。

 今日はヴィデオをいくつか見た。そこに映し出されている人びとは、真剣に何ごとかをし、真面目に台詞を語っている。しかし通常の感覚からは、くだらない、何の意味もない、あほらしく思うものばかりだ。

 わたしは、しかしすでに学んでいた。そういうものをとにかく受容する、しかし理解しようとはしない、ただ受容する、可笑しかったら笑い、理解不能なものはそういうものとして受容する・・・

 わたしたちが理解できるものは、一定の秩序とこの社会の約束事に縛られているもので、既知のものと何らかの関係をもちうるものだからこそ、わかる、のである。しかし秩序もなく、了解可能な意味もないものには、違和感をもち、ある場合は拒絶する。

 芸術とは、まったく自由でなければならない。人びとの既知なものと連係させることをしないでもよく、作者の勝手な構想や思いを、そのまま何らかのものに表現すること、それが芸術でなければならない。とするとき、芸術は何でもあり、なのだ。

 この展覧会の趣旨、にはこうある。

「芸術=創造とはそもそも、いまだ了解されない認識や知覚の領野を拡張していく営みです。」

 そのとおりである。そしてこう続く。

「ゆえに芸術とは「芸術」として名づけられ、一つに回収されてしまうことへの抵抗をあらかじめ含んでいます。」

 これもその通りであって、その後に、「制度化され、統治されることへの抵抗・逃走の姿勢=アナキズムに芸術の本来的な力を認め、その可能性を問う」とある。

 つまり、芸術はアナキズムと親和性があるということを言おうとしているのであろう。それにもわたしは同意する。

 だが、これら展示された作品群からは、この展覧会を企画したキュレーターの意図をしっかりとつかむことはできそうもない、表面的な受容で終わってしまいそうな危惧を感じた。

 展覧会に行くたびに図録を買うことが多いが、今回は買おうという気がしなかった。キュレーターの意図を、展示されている作品群から帰納的に推察するには、どうも無理があるような気がしたからだ。

 

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寺院のあり方

2025-02-05 19:59:38 | 社会

 母の一周忌をやった。母は埼玉県の姉の家で亡くなったので、葬儀はそちらでやった。その際、坊さんは、「お坊さんドットコム」に依頼した。とてもよいお坊さんであった。そのため、昨年の49日法要、今年の一周忌も、そのお坊さんに遠路来ていただいた。曹洞宗である。

 わが家の墓は家の近くの寺院にあったのだが、その寺院の住職により葬儀をやらない場合は、出ていかなければならないといわれた。その寺院の坊さんは昔からカネに執着する一家であったので、その寺院から退去することを決意して、葬儀後にさっさと墓じまいをした。父の遺骨と母の遺骨は、今も実家にある。

 なお墓じまいをしたとき、その寺院の坊主に読経だけを依頼した。3万円、10分未満の読経であった。それ以外には一切のカネを払っていない。知人から墓じまいにいくらかかったかと問われることがあるが、その際には、10分未満の読経代3万円のみというと、驚かれる。墓じまいには多額のカネが、その寺院から請求されるという。

 墓じまいは、友人たちとの会話に何度もでてくる。墓はあるけれども、子どもがみな女子で結婚していったから、跡を継ぐ者がいないから、あるいは子どもがいないから・・・・しかしそれだけではない。

 坊さんから葬儀や仏事以外にも様々な請求にさらされている老若男女は、異口同音に、「わたしの代までは何とか対応するが、子どもの世代にそれをやらせるのはかわいそうだ」という。多くの人は、寺院と手を切りたいという願望をもつ。

 わたしの友人は日蓮宗である。外塀の新設に40万円、ホール(?)の建設に〇〇万円・・・・という請求に音を上げている。墓じまいの話を聞いてみたら、〇〇〇万円だと言われたという。

