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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「戦争のつくりかた」という絵本

2014-08-02 22:21:33 | 読書
 次のサイトに行って、「戦争のつくりかた」を読んでください。

http://www.ribbon-project.jp/sentsuku/index.htm
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2014-07-12 15:07:53 | 読書
 昨日静岡に行った。戦争をさせない1000人委員会・静岡の会合があったからだ。帰途、戸田書店に寄った。今月号の『世界』を購入するためであった。雑誌コーナーをみていたら、『SIGHT』夏号があった。特集は「戦争―安倍外交の果てにあるもの」である。今ほとんど読み終えたが、渋谷陽一か編集部が質問し、それに答えてもらうという形式の文章が並ぶ。通常の論文と異なり、読みやすくわかりやすい。登場しているすべての論者に賛同できるものではないが、しかし現在の安倍政権に対する危惧を共通にもっているということで、反安倍政権「統一戦線」的な内容ではないかと思った。

 読んでいて共通の意識にあることは、その後の内田樹と高橋源一郎との対談も含めて、今回の集団的自衛権問題は、1945年に終わった戦争認識と直結しているということであった。

 1945年に終わった戦争をどう捉えるか、それをもとに、現在と未来の行方を考えていくことがきわめて大切であるということだ。

 残念ながらこの雑誌は、どこの書店にもおいてあるというものではないが、読む価値はある。

 なおほかに『冤罪ファイル』21号も購入した。この本も入手しにくい雑誌である。帰りの電車の中で読んでいたが、冤罪は突然降りかかってくるということがよくわかる内容であった。とくに、「「事件」なき犯罪」(「銀行置き引き事件」)。もとアナウンサーが銀行に行って400万円をおろした。そのときにある人が6万6千円入りの封筒を置き忘れ、発見されたときその封筒はカラであった、そして一ヶ月後にもとアナウンサーがつかまった。何の証拠も、目撃者もいない。ただそこにいて、不鮮明な防犯カメラに写っていたというだけで、「置き引き」の犯人とされたのだ。犯行の意思も、証拠も、いっさいない。しかし第一審で有罪とされた。
 その封筒、ほんとうに6万6千円がはいっていたかどうかも不明である。

 犯罪がつくられ、それが冤罪として突然降りかかってくる。

 注意しなければならないと書きたいところだが、注意していてもそれは避けられないようだ。

 冤罪は、そこらへんに転がっている。静岡は「冤罪のデパート」といわれるところ。どうしたらよいのだろうか。
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とても大切なこと

2014-06-11 11:17:46 | 読書
 これは『毎日』の記事。ボクは週一回書店に行き、どういう本がでているかをチェックする。本のほとんどは通販(honto)で購入しているが、ネットだけだと、見逃してしまう本がでてくる。

 書店に行くと、嫌韓本、嫌中本が積まれているところがある。よくもまあこんなたくさんの種類が出版されているのかとあきれてしまう。すべて非学問的、知性のかけらもないものだ。こういう扇情的な本を出版する出版社の理性を疑ってしまうが、しかしこれだけたくさん並んでいると、買っていく人もいるのだろう。

 先日大学のサークルの同窓会があったが、その種の本を数冊持ってきて、ボクに意見を尋ねる者がいた。それらの本が低レベルであったことに驚き、そういう本を彼が真に受けて読んでいることがとても残念であった。

 この記事にあるような取り組みはもっともっと積極的にやってもらいたいと思う。出版人の良心である。


時流・底流:売れる「嫌韓嫌中」本 若手出版人が「この国考えて」
毎日新聞 2014年06月02日 東京朝刊


書店に並べられた河出書房新社の選書フェア「今、この国を考える」の対象書籍=東京都豊島区のリブロ池袋本店で2014年5月30日、西本勝撮影
拡大写真 韓国や中国を攻撃する出版物が売れている。書店の店頭には、両国の国名に「嫌」「呆」といった文字をかぶせた書籍や、刺激的な見出しの雑誌が並ぶ。こうした風潮に、河出書房新社(東京都渋谷区)の若手社員4人が問題提起を思い立った。「今、この国を考える−−『嫌』でもなく『呆』でもなく」と題した選書フェアを企画したところ、19人の作家や評論家らが協力し、全国100店以上の書店が本を置くことになった。

 尖閣諸島など領土をめぐる緊張が起きた2010年ごろから、両国を批判する出版物が目立ち始めた。昨年末からは、安倍晋三首相の靖国神社参拝をめぐる両国の対応を非難したり、韓国の客船沈没事故の対応を冷ややかに語る雑誌記事が相次いで出ている。

 こうした中、河出書房新社の編集者の一人が今春、都内の有名書店の壁面に、太平洋戦争での日本を賛美する内容の書籍広告が掲げられたのを見てショックを受けた。「書店を非難できない。送り手が何とかしなければ」と周囲に呼びかけた。文学全集担当、書籍編集、営業といった普段は一緒に仕事をしていない20〜30代の4人が集まった。アンチテーゼではなく「本の豊かさ、多様性、いろんな本の中から問題に気づいたり、考えたりするきっかけを届けよう」と話し合った。

