浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「戦争法案」反対の動画が、消された?

2015-07-23 21:14:38 | 読書
 you tubeにアップした動画が、Googleによって消されたんだそうだ。抗議活動が行われて復活したとのこと。you tubeには、ネトウヨらのヘイトスピーチやそれを叫ぶデモがアップされているのに、「戦争法案」反対は消すの?

 いったいGoogleは何を考えているのだろうか。なぜ消して、なぜ復活させたのかを説明せよ!!

http://www.huffingtonpost.jp/2015/07/22/anpo-movie-youtube_n_7853732.html?utm_hp_ref=japan
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村上春樹のインタビュー記事

2015-04-27 12:22:01 | 読書
 村上春樹にインタビューした記事が、共同通信から配信され、このほど『毎日新聞』にも掲載された。『中日』は4月21、23日の両日だった。

 村上の回答でこれはと思うところがいくつかあった。

日本が経済大国で、中国も韓国も途上国という時には、その関係の中でいろんな問題が抑え込まれていました。ところが中国、韓国の国力が上がって、その構造が崩れ、封印されていた問題が噴き出してきている。相対的に力が低下してきた日本には自信喪失みたいなものがあって、なかなかそういう展開を率直に受け入れることができない。

ただ歴史認識の問題はすごく大事なことで、ちゃんと謝ることが大切だと僕は思う。相手国が「すっきりしたわけじゃないけれど、それだけ謝ってくれたから、わかりました、もういいでしょう」と言うまで謝るしかないんじゃないかな。謝ることは恥ずかしいことではありません。細かい事実はともかく、他国に侵略したという大筋は事実なんだから。


 日本人には、アジアではトップであるという認識があり、中国や韓国が塚らをつけてきたことに、腹立たしさを覚えているような気がする。だからことさら中国・韓国の台頭を気にかける。

 「歴史認識」については、その通りだと思う。これは作家・辺見庸も言っていることで、謝罪しなくていいかどうかを判断するのは、日本ではないのだ。たとえばJR西日本の鉄道事故があったが、もう10年も経った、ずっと謝り続けているのだから、もう謝らなくてよい、とJR西日本が言ったとするとどうなのか、ということである。

 原発の再稼働について。

15万人もの人が避難を余儀なくされています。長いあいだ住んでいた土地から突然立ち退かされるというのは、人間の魂が部分的に殺されるのと同じです。そういう人が15万人も生まれてしまったというのは、国家のあり方の根幹にかかわることです。経済効率の良しあしでは済まされない問題です。それが何ひとつ解決していないのに、構造的なリスクを抱えたまま原発を再稼働させるというのは、国家のモラルからしても論外だと思う。

「ニュークリアプラント(nuclear plant)」は本来「原子力発電所」ではなく「核発電所」です。ニュークリア=核だから。原子力はアトミックパワー(atomic power)です。核が核爆弾を連想させ、原子力が平和利用を連想させるので「原子力発電所」と言いかえているのでしょう。今後はちゃんと「核発電所」「核発」と呼んだらどうかというのが僕からの提案です。

 村上の言うとおりである。
 避難されている方々は、今までの日常生活が完全に奪われてしまったのであり、その剥奪された日々がいつ終わるかも分からない状態に置かれている。そういう人々がいるのに、地震大国日本が再稼働してまた事故を起こしたらどうなるか。ネパールの地震やチリの火山爆発に見られるように、今地球は活発に動いている。

 「核発電所」という呼称については、賛成である。

http://mainichi.jp/feature/news/20150427mog00m040004000c.html
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

月岡雪鼎(つきおかせってい)

2014-12-26 07:27:16 | 読書
 昨日、『芸術新潮』が届いた。「月岡雪鼎の絢爛エロス 肉筆春画レボリューション!」がその特集である。

 今月号には、近世江戸時代の「春画」が多数、あるときは見開き2ページにわたって掲載されている。精密なかつ強調されたセックスと性器が堂々と雪鼎により描かれている。まさに日本近代が押し隠した、日本の大らかな性が示されているといってもよいだろう。

 昨年、イギリスの大英博物館が「春画」の大展覧会を行って、日本の文化を再発見させているが、現代日本では「春画」の展覧会が行われることはまずない。現代日本では、性は日常的には隠されなければならないとされているようだが、しかし週刊誌などでは、これでもかこれでもかと女性差別的な画像や記事が氾濫する。そしてまた他方、愛知県美術館が開催した「これからの写真」展で、掲げられていた男性ヌードの写真を、警察が撤去を申し入れてきたので、館ではやむなくその写真の下半分をシーツで覆うようなことがあった。