 今、寺院に墓を保有している老若男女は泣いている。仏教から神道にかえる家庭も増えている。

 しかし仏教界は、老若男女の苦しみを慮ることなく、どのようにカネをせしめようかと考えている。

 わたしはもう墓は持たない。曹洞宗の坊主が、「袈裟が古くなって・・・」とか、おねだりをしている姿を見て育ったわたしは、坊主への不信感をもっている。

 仏教の教えには、賛同できるところも多い。しかし現実の坊主の姿には、あきれるばかりである。

 わたしの亡き後は、父母の遺骨といっしょに埋葬してもらうつもりである。

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アベ以後・・・

2025-02-04 07:46:16 | 社会

 亡くなった安倍晋三が政治権力を掌握して以降、パブリックな場でも、明白な虚偽を語っても、嘘をついても、シラを切り、ウソをつき続ければ「平気」という風潮が生まれたように思える。

 かつては、パブリックな場では「良識」が支配するという状況があったように思える。

 しかし安倍晋三は、その「良識」が基調となるパブリックな場を、そんなことはどうでもよい、という状況に変えた。すなわち、「良識」の場としてのパブリックを、安倍は破壊した、といえるのだろう。

 最近の、兵庫県知事選、それにまつわるその後の動向を見ても、まさに「良識」が消えているように思う。それはテレビなど、公共メディアでも繰り返されるようになり、日本の公共の場は、「良識」がなくなってしまったというしかない。

 こうなると、あまりに反良識的な意見、それはSNSを中心に跋扈しているようだが、それらは警察権力などにより取り締まらざるを得なくなるのだろうか。

 わたしはこの背景には、社会を構成する個人が、個々バラバラになっている、という状況があるのではないかと思う。バラバラになった個人が、SNSという公共空間に接していて、そのまま、即時的に、その公共空間に、その場の思いつきや嘘や暴言など、どんなことでも発信することができるようになったことにあるのではないか。

 そういうものがない時代には、個人が周囲にいる人びと(そこには異なった意見を持った人びともいたはずだ)と、一定の話し合いや確認作業をへて何らかの公共空間に言論として発していたのではないか。

 いま、国家権力と個々の人びとの間には、社会集団、社会組織がなくなっている。時に、個々バラバラの個人が群れることはあるかもしれないが、そこには議論はなく、ゆるやかな「合意」だけが存在する。

 パブリックな場に於いても、「良識」なんていらないんだ、という風潮を、時の首相が始めたのだから、こうなるのは、しかし必然でもあったのだろう。

 

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万博ID?

2025-02-03 20:09:21 | 政治

 四月から大阪で万国博覧会が開かれる。

 もともとわたしは、大阪維新の会がカジノ建設のために強行する大阪万博に、まったく行く気はないから、あまり関心を持っていなかった。

 ところが、れいわ新選組の大石さんの話を聞いていて驚いた。大阪万博に入場する人には、万博IDというのが必要で、それに関して様々な個人情報があつめられ、それらが商用利用されることになっているという。

 そこで大阪万博にアクセスしてみた。すると、

まず「万博利用規約」があり、それに「同意」しなければならない。

すごいのはここからだ。「個人情報保護方針」というのが掲載されているが、これは個人情報の商用利用を正当化するために掲げられているとしか思えない。どんな個人情報を収集するか、というと、次のようになる。

当協会が収集する個人情報には、以下のものが含まれます。
・ユーザーの基本情報(氏名、ニックネーム、性別、生年月日、住所(郵便番号、都道府県名、市町村)、電話番号、メールアドレス、パスポート番号、国籍又は居住国に関する情報等)
・支払い及び決済に関する情報(クレジットカード番号等)
・位置情報
・生体情報(顔画像、音声、指紋等)
・所属先に関する情報(企業名、団体名、部署名、役職等)
・医療に関する情報(障がい者認定の有無等)
・SNSに関する情報(LINE、X、Facebook、Instagram又はGoogle等のアカウントやプロフィール、パスワードに関する情報等)
・入力情報(言語設定、メール配信設定、既婚・未婚の別、子どもの有無、趣味嗜好その他当協会の入力フォーム等の当協会が定める方法を通じてユーザーが入力又は送信する情報等(上記に含まれる情報を除く。))
・ユーザーの端末等から取得する情報(端末の種類、OS、端末識別子、IPアドレス、ブラウザ種別その他のブラウザ情報、リファラー情報、Cookie ID、Cookie及びCookie類似技術を利用して取得する閲覧履歴・購入履歴等に関する情報、IDFAやGoogle Play広告ID等の広告識別子等)