 ◇18冊選びフェア
 担当する作家や評論家に協力を呼びかけた。同社が発行する書籍6冊と、作家・評論家らが推薦する他社発行の12冊の計18冊が決まった。中国や韓国を取り上げた本だけでなく、消費税、生活保護、近現代史、憲法、宗教といった多彩な本がそろった。

 作家の星野智幸さんは「企画に救われた思いがした。『嫌韓嫌中』は長い時間をかけて醸成されたものだから、変えるのも長い時間が必要だ。まず現場での現実を知るべきだ」と考えて、弁護士のななころびやおきさんが外国人労働者を描いた「ブエノス・ディアス、ニッポン」を推薦した。

 映画監督の想田(そうだ)和弘さんは「怒らないこと」(A・スマナサーラさん著)を推薦した。「出版業界も経済的に苦しいから、売れる『嫌韓嫌中』本に頼らざるを得ないのだろう。だとしたら良書が売れる努力をすることが一番だ。怒りをあおる本が売れ、右も左も人々が怒りに支配された状況への鎮静剤ないし解毒剤になる良書だ」。大貫妙子さんのエッセー集「私の暮らしかた」を推した作家の中島京子さんは「毎日の暮らしの中に『考える』という行為がある。一人一人がそういう『暮らしかた』をしていれば、世の中はそんなに間違った方向へ行かないのではないかと考えました」とコメントした。

 ◇100書店が参加
 5月中旬に全国の書店にファクスで案内状を送り、ツイッターで宣伝したところ、10日ほどで対象書籍を並べることを表明した書店が100店を突破した。ツイッターを見た人が書店に参加を促すこともあったという。担当者の一人は「ぜひ書店に足を運んで、ネットでは目に入らないような、いろんな本を見てほしい」と呼びかけている。【青島顕】

==============

 ◇協力した作家や評論家たち
小熊英二、野間易通、北原みのり、朴順梨、小林美希、斎藤貴男、雨宮処凛、いとうせいこう、内田樹、岡田利規、斎藤美奈子、白井聡、想田和弘、中島京子、平野啓一郎、星野智幸、宮沢章夫、森達也、安田浩一(順不同、敬称略)
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【本】加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)

2014-05-31 22:38:21 | 読書
 この本も、ぜひ、ぜひ読んで欲しいと思う。素晴らしい本だ。新大久保で生まれ育った著者は、新大久保の路上でおこなわれるヘイトスピーチにノン!を突きつける。

 著者・加藤は、そうした現在の動きを根底から捉えるために、1923年9月を振り返る。そこには、軍や警察、そして一般庶民による朝鮮人虐殺があった。この本に紹介されているそれぞれの事件はおぞましく、活字を追う眼をそこで停止したくなるほどだ。だが、事実は事実として、きちんと視なければならない。

 ボクは、静岡県に於ける在日朝鮮人の歴史を調べ書いたりしているから、そして大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺について調べたりしているから、もちろん関東大震災に於ける朝鮮人虐殺は知っているし、山田昭次さんの本も読んでいる。
 
 だが、この本は、過去の歴史的事実を明らかにするという視点だけではない、著者の脳裏には、常に現在のヘイトスピーチの問題がある。現在の問題を理解し、解決しようとして、そのために歴史の襞に分け入っている。まさに歴史研究の大道を行っている。
 
 ボクはこの本を読んで、教えられたことがいくつかある。まず1923年の虐殺の前、メディアが朝鮮人を「不逞鮮人」として、書きたてていたようなのだ。

 1923年9月に至る数年間も、日本の新聞は毎日のように「不逞鮮人の陰謀」を書きたてていた。

 そしてプロレタリア作家の中西伊之助の「朝鮮人のために弁ず」(『婦人公論』1923年11月12月合併号)を引用する。

 爆弾、短銃、襲撃、殺傷、ーあらゆる戦慄すべき文字を羅列して、所謂不逞鮮人ー近頃は不平鮮人と云ふ名称にとりかへられた新聞もありますーの不逞行動を報道しています。それも新聞記者の事あれかしの誇張的筆法をもって。

 そして今も、週刊誌や新聞などが、中国や韓国への敵愾心を煽っている。その書き方に、ボクはやはり中国や韓国への蔑視を感じる。他国を批判すろとき、たとえば欧米のどこかの国を非難する時の書き方とは、絶対に異なる。

 さらに政治家・石原慎太郎の、「三国人」発言。外国人に対する蔑視と威嚇を含んだ、いやそれを前面に出した演説など。

 1995年、阪神淡路大震災が起きた時、ボクは、関東大震災における朝鮮人虐殺を想起した。真剣に心配した。しかしそういう事態は起きなかった。ああそれでも歴史は進歩したんだなあと思い、ホッとした記憶がある。