 こういうことがあったという。パリのオルセー美術館。クールベの「世界の起源」という女性性器が描かれた絵画が掲げられていた。ルクセンブルクの芸術家デボラ・ロベルティスさんがその絵画の前で自らの性器を思い切り開くというパフォーマンスを無言で行った。身体につけたスピーカーから、シューベルトのアヴェマリアとともに、「私は、起源、私はすべての女性、あなたは私を見ていなかった、私を認めて欲しい、水のように純粋な、精子の創造者」のナレーションが語られた。
 このデボラさんは、警察で事情聴取されただけで終わった。

 性表現の現状を考えると、このブログで擁護しているろくでなし子氏のパフォーマンスが何故に問題とされ、彼女が逮捕されなければならないのかがわからない。

 抑圧的な近代日本の前、風呂は混浴であり、離婚はめずらしいことではなかった。高名な浮世絵画家はこぞって「春画」を描き、それが世間に流布していた。また本書によると、『女大学』ならぬ『女大楽』が刊行され、性が堂々と記されていた。

 現代の日本。週刊誌の広告がふつうの新聞に載っている(大都市では電車のつり広告にも)が、センセーショナルな性に関する記事や写真があるぞと、公然と人びとの前に示される。そして他方では、アートとしての性、表現としての性が抑圧される。
 
 おかしな国・日本。近代がもたらした人間性に対する抑圧が、こうした歪みを生じさせている。それが未だに克服されてはいない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】古市憲寿『だから日本はズレている』(新潮新書)

2014-12-22 10:30:08 | 読書
 自由人的な社会学者は、なかなか自由な発想で物事を考える。批判的ではあるようにも思えるが、しかしそれは深いものではなく、社会の表層に現れる諸々に対する批評といえようか。

 「リーダー」なんていらない
 「クール・ジャパン」を誰も知らない
 「ポエム」じゃ国は変えられない
 「テクノロジー」だけで未来は来ない
 「ソーシャル」に期待しすぎるな
 「就活カースト」からは逃れられない
 ・・・・・・・・

 というように、カタカナ文字に対する批評が続くが、なかなか思い白い切り口である。「リーダー」なんかいらないし、「リーダー」なんかに期待しないで、「もしも今、何かどうしても解決したい問題があるなら、自分ができる範囲で動き出せばいい」。本書の他の箇所でも見られるのは、ボクがこのブログで書き続けている安倍政権批判のような大文字の政治に関しては、古市は冷笑的で、ある意味で醒めている記述だ。他にも、「政治に頼らずとも個人レベルで社会を変えていく方法はたくさんある」としていくつかの事例を出しているのだが、それは大文字の政治と関わりなく生きる人々で、どちらかというと個人的な「今、ここ」で案外ささやかな生き方をしている人々、カネ儲けなんかほどほどで良い、フツーに暮らせる分を稼ぎながら生きる人、または「静かな変革者」(体制の変革を志向するのではなく、行政と協調しながら社会的に意味ある活動をささやかに進めている若者たち)、そういう「粛々と身の回りの100人、1000人を確実に幸せにしている。だけど、その活動は規模が小さい分、あまり目立たない」動きに着目する。 

 大文字の政治への期待や関心はもたないのである。それは、彼が着目した若者たちの意識分析からの結論であるだろう。格差社会の被害者として論じられている若者たちは、そういう状況であってもみずからを不幸とは考えずに、「現在の生活に満足している」のである。今後の生活もそんなに変わらないという見通しをもって生きている。だから大きく社会を「変える」という運動に入っていくことはない。若し社会を変えるなら「ちょっとずつ変えていく」「静かな変革者」が増えれば良いのだ、という。

 わからないでもない。若者の意識はそうなのだろう。
 本書で古市は「2040年の日本」を描いているが、そこにはそうかな、と思うことがある。格差社会が進んだ世界がそこには描かれている。ささやかに貧しく生きている人が多い。何とかなってしまう社会が、そこにはあるようだ。また憲法も現行のままで、自衛隊の存在感がなくなり、テロは海外にはあるが日本にはない状況が描かれている。