 こんな個人情報が取得されてしまい、それが「個人情報の第三者への提供」という欄に記載されている。当初から、個人情報を第三者へ提供することになっている。

 個人情報が現在ほど重視されている時代はないのに、万博協会は個人情報を第三者に提供して、第三者はそれをもとにカネ儲けをするのである。

 万博に行かない理由がまた増えた。

 

 

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テレビを見ない理由

2025-02-02 07:21:48 | メディア

 テレビを見なくなって久しい。

 時折、新聞のテレビ番組表をちらりとみることがある。その際に思うことは、まだ公共の電波を使ってつまらない、何の役にも立たないものを流しているのかと思う。

 とりわけ近年のそうした番組には、あまたの芸人がでてきて、くだらない、知性の片鱗もない雑事をしゃべって自分たち自身がゲラゲラと下品な笑いを浮かべている。内容が、諷刺を効かせたものならまだよいが、プライベートな事件をさもおおげさに、他人についてあーだこーだとしゃべりまくる、あるいは他人のあることないことを語って痛めつける・・・・

 大宅壮一が、かつてテレビが「一億総白痴化」を生みだすようなことを言っていたが、テレビ画面のなかにそういう輩が映っていて、白痴ウィルスをまき散らしている。

 芸人は、なんと報道番組にも次々と登場し、不勉強を曝しながら、いろいろな社会的事象に浅薄なコメントをする。わたしはそういう場面を見ると、きちんと勉強している人を出演させ、有益な知識を視聴者に提供すれば良いのにと思う。

 公共の電波をつかっているテレビ局が様々な点で劣化しているから、フジテレビのような問題が起きるのである。

 何度でも言う。テレビは見るに値しない。見ていると、白痴ウイルスが伝染して、日本はたいへんの事態に陥る。テレビは、ノーテンキな日本人をつくり出すために存在している。テレビ局に勤めている友人すら、見ないほうがよい、というくらいだ。

 

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イヤな社会になっている・・・

2025-01-28 07:49:26 | 社会

 兵庫県をめぐって、SNSで野蛮なことばが飛び交っているという。わたしはXは見もしないし、ユーチューブは特定の番組をみるだけで、実際SNSの世界でどのような怪情報が飛び交っているかは知らない。知らない方がよいと思ってそれらに関わらないようにしているのだが、しかし死者まで出るとなるとこの問題に関心を持たざるをえない。

 SNSにはたくさんの広告がひも付けされていて、アクセスするだけでSNSを発信する者に広告収入が入るという。わたしのパソコンやiPhoneには、AdGuardという広告をブロックするソフトを入れているので、そうした広告は目に入らないのだが、たしかにAdGuardがはいっていないパソコンなどを使用すると、たくさんの広告が入ってくる。

 SNSを利用する者には、アクセスにより広告収入が入るのだから、それでカネ儲けを考えている者は、できるだけアクセス数を増やそうとする。となると、真実を報じるというよりも、どうしたらアクセスが増えるかということが優先事項となる。したがって、何をSNS上に出すかは、真実とは関係がないのであり、虚偽情報やデマが、SNS上には無数に流されるというわけだ。

 SNS上に流される情報はそうしたものだという認識をもっていれば、SNS上の情報を真実とはみなさない。しかしそれらを真実とみなす者があとを絶たない。公職に就いているもの、タレント、テレビに出ているコメンテーター(わたしは、まったく専門知識のない方々がコメンテーターとしてあらゆることに口をはさむという番組が昔から嫌いで、ほとんど見ないできた)などなど。

 詐欺事件の報道においても、同じような手口なのになぜかだまされる人が次々と現れる。人びとは、簡単にだまされると、わたしは思っている。詐欺事件の多くは電話から始まる。わが家の電話については、非通知、特定の番号から始まる電話番号などについては最初から受けつけないように設定してあり、またすべての通話は録音されるようにしてある。それでも着信音が鳴る場合もあるが、基本的には知らない番号にはでない。最近の電話機はいろいろな防御手段がついているので、それを利用すれば良いのに、と思う。