 だがその頃は、現在のような反韓、嫌韓の思潮はなかった。メディアによる同調もなかった。だが今はある。

 首都直下型地震が想定されるなか、東京は、もう一度あの歴史を繰り返すのだろうか。

 これもこの本で教えられたことであるが、2005年アメリカ南部に上陸したハリケーン・カトリーナが莫大な災害を引き起こした。そのさなか、白人の「自警団」により、黒人に銃撃が加えられたり、非白人が略奪しているという流言飛語が飛び交ったりしという。1923年9月の事態が、アメリカで再現されたのだ。

 加藤は、こう記す。

 週刊誌やネットでは「韓国」「朝鮮」と名がつく人や要素の「間」化の嵐が吹き荒れている。そこでは、植民地支配に由来する差別感情にせっせと薪がくべられている。「中国」についても似たようなものだろう。

 その「間」化に抗するものとして、加藤は「共感」を対置する。彼らは「「共感」というパイプを必死にふさごうとする」、だからこそ、1923年9月、「名前をもつ誰かとしての朝鮮人や中国人や日本人がそこにいた」こと、そこには国籍を超えた「共感」があったこと、それを加藤は示そうとしている。

 本書で紹介されているレベッカ・ソルニット『災害のユートピア』(亜紀書房)は、注文している本だ。これも絶対に読まなければならない。

 あの歴史を、絶対に繰り返してはならぬ。
  
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本が来た!

2014-05-31 14:26:12 | 読書
 注文していた本が届いた。2冊。1冊は専門書。もう一冊は、『九月、東京の路上で』(ころから、2014年)である。

 これは『毎日新聞』の書評欄で紹介されていたもの。大杉栄・伊藤野枝の墓前祭に関与するボクとしては、読まなければならないと思って注文したのだ。

 東京周辺では、1923年9月1日の関東大震災の時、多くの朝鮮人が虐殺された。その背後には、国家権力の行為が存在していることは確かであるが、実際に朝鮮人を殺害したのは、庶民である。

 この本は、虐殺現場となったところが、今どうなっているかを記したものだ。現状については、小さな写真がついているだけだが、地図もあり、またそこで起こった殺戮事件の詳細が記されている。

 また文学者などが、この朝鮮人虐殺を様々なかたちで記していることも紹介されている。その一つ、詩人の萩原朔太郎のもの。

 朝鮮人あまた殺され
 その血百里の間に連なれり
 われ怒りて視る、何の惨虐ぞ 


 著者は加藤直樹。新大久保で行われているヘイト・デモに抗議するカウンター行動者のひとり。

 抗議活動に参加していくなかで、過去に起きた朝鮮人虐殺事件を調査した。その報告でもある。

 良い本だ。

http://www.asiapress.org/apn/archives/2014/04/17095322_2.php
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絶対のオススメ 上野千鶴子『上野千鶴子の選憲論』(集英社新書)

2014-05-30 13:23:54 | 読書
 Uさん、教えてくれてありがとう。とても良い本だと思いました。

 日本国憲法、自民党の改憲案、それらをわかりやすく、新鮮な筆致で説明しています。

 第一章 憲法の精神 
 「琉球共和社会憲法」という憲法草案から憲法を論じ始めたというところが気に入りました。なぜって、日本で凄惨な地上戦があったところ、そして戦後日本から捨てられて米軍による支配がずっと続き、1972年の「返還」以降も集中する米軍基地に苦しめられたところ、それに抗してずっと闘い続けてきたところ、そこの人々がどういう憲法草案を考えているかを知ることはとても大切だと思うからです。

 第二章 自民党の憲法草案を検討する 
 この本は、通常この草案への批判は全てではなく、部分的に行われるのがふつうですが、上野さんは丁寧に読み解き、そしてやさしくそれぞれの条項が持つ問題点を指摘しています。ボクもこの憲法草案に関する本をいくつか読んでいますが、もっともやさしく、すっと頭に入ってくる内容でした。
 もちろん、そこには社会学者としての今までの研究を踏まえた主張で、そこに個性的な記述もあり、教えられました。
 この自民党憲法草案に対する批判は、きわめて新鮮、ここだけでも読む価値があるとおもいます。

 第三章 護憲・改憲・選憲
 上野さんは「選憲」を主張します。現行憲法を選びなおすということでもあります。もちろんすべてではなく、象徴天皇制を規定する第一条はいらない、共和制が最善であるから、と主張しています。

 そしてここで民主主義について論じています。上野さんは他の研究者の説を紹介していますが、その内容はボクが今まで読んだこともないようなもの(本)をもとに説明していて、新鮮でした。
 
 なかでも、精神医学者中井久夫氏の主張、当時17歳であった福岡亜也子さんの「若者が書いた、憲法前文」の紹介は、勉強になりました。

 この本は、皆さんに推薦します。ぜひ買って熟読してください。読んでよかったと必ず思うはずです。740円+悪税です。




 