 だがこのままいけば、自衛隊はおそらく海外で軍事活動をしているだろうし、テロのような流血騒ぎは国内でも起きているだろう。もちろん人々は厳しい格差社会で貧しい生活をしているはずだ。
 大文字の政治は、日常生活と直接繋がっていないように見えて、実は繋がっている。大文字の政治が日々の庶民の生活に効いてくるのは、少しずつである。大文字の政治を何とかしない限り、古市が示す「降りる」生活も不可能になるのではないだろうか。
 古市が冷笑し、また軽視している大文字の政治は、すべての人々に静かに,ある時は騒々しく覆い被さってくるはずだ。そういう時期を見通すべきではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「時流」

2014-11-29 19:20:08 | 読書
 坂口安吾の「堕落論」に、ボクがよく使用する「時流」に似た表現があった。さすがに文学者である。「巨大な生物」・・

 政治の場合に於て、歴史は個をつなぎ合わせたものでなく、個を没入せしめた別個の巨大な生物となって誕生し、歴史の姿に於て政治も亦巨大な独創を行っているのである。この戦争をやった者は誰であるか、東条であり軍部であるか、そうでもあるが、然し又、日本を貫く巨大な生物、歴史のぬきさしならぬ意志であったに相違ない。日本人は歴史の前ではただ運命に従順な子供であったにすぎない。政治家によし独創はなくとも、政治は歴史の姿に於て独創をもち、意欲をもち、やむべからざる歩調をもって大海の波の如くに歩いて行く。

 あるいは「時代的感情」。

 国民は戦争を呪っていても、そのまた一方に、もっと根底的なところで、わが宿命をあきらめていたのである。祖国の宿命と心中して、自分もまた亡びるかも知れぬ儚さを甘受する気持になっていた。理論としてどうこうということではない。誰だって死にたくないにきまりきっている。それとは別に、魔物のような時代の感情がある。きわめて雰囲気的な、そこに論理的な根底はまったく希薄なものであるが、ぬきさしならぬ感情的な思考がある。(240~1)

 結局、人々は非論理的な「時代的感情」のなかにある。人は、「時代的感情」の波間にたゆたうのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】園子温『けもの道を笑って歩け』(ぱる出版)

2014-11-15 08:22:01 | 読書
 『希望の国』という映画を見た。その監督がこの園子温という人。その映画に旺盛な批判精神を見た。

 彼が本も書いていることを知り、図書館から借りてきた。この本、ぱる出版が刊行本。ぱる出版は、『大杉栄全集』を刊行し始めているところだ。なるほど、である。

 園はかなりの自信家である。園の父とは全く正反対に、自ら枠を造らず、アナーキーな人生を送ってきた。そこからでてくる自信だ。そういう人生は、自由な精神を生み出す。本書は、そこからの人生訓がちりばめられた本。

 だがボクにはこうした人生訓はもう無用である。年齢的に、もう新たな人生は送れないし、やり直す時間もない。だから記された人生訓に、なるほどと思うだけだ。
 
 彼の「人生は質より量だと思います。シェイクスピアが1本だけ戯曲を書いても、名作と認められたでしょうか?そんなことはありません。・・・長い眼で見れば絶対に、人生は質より量です」(55)に納得。

 もちろん本書には、随所に社会批判が書かれている。たとえば、「経済にしても国家にしても、所詮は「感性」がものをいう。感性がドンなのに、経済だけ伸びるはずがない。ギリシャにしろ、ローマにしろ、文明が輝いた時代は文化も栄えていました」(64)。

 また次の記述には、全く同感だ。

 今の人たちは本は読まないけど、2チャンネルやツイッターを読んでいる。人間は本を読まなくなったらおしまいです。本には著者名が載っていて責任の所在がはっきりしているけど、ネットの書き込みには責任がないからです。(112)

 この本、簡単に読める。眠る前に少しずつ読んだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】芦川照江『そのとき住民は 富士川町の住民運動の私記』

2014-11-11 23:09:52 | 読書
 戦後静岡の社会運動を調べている。

 1968年から70年代初めにかけての富士川町(2008年、富士市に合併)住民の、東京電力富士川火力発電反対運動などに関する闘いの記録である。著者の芦川照江さんは、別名小川アンナ、反対運動の中核にあった。ふつうの住民として、ふつうの感覚(公害はいや!)から、火力発電反対闘争に関わった。闘いの軌跡とそのなかで感じたこと、学んだことが、印象的に記されている。

 労働組合運動とは質の異なる、住民の個の自覚に立った運動のありかたが論じられていて、現時点でも参考になる本である。

 大衆運動とは一人一人の心を切り取って整理してしまわないことなのだろう。愚直と気長とが一方の杖である。(94)