 話がずれた。

 デマや虚偽情報、他人の名誉を毀損するニセ情報がでまわっているが、わたしは何らかの法的規制が必要ではないかと思うし、また平気で偽情報を拡散する者には、刑事罰を適用すべきだと思う。

 デマや誹謗中傷でついに死者が 「流言」を言いっぱなしにする立花孝志氏と「真実を知り全てがつながりました」と言っていた有権者は...

 

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悪人には・・・

2025-01-26 08:00:15 | 社会

 もと兵庫県議の竹内さんが自死されたという。痛ましい事件である。SNSによる執拗かつ卑劣な攻撃の渦のなかで、死に追い込まれたようだ。

 日本社会には、勝手気ままに暴言を吐くような人物がいても、周囲は腫れ物にでも触るような気遣いをして、そのような人物をおさえるような動きをしない。勝手気侭に振る舞う輩は、だから行動を改めるようなことはしない。

 わたしが耕作している畑の隣で米を作っているヤツがいる。畑の際(きわ)に多くの雑草を積みあげていたら、そこはオレの土地だと言ってきた。通常、畑と田の境界は、畑から斜面をおりた田との接点なのに、斜面の上までおれの土地だと言ってきた。いままでは、その斜面の除草はわたしがやっていたのだが、そういうならまあいいや、除草を彼にやってもらえばと思い、「ああそうかい」と言ったまま別れた。その間のやりとりは、すべて怒号である。

 一度こちらの耕作について怒鳴ってきたことがあり、畑のなかで怒鳴り合いをした。それまでは、通常の大人の対応をしていた。その直後、怒鳴り合いを見ていた近所の人から、彼がいつも気に入らないことがあると人びとに怒鳴りつけていたことを聞いた。その人になぜそれをもっと早く教えてくれなかったのか、と言ったことがある。近所の人は彼をあまり刺激させないようにしているという。しかし、わたしはそうではない。

 怒号で来るヤツには、怒号で返す。さもないとつけあがるからだ。

 今まで人生を生きてきて、こちらが譲歩すると図々しく一歩踏み出してくる輩がいること、それもかなり多いことを学んできた。

 竹内もと県議へのSNSについての分析記事がある。それをみると、少しでも退くと攻撃の量が増える。日本人だけの習性かどうかは知らないが、弱いところをみせると攻撃を強化する卑劣なヤツがいる。「水に落ちた犬は打て」という魯迅のことばがある。魯迅がそれを書いた背景はまったくことなるが、彼らの立場から同じことをしている。

 「敵に後ろを見せてはならない」は、生きていく上で必要な姿勢だと思う。もちろん、弱者や敗者へのあたたかい思いやりも必要である。要は人を見て対応せよということだ。相手が悪人なら、悪人ときちんと認識して、それなりの対応をすべきなのである。悪人には弱みを見せてはならない。

 

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【演劇】オペラシアターこんにゃく座「遠野物語」

2025-01-25 17:17:12 | 演劇

 今日は、アクトシティ浜松大ホールで「遠野物語」を見た。

 一幕75分、休憩15分、二幕70分という長いオペラである。

 さて、わたしの隣席にいた高齢の女性、一幕の75分の間、ずっと咳をし続けていた。隣席で咳をされると、とても気になると共に、台詞(歌詞)が聞きにくく、この舞台の世界に入り込むことはできなかった。

 休憩の際に、はるか後方の席に移ったが、時すでに遅し、あまり楽しめなかった。だからこの「遠野物語」についての感想はない。

 ただ少し柳田國男について記す。わたしは柳田に関しては、民俗学は学ばなければならないと思い、著作集みたいなものは購入した。今は処分してなくなっているが、読みはじめて、わたしは民俗学にはなじめないと即座に思った。柳田の文体にまったくなじめなかったからだ。