 
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【本】守屋英一『ネット護身術入門』(朝日新聞社新書)

2014-05-28 00:02:03 | 読書
 今日届けられた本であるが、数時間で読み終えることができる。

 第一章は、フェイスブックやツイッターなどいわゆるSNSに関する内容である。ボクは、SNSはまったくやっていないし、やろうとも思わない。というのも、今や友人たちや研究会の仲間などとの連絡のほとんどはネットによるメールであるし、情報を得たり、通販でたとえば本を購入したりするために、一日の一定の時間をコンピュータの前で過ごさざるをえない、もしSNSなんかに手を出したら、ネット関連で多大な時間を費やしてしまう。原稿を書いたいるする時間を除き、コンピュータに向かう時間はできるだけ少なくしたいと思っているからだ。したがって、第一章は、参考程度に読んだ。

 第二章は、まさに現代の「監視社会」化の実態の一部が記される。しかし「監視社会」については類書がでているし(そうした本は何冊か読んでいる)、とりたててこの本から新しく知ったことはない。

 第三章は、ボクもインターネットバンキングや通販などでお金の取引をしているが、それに関する犯罪の実態が示されている。くわばら、くわばら、である。

 第四章は、SNSに関わらないボクとしては直接関係ないが、ストーカー、ネットいじめなど、問題とされていることが説明されている。

 この章で学んだこと、1.インターネットバンキングをしている者は、頻繁に口座の状況を確認すべきこと、2.クレジットカードの利用明細をきちんと確かめること、である。

 第五章。自分に関する情報の漏洩、悪用をどう防ぐか。まずネットで自分の電話番号が分かるか確かめてみた。146頁にそのやりかたがあった。見事にでてきた。早速116番に電話して、ハローページへの記載を確かめた。以前、電話帳の記載をやめてほしいと注文したはずだが、ネットのは2007年。ボクのNTTへの注文は、その後だった。残念!そのほか、アマゾンの送り先をコンビニにするとか、いろいろな提案があったが、利便性から考えるとそれを実行することはおそらく無理だという結論となった。
 また159頁にあったGoogleアラートはやっておいた。

 第六章。ここの記述は大切だ。パスワードの作り方や、パスワードをコンピュータに保存するななど。その対策も記されていた。ありがたい。早速これらは実行したい。

 第七章は、まあまとめという感じ。

 いずれにしても、こうした本を読んでできるだけ「護身術」の知識を身につけるべきだと思った。

 怖い時代である。国家権力や企業によって、ネットを通じての行動が読み取られ、実際に情報やカネが盗まれ、プライバシーが侵害される。できうるかぎりの防護をすべきであるという教訓を学んだ。

 さてブログでこの本を購入したと記したら、著者から「購入してくれてありがとう」だって。だから早速紹介した。

 参考になる本でした。実行できることは実行して、「護身術」を身につけます。
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ヤンキー文化

2014-05-27 07:50:21 | 読書
 中学校や高等学校の部活動は、隆盛を極めている。高校の野球部や吹奏楽部の日々の練習は、夜の10時くらいまでおこなわれている。部活動の盛んな学校では、学校は部活動のために行くところであるという認識すら生まれている。顧問(教師)も、「勉強するより、試合に勝つために練習に励め」などという。

 朝、そして放課後から夜までの部活動について「やり過ぎ」であるという批判はいつもあるが、それが改善されることはない。

 その部活動、中学校や高等学校で必修化されたのは1960年代末から70年までの学習指導要領による。1960年代末といえば、高校紛争が全国にひろがり、文部省や教育委員会がその対応に苦しんだ頃だ。その対策として、部活動があった。思春期の若者たちのなかに生まれる「反社会的な思考」をスポーツなどの活動の中で解消させようとしたのである。
 そして必修化がはずされたのは1990年代末である。文部科学省は、もう必修化をはずしても大丈夫、高校紛争などは起きないと確信を持ったのだろう。
 しかしだからといってすでに40年以上も行われている部活動が消え去ることもなく、衰えることなく、保護者の熱狂も含めて存続している。

 さてこのほど『ヤンキー化する日本』(斉藤環、角川新書、2014年)を読んだ。そこにこうある。

 わが国においては、思春期に芽生えかけた反社会性のほとんどは、ヤンキー文化に吸収される。(26)

 ボクはこれを読んだ時、これは部活動のことだと直感した。

 青少年の反社会性は、芽生えた瞬間にヤンキー文化に回収され、一定の様式化を経て、絆と仲間と「伝統」を大切にする保守として成熟していくのである。われわれは、まったく無自覚なうちに、かくも巧妙な治安システムを手にしていたのである。(27)

 斉藤は、ヤンキー文化についてその特徴をあげているのだが、それらは部活動の中で鍛え上げられてきたのではないかと、ボクは思う。

 その一つ、「気合い主義」。「気合いとアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」である。「精神の力で肉体の限界はやすやすと超えられるとする発想」。「家族のため、仲間のため、お国のために入れるのが「気合い」」。それは部活動に於ける長時間の練習にみられる。そして部活動に見られる軍隊並みの序列。新入生は奴隷、最上級生は天皇である。年齢を中軸としたタテの上下関係が徹底される。上級生の命令は絶対である。それが伝統化される。タテの上下関係を中軸とした集団主義。