 公害の戦いというのは、むしろ組合とか企業とかではなくて、裸になって人間として公害の問題を考えうる人でなければ戦えないことなんだ。・・・日本における民主化というようなものが一人ひとりにおいてはたしてどれだけ理解され本物であったかを問いなおしてみたかった。われもわれもと労働組合に入って組合い員として行動しているが一人ひとりが民主主義というものをどれだけ身につけているか、個というものをもっと考えなければいけないんじゃないか(199)

 この本に収録されている「運動のなかの私ー個について」は、現在の運動においても読み返されるものであると思う。これについては、別に記す。

 過去の本でも、今も生きる本があるが、本書はその一冊である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『世界』12月号

2014-11-09 23:36:08 | 読書
 今日、『世界』12月号を購入した。特集は「報道崩壊」である。『朝日新聞』のある種の腰砕け(後退)を契機とした、激しいメディアバッシングが吹き荒れた。それに対してメディア関係者がどれほど闘うか。闘いしか、みずからの権利の地歩を確保し前進させることはできない。そういう自覚を持って、「報道崩壊」を食い止めて欲しいと思う。
 
 とくに朝日新聞社が発行している『Journalism』は、『朝日新聞』紙上での「慰安婦」問題や「吉田調書」の誤報問題に関して振り返るべきである。もちろんその場合、朝日新聞社の方針に沿ったものではなく、ジャーナリズムの視点からの検証でなければならない。
 Tさん、この問題に関する特集を組むべきです。

 さて、この問題に関しては、別の機会にまた書こうと思うが、今回は内橋克人氏による宇沢弘文氏のいわば追悼文について記す。時の流れは、「戦後民主主義」を支えてきた人々を黄泉の国に次々と運んで行ってしまう。とても、とても残念である。ボクらには、しかし、その人々の書き残したものをしっかりと学びとることが求められている。

 内橋氏が引用している宇沢氏の文ー

 経済学は優れて実践的な面を持つ。経済学者がなにゆえ、経済学に関心を持ち、経済学の研究を一生の仕事としようと決意するのかというと、貧困と分配の問題にその原点を持つことが多い。なにゆえ、ある一つの社会あるいは国のなかで、同じ人間でありながら、一方では貧困に苦しみ、その日その日の食糧にすら不自由する人々が大ぜい存在するとともに、他方では、暖衣飽食、贅沢に飽くことを知らない人々が存在するのであろうか。

 このような宇沢氏の問題関心は、「宇沢経済学」をつくりだしてきた。そして『自動車の社会的費用』(岩波新書)を記し、水俣病や成田空港問題などに取り組んでこられた。「社会的共通資本」という概念は、そうした様々な具体的な問題に関わりながらつくりだしてきた、きわめて有効な概念である。

 だが、近年の政治経済政策は、内橋氏がいうようにそれを否定する「公共の企業化」が無際限に進んでいる。
 
 宇沢氏など、「戦後民主主義」がうちたててきた最良のものが崩されようとしているとき、ボクらはそれを押しとどめながら、それをより発展させていかなければならないのだろう。

 ボクらに求められていることは、学び、学び、考え、考え、そして、行動する、ということだ。ぼーっとしてはいられない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争の正体

2014-11-02 06:17:58 | 読書
 今月号の『現代思想』は、「戦争の正体」である。冷戦体制の崩壊以後、世界の各所で火を噴くようになった。様々な民族が、みずからのアイデンティティに目覚め、政治的な独立を果たそうと、武力でそれを訴えるようになった。たとえば旧ユーゴスラビアがそうであるように、小国が分立するようになった。そこに至るまでには、多くの血が流された。

 しかしこうした事態は、自然に民族(nation、エスニシティ)が自らのアイデンティティを自覚するようになったわけではなく、『「民族浄化」を裁く』(多谷千香子、岩波新書、2005年)が的確に指摘するように、「当時の指導者が仕掛けた権力闘争が引き起こしたものである。彼らは、共和国の独立による旧ユーゴ分裂の危機を千載一遇のチャンスとして積極的に利用し、いずれも、他民族の攻撃から自民族を守ることを口実に、自分の権力基盤の確立を目指して、「国土の分捕り合戦」を行った。口実を真実だと信じ込ませるために使われた手段は、他民族が集団殺害を計画しているというウソの宣伝をして、あたかも身に危険が差し迫っているかのような「現在の不安」を強調したり、他民族に天下を取られて二級市民の悲哀をなめることになるかもしれないという「将来の不安」を煽ることであった」(はしがき)。