 ほとんど読まなかったので、具体的にどうなじめなかったかを書くことはできないが、何とか思い出してみると、柳田の文は、論文でもなく、評論でもなく、感覚的な文章で、とらえどころのない内容がだらだらと書かれていたというように記憶している。

 そしてまた、民俗学を研究している方々と自治体史の仕事を共にしたことがあるが、民俗学は今残されている事象をそのまま表現していくというもので、その事象を歴史的に分析することはしないといわれた。

 たとえば、今、ムラに秋葉神社の分社が残されているとしよう。しかし、近世までは秋葉神社は存在していない。各地にあった秋葉社は、神仏習合の秋葉三尺坊大権現を祀ったもので、おおもとは秋葉寺であった。

 明治初期の維新政権による強引な神仏分離政策の結果、秋葉神社が出現したのである。民俗学は、その歴史的経緯を叙述しない。

 また民俗学研究者の調査活動をはたでみていると、きちんと史料調査をするのではなく、あんがいいい加減に叙述していたことを思うと、民俗学は果たして学問か、と思ったこともある。

 わたしはかつて「近代日本の国学」というテーマで連続講座をもったことがあるが、近代日本の国学こそ、民俗学なのだということを指摘した。

 そして、今日の「遠野物語」をみていて、ああこれは平田篤胤の世界だなと思った。

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支配層とべったりしていたら・・

2025-01-24 22:47:43 | メディア

 あまり興味はないのだが、ArcTIMESをみていたら、フジテレビの社員説明会の内容を詳報していた。フジテレビ社員の危機感は感じられたが、その首脳陣のあまりにヒドイ対応に驚いた。

 第三者委員会の弁護士について、その設置について企業経営に詳しい弁護士に事前に相談し、フジテレビの意向に沿うような報告を3月末までにだすように、裏で工作しているようなことを話したそうだ。これでは、第三者とは言えないし、公平中立なものができるわけがない。

 危機感を持った社員が、首脳陣に食い下がっているのに、彼らは脳天気な対応をしている。

 なぜそれができるのかというと、彼らは支配層に守られているという自信を持っているからではないかと思った。総務省の官僚の天下りを受け入れ、自民党議員の子どもなど関係者を社員として受け入れている実態をもつフジテレビは、不祥事が起きても、経営陣が批判されようとも、あるいは社員に厳しく追及されようとも、おれらは自民党や総務省に守られていると思っているのではないか。

 テレビをみないわたしにしてみれば、フジテレビがつぶれたとしても、何の影響も受けない。

 とにかく、フジテレビの首脳陣は、あまりにヒドイということはいえる。

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フジテレビのこと

2025-01-24 07:12:16 | メディア

 わたしは芸能界についてまったく関心がない。いわゆる「推し」という人物も未だ嘗て持ったことがない。だから何らかの意見をさしはさむ立場ではないことを自覚している。

 しかし社会派のネットメディアでも、この問題をとりあげているので、この問題についての知識は増えた。

 この問題に関してわたしがいうことは、フジテレビは、フジサンケイグループといわれるように、この系列は、メディアの中でも右翼的な位置にあって、産経新聞などは自民党政権を強く強く支え、そのためには捏造した記事をも掲載する徹底ぶりである。

 そういうメディアの系列であるから、自民党議員の親族が社員となって、そこから議員に名乗り出るということもあるし、あるいは官僚の重要な天下り先ともなっている。要は、現在の支配層による、支配層のための、支配層のメディアとして、フジサンケイグループは存在してきた。

 支配層が傲慢で、庶民の生活を顧慮することもなく、常に上から目線であるから、そのメディアも同じ性質を持つのであって、支配層が腐臭を放っているから、それを支えるメディアも腐臭を放つのである。

 わたしはテレビを見ないので、フジテレビがなくなろうと関係ないが、おそらく支配層は全力でフジサンケイグループを支えようとするであろう。監督官庁である総務省も、大甘な対応をするだろう。

 支配層と密接な関係をもつフジサンケイグループ、その存続に支配層がどのように対応していくのか、わたしの関心はそれくらいである。

 

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