 そこでは「反知性主義的な行動主義が現場を支配」する(28)。まさに部活動である。

 斉藤は、ヤンキー文化の要素を挙げていく。現実主義、実学思考、ホンネ主義、「知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んじる」、「考えるな、感じよ!」、「判断より決断が大事」・・・・

 ヤンキーたちが「よいもの」とする言葉。夢、直球、愛、熱、信頼、本気、真心、家族、仲間、覚悟、遊び、シンプル、リアル、正直・・・(42)

 これらの言葉は、部活動の中で交わされるものだ。今の若者たちは、部活動というヤンキー文化のなかで育てられる。

 斉藤は、だからこそ、「ヤンキーはポエムが好きだ」(38)という。相田みつおの詩は彼らと相性がいいようだ。「ホンネ」、「ありのまま」、「現状肯定」。なるほど!「美辞麗句にして内容空疎」。その典型は、これ。安倍首相の演説その他。

日本は古来より、朝早く起きて田を耕し、水を分かち合い、秋になればご皇室とともに五穀豊穣を祈った瑞穂の国であります。長い間続いたデフレから脱却をするためには、それぞれができることをやらなければ、日本を再び輝く国にすることはできない、この思いを一つにすることができました。これこそまさに瑞穂の国の資本主義ではないでしょうか。私はそういう国をつくっていきたいと思っています。
 
 反知性主義の若者たちに、知性を持たせることは容易ではない。彼らはそれに居直っているからだ。

 こういう例がしるされていた。

 ネット右翼がしたり顔で、「集団的自衛権がない日本は異常です。つまり自衛官は、日本国民という集団ではなく、自分個人のことしか守れません」と書いたそうだ。彼は個別的自衛権を自衛官個人が自分だけを守ること、だと理解している。自分自身の無理解を、なんら吟味することなく、公言する。「オレはこう理解しているんだ、わるいか?」なのである。

 反知性主義の若者たちの支持を集めるためには、相田みつおの詩を学び、彼らの感情に訴えかけるしかないのか。

人生において

最も大切な時

それはいつでも

いまです


 (相田みつお)
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戦争とはどういうものか

2014-05-22 09:54:00 | 読書
 戦争をしたいという政治家や官僚どもが騒いでいる。こうして騒ぐ奴は戦争には行かない。戦争で死んだり、傷つく者はいつも庶民だと相場が決まっている。自分が行かないから勝手な物言いができるのだ。

 しかし、そういう政治家どもの言動に影響される者たちもいる。おそらく戦場というものがどういう現場であるのかを想像できないのだろう。

 アメリカがベトナムを侵略して、ベトナムの人々を殺戮したことがあった。世界中のカメラマンや記者が戦場に入り、その現場で見たこと、考えたことを、写真付きで報道していた。そこには戦場の生々しい写真が掲載されていた。そういう写真が、アメリカ国内の反戦運動を高揚させた経験を踏まえ、戦争をしたい奴は、それ以後生々しい写真を撮らせないようにし、かつメディアもそういう写真や映像を見せなくなった。

 かくて、戦争の真の姿は、人々の前から消された。

 だが、ボクたちは、戦場とはどういうところかしっかりと想像することが肝要だ。

 ボクは、地域の歴史を書く時には、いつも元兵士から体験を聞いていた。ほんとうは、戦場での加害行為について聞きたいのだが、それについては話してくれなかった。ただ、皆さんが必ず言うことは、もう戦争はすべきではない、自分の子孫にはああいう場には立たせたくない、ということだった。それを語る元兵士の眼は、過ぎ去った否定すべき過去を思い出すように、遠くを見つめるようであった。

 戦場の壮絶さを思い描く時、ボクがいつも思い出すのは、渡辺清『戦艦武蔵の最期』(朝日新聞社選書)である。もう絶版になっているかもしれないが、戦艦武蔵が断末魔を迎えている時、甲板でどういうことが起きていたのか、それがきわめて具体的に書かれていたことを思い出す。米軍機の爆弾や機銃掃射で傷ついた兵士の姿、とくに砲弾の破片が四方八方に、まさに凶器となって飛散し、それが兵士の体を裂くという描写、あるいは直撃されると兵士の体は肉片となって散らばる・・・・凄絶そのものの戦闘場面が描かれていた。

 その一部は下記で読むことができる。

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/nonfc/pdf/WatanabeKiyosi.pdf

 もちろんボクは、戦場には立ちたくないし、いかなる人にも戦場には行ってもらいたくはない。いかに戦争をしないようにするか、いかに平和を維持していくのかを、とことん追求すること、これこそ政治がすべきことである。

 想像力が欠如し、あたかもCGで戦争ゲームに興じるかのように、戦争にあこがれている奴ら、彼らの趣味につきあわされないように、しっかと眼を見開いて、この危機的な状況に対処していきたいと思う。
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【本】木村真三『「放射能汚染地図」の今』(講談社)

2014-05-21 14:16:55 | 読書
木村真三さんは、NHKEテレの「放射能汚染地図」に関係した人だ。今も福島県に住み、放射能汚染の状況をみずから率先して調査している。

 学者として何ができるのかという視点から、地域住民や自治体(二本松市)と協力して、汚染された福島で生きる人たちがどう放射能と折り合いながらいきていくのかを模索している。

 福島の原発事故に伴う放射能汚染については、様々な情報が流されている。とくに政府や福島県は、あたかも何ごともなかったかのような根拠ない「安全神話」を振りまいている。もっとも許せないのは、子どもの甲状腺癌の出現について、「原発事故とは因果関係がない」と言い続けていることだ。「あるかないかは科学的にはいまだ断定できない」というのが現時点で言えることなのだろうが、ひたすら否定を繰り返している。

 現実に「安全」ではまったくない。しかしそこで生きていかざるを得ない人々がいる。第五章は「放射能と暮らす時代を生き抜くために」である。福島県だけではない、実は日本全国の住民は多かれ少なかれそういう状況に生きていかざるを得ないのである。どう生きていくか、木村さんは必死だ。

 政府や県、電力会社は、まったくあてにならないからこそ、住民自らが身近な自治体と共に、学び、調査し、考え、行動し、とにかく前向きに取り組んでいくこと、そのために奔走する。

 木村さんは、住民や自治体のそうした動きを支え、指導し、現状をきちんと見つめながら、地に足が着いた取り組みを展開している。

 この本は、今年2月に出た本だ。良心的な科学者による、良心的な内容が書かれている。福島の現状と、そこに住む人々の努力、自治体の取り組みがわかる。

 ボクは図書館で借りたのだが、読むべき本である。

 木村さんが関わる二本松市の動きは、下記でみることができる。

http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/site/higashinihondaishinsai-kanren/20121204-2.html 
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ショックな記述

2014-05-14 13:46:38 | 読書
 今日、注文していた『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)が届いた。この本、世界各地で同時発売される本という売り込みである。とにかく読んでみようということから購入したのだが・・・・

 読みはじめて、もちろん最初のところだけだが、驚くべき記述があった。秘密の話をする時には、携帯電話やパソコンは近くに置いておいてはいけないというのである。

 政府は携帯電話やノートパソコンを遠隔地から起動させ、盗聴器としてつかうことができるから(26頁)

 これは著者、グレン・グリーンウォルドの第一章「接触」からであるが、これだけでなく、「序文」にもすごいことが記されている。どこの国でも、政府・国家権力は人々を監視するシステムが稼動していているということであり、インターネットはそのための重要な手段となっている、というのである。

 インターネットは、大量監視システムでもあること、「国家による監視手段としてどこまでも危険で抑圧的な人類史上最悪の兵器」(16頁)なのである。

 さあ次を読もう。
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家永三郎

2014-05-11 19:43:28 | 読書
 尊敬する人物を挙げよ、といわれたら、ボクはまず田中正造と答える。では二番目はと問われたら、迷うことなく家永三郎と答える。

 浜松市図書館が新刊として購入した本は、すぐに誰かに貸し出され、読みたいと思ってもすぐには読めない。先に予約した人が読み終わったあとにまわってくる、だから待たなければならない。

 浜松市の図書館にアクセスして新刊を見た。すると『家永三郎生誕100年 憲法・歴史学・教科書裁判』(日本評論社、2014年3月30日発行)が目についた。誰も借りていない。家永三郎先生に関する本を誰も借りないというのは、大いに問題だと思い、ボクが借り出し、今日それを読み始めた。

 そこには懐かしい名前が並んでいた。

 まず巻頭は鹿野政直先生。ボクは法学部生であったが、文学部の鹿野先生の「日本史研究」という講義に潜り込んでいたことがある。鹿野先生も高齢となられたが、今もお元気で活躍されている。またここに記された文も、鋭い問題意識と現実認識をもとに、広範な知的蓄積を背景にした名文である。

 そしてその他、永井憲一先生。ボクは大学の講義はほとんど出席せず、サークル活動その他に邁進していた。4月にすべての講義を聴き、これは聴くべきだと判断した講義だけを聴くようにしていた。その中の一つが、永井先生の教育法の講義である。情熱的な講義で、この講義で先生が紹介された本は、すべて購入して読んだ。まだお元気のようだ。

 浪本勝年氏。大学では、裁判問題研究会に参加していた。研究テーマに、家永教科書裁判をとりあげたことがあり、浪本氏に来ていただいたこともある。
 なお6月にはその研究会のOBOG会が行われる。今大学にその研究会はないが、「卒業生」は各界で活躍している。

 ボクはこの教科書訴訟については、「教科書検定訴訟を支援する全国連絡会」に参加し、裁判の傍聴を行っていた。法廷では、決して丈夫そうでない家永先生、その傍らには、いつも大江志乃夫先生がついていたことを思い出す。

 さて家永氏が書かれた本は、たくさん読んだ。それらは今も所持している。一つだけ紹介すると、岩波書店から刊行された『太平洋戦争』、戦時中のみずからのあり方(「傍観者であった」)を深く深く反省し、なぜあのような無謀な戦争を起こしたのか、なぜそれを阻止できなかったのかという鋭い問題意識をもって書かれたものだ。

 鹿野先生は、短い文ではありながら、家永先生の学問のありかたをきちんとまとめられているのだが、この『太平洋戦争』の紹介のところまで読み進んできたところで、ボクは活字を追うのをやめざるを得なかった。なぜか。先生が渾身の力を振り絞って書かれたにもかかわらず、今また戦争の足音が聞こえてきているからである。

 歴史家としての責任を痛感し、当該期の歴史的課題をみずからの学問に組み込み、その学問的真実のために教科書を書き、検定に抵抗し、時代の闇と闘い続けた家永先生。

 鹿野先生は、文の末尾で「家永が没して11年、私たちは、彼の闘いの成果が崩されようとする状況のなかにいる。良心・思想・表現の自由への圧迫が、日増しに強化され、戦争のできる国への転換が、急ピッチで進められている」とし、家永先生の『太平洋戦争』の英訳本の書名が、Japan's Last Warであったことを紹介して、太平洋戦争が「はたしてLast Warとして止まるかどうかが、脅かされている段階にある。それをどう乗り越えるか、家永三郎の眼は、私たちを厳しく見つめているにちがいない。」と結ぶ。

 重い言葉である。家永先生の謦咳に接したり、著書を読み薫陶を受けたすべての人は、この鹿野先生の末尾を銘記する必要がある。
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「両立」

2014-05-05 19:35:41 | 読書
 この世には分からないことがある。最近、静岡大学を退官した古代史学者・原秀三郎が勲章をもらったというので、最近の彼の著作を少し読んでみようと、図書館から1冊借りてきた。『日本古代国家の起源と邪馬台国』という本だ。発行は、國民會舘である。副題に、「田中史学と新古典主義」とある。

 田中史学というのは、田中卓という皇国史観の学問ということである。これは國民會舘での講演の記録であり、最初に原は、この田中ともうひとり所功の両氏に感謝の意を表している。

 所功という名は、家永教科書訴訟で、国側の鑑定人としてよく名前を知られている。所も皇国史観の持ち主であろう。

 ボクは、古代史については普通の知識しかないので、原が主張するいくつかの論点について言及はできないが、この講演記録を読んで気づいたことを記しておく。

 まず講演末尾で、原の主張する「新古典主義史学」に関する紹介がある。そこにこうある。

 歴史における科学とは、直観によって得た豫測(=豫説)にもとづいて、史料を分析し、吟味と検証を通じて事実および事実関係を確定することである。また、歴史叙述と歴史意識=歴史的精神(私の場合は「敬神愛国」)と歴史理論(私の場合は「マルクス・エンゲルス理論」)にもとづいた研究成果の総合であり、物語(ロマン)である。

 しかし少なくとも、ここでの講演記録を読むかぎり、「敬神愛国」はあるが、理論としての「マルクス・エンゲルス理論」はどこにあるのか、と思うのだ。

 そしてこの原の主張についての先学としてとりあげる研究者は、天文学者の荒木俊馬(敗戦直後、京都大学からパージされた)、西田直二郎、白鳥庫吉、そして田中卓らであった。その中でも、副題にあるように、田中卓の研究にもっとも依拠しての立論となっている。

 それもそのはずで、「日本国家の起源」というとき、原の場合は古代天皇制国家の起源をさぐるのであって、社会科学的な日本古代国家研究とはかけ離れたものとなっている。

 原のなかで、「敬神愛国」と「マルクス・エンゲルス理論」がどう結びついているのか、理解不能である。まったく想像できない。学問の方法論というのは、学問に対する意識や精神と結びつくものであってそれ以外ではないというのが、ボクの認識である。つまり、人間のあり方としての学問研究であり、そのための学問の方法なのである。分離はできない。

 その意味で、原はとても器用ではある。

 原は、この講演でも語っているが、原は「左翼的環境の中で育って」きた。今はそうではなく、「政治と学問とはハッキリ分離しなければならない」というのだ。つまり政治は「敬神愛国」、学問は「マルクス・エンゲルス」というのだろう。しかし、この二つは両立はできない。

 だとすると、昔「左翼」が「転向」して、「右翼」へと飛び出していった人びとと、おそらく同じようになるはずだ。いやもうそうなっているという声もある。勲章が授与された背景でもある。

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ホロコースト 『ハンナ・アーレント』を読む

2014-05-02 08:33:46 | 読書
 ハンナ・アーレントは、ユダヤ人を何百人と殺戮した全体主義を検討する。

 全体主義は、様々な現れ方をする。こういう記述があった(114)。

 人びとを人間として「余計な者」にすること、多様でそれぞれが唯一無二の人びとが地上に存在するという人間の複数性を否定することが全体主義の悪であった。

 もちろんこれは、ナチスドイツに於いては、国家がそれを行ったのだが、しかし現在のわが日本に於いては、これと同様のことが街頭やネットの世界で行われている。いやそれは出版界でも、堂々と行われている。そしてそのような志向は、現政権の中枢の人たちも共有しているのだ。

 警戒感をもたずにはいられない。

 政治的道具としての反ユダヤ主義の危険性は、ユダヤ人が抽象化され、ユダヤ人一般として見なされることにある。具体的にユダヤ人と接触したことのない群衆(モッブ)が、個人的経験ぬきでイデオロギーとして反ユダヤ主義に染まる。

 こういう記述に、ボクは現在の日本の状況と重ね合わさざるをえないのだ。「反ユダヤ主義」を「反韓」、「ユダヤ人」を「韓国人」とすれば、まったく「合同」となる。

 アーレントは、あのホロコーストを脳裏に浮かべながら、人間や社会や政治のあり方を思考する。そしてその思考は、普遍的なものにまで高められていく。ハンナ・アーレントが今も読まれるのは、彼女の思想がそうした普遍性を持つに至ったからである。

 たとえば、「誰でもない者」(179頁)によって構成されている官僚制。多くのユダヤ人を虐殺したアイヒマンは、そうした官僚のひとりであった。己をむなしくして、与えられた「業務」を淡々とこなす。

 ボクの周辺でも、そうした人間は容易に見つけることができる。思考しない、あるいは「誰か他の人の立場に立って考える能力」(187頁)を欠如した人間。

 アーレントは「思考の欠如」を指摘している。「思考に動きがなくなり、疑いを入れない一つの世界観にのっとって自動的に進む思考停止の精神状態」(174頁)。

 これはおおかたの日本国民が陥ってる、まさに現代日本の姿ではないかと思ってしまう。

 こういう引用があった。

 もしわれわれが、自分の価値観に従い自分の経験に即して立ち上がらず、自分の確信や感情を犠牲にして、全体主義的制度への協力を一歩踏み出してしまうならば、協力するたびごとにさらにきつくなる網の目に捉えられてしまい、ついにはそこから自由になることができなくなってしまうのである。(195~6頁)

 そして「絶望的な状況においては「自分の無能力を認めること」が強さと力を残すのだ」(201頁)という。「業務」として犯罪的なことを強いられることがある、そのときにどう対応するか。ここにひとつの回答がある。

 ユダヤ人が、次々と「絶滅収容所」に運ばれていく。そのとき、

 世界は沈黙し続けたのではなく、何もしなかった。

 これがアーレントの、考えであった。この絶望を、アーレントは真正面から考えようとしたのである。彼女の思考のすべてに、あのアウシュヴィッツがある。

 人間は、他者を「無意味な者」として消滅させた、という過去をもつ。ボクたちの思考も、これを包含するものでなければならない。
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矢野久美子『ハンナ・アーレント』(中公新書)

2014-05-01 08:58:08 | 読書
 ハンナ・アーレントの本は、ボクの書棚に並んでいる。「過去と未来の間」という、今ではほとんど書いていないブログの名は、アーレントの『過去と未来の間』という本から借りたものだ。

 彼女については、先頃映画化されたから、知っている人も多いだろう。彼女はきわめて知的であると同時に刺激的な主張をしてきた。とくに『エルサレムのアイヒマン』は有名である。先日も記したが、ボクはこの本を買ってもいなかったので、あの映画を見たあと購入して、机の上に置いてある。

 『・・・アイヒマン』よりも先に、ボクはこの本を買って読んだ。アーレントの思想を俯瞰できる内容で、とてもよかった。ボクは本を読むときは赤線を引き、塗り(最近は赤の色鉛筆を多用している)、付箋を貼るが、この本、付箋だらけになってしまった。

 政治哲学者というのか、とにかくアーレントの思想のエッセンスが書かれた本だ。アーレントの本は段組で、これは読めるかなと怖じ気づくような長い長いものが多い。アーレントの本を読むのはどうも、と思う人は、この中公新書を読むのがよい。アーレントの著作の翻訳者であるから、内容は確かだ。

 ハンナ・アーレントは、すこしでも教養のある人で知らない人はいないと思う。でも読んでいる人は少ない。

 アウシュヴィッツを体験した人類は、みずからの思想のなかに、この事実を包含しなければならないが、それに真摯に立ち向かったのがアーレントである。アーレントはユダヤ人であったからでもあるが、しかしユダヤ人であることに囚われずに、みずからの政治哲学を打ち立てた。

 内容の紹介は、あとで。



 



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