 多谷はここまでは言及していないが、その背後にはアメリカという謀略国家が存在していた。

 その構図はあまり変わってはいない。ここで驚くことは、今まで平和に暮らしていた人々の中に、そうした権力者に呼応して武器を持って殺す輩がでてくるということだ。平和というものは、かくももろく崩れ落ちるということを知らなければならない。歴史をさかのぼれば、日本列島でも全国各地で「合戦」がおこなわれ、その際には略奪や放火、強姦、そして殺人が、普通の庶民によって行われた。藤木久志は『雑兵たちの戦場』(朝日新聞出版、1995年)で、次のように記している。

 これまでの多くの研究は(私も含めて)、戦場の人や物の掠奪を見ても、捕虜や現地調達は戦争の常とし、女性や子供の生捕りや家財の掠奪にまで免罪符を与え、戦場の村の刈田(かりた)や放火も「刈り働き」「焼き働き」などと呼んで、大名の戦術だけに矮小化し、戦場の村の安全を保証する「制札」(せいさつ)に着目しても、その裏にある村の戦禍に目を向けず、人身売買を論じても、戦場の奴隷狩りは問題にもしなかった。民衆はいつも戦争の被害者であった、という類いの記述も、至るところにあふれていた。だが、その叙述は具体的な事実との間の緊張を欠き、民衆は哀れみの対象でしかなかった。私にはその反省がある。 

 今、世界各地で行われている「戦争」のなかで、同じようなことが行われている。

 1648年のウエストファリア条約以降、国家のみが武力を独占し、国家間により戦争が行われるという国民国家的な「戦争」が繰り広げられる時代は、実は世界の歴史においては短かったといえるのではないだろうか。

 国家間戦争ではない「戦争」が、今繰り広げられている。

 安倍政権は、国家間戦争ではない「戦争」に参加しようとしている。そうした動きにノンを突きつける場合、そうした「戦争」のありようを視野に入れる必要がある。

 もちろん、戦争の本質は、いつも「破壊と殺戮」であるが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『みぎわ』

2014-10-29 11:39:37 | 読書
 今日『みぎわ』という雑誌が届けられた。編集発行は「浜松聖書集会」、無教会派の人々である。ボクの敬愛する故溝口正先生が主宰されていた。

 キリスト者のなかには、エゴイスティックな人もいるが、故溝口先生に連なる人々は、すべて皆人生の途上において、敬愛せざるを得ない人々である。ボクはそのような人々とつながりをもつことができ、そしてその人たちの生き方からいろいろなものを学ばせていただいている。本当に感謝、感謝である。

 今日届けられた『みぎわ』54号も、クリスチャンではないボクが読んでも、教えられまた心が浄化される。

 巻頭言は、故溝口正先生の、日本国憲法第九条を高々と掲げ、「これこそ日本国民の誇りではないか」と、格調高く訴えている。先生の存命中、先生の平和にかける熱い熱い思いを語る姿を知るボクは、今の日本を先生が見たら何と言われるか、申し訳ないという気持がある。

 本書には、たくさんの方が書いているが、私の知るお二人の文について言及していきたい。

 お一人は武井陽一さん。お医者さんである。もちろん敬虔なクリスチャンであり、ボクが敬愛するお一人である。ここに「沖縄は世界のために」という沖縄で行われた講演の記録を掲載されている。
 入佐明美さんという敬愛すべき方の紹介を巻頭に据え、主に内村鑑三と伊江島で生活と平和を破壊する米軍と闘った阿波根昌鴻さんのことを語っている。阿波根さんも、いまは亡い。その阿波根さんのことばが引かれている。

 戦争をするには国民を愚民に教育し、盲目にしなければなりません。

 それに続いて武井さんは、「愚かにならないように、愚かさから解放されるようにと、私たちは日々求められています」と記す。同感である。

 その後内村鑑三についての説明が続くが、ここではボクが知って驚いたことを記す。それは阿波根昌鴻さんが沼津にあった「興農学園」で学んでいたということだ。

 ボクは阿波根昌鴻さんが語るビデオも持っているし、『米軍と農民』(岩波新書)も読んだが、阿波根昌鴻さんについてもっともっと学ばなければならないと思った。

 武井さんは袋井のデンマーク牧場にいる。ボクも訪ねなければいけないと思った。

 そして溝口先生の奥様・春江さんの文にも感動した。そこには「人間の尊厳」が語られている。いかなる人間も「存在の価値がある」ということば。重いけれども、もっとも軽視されていることばでもある。しかし春江さんは、主に音楽教育の分野で、それを顕現させることをしていた。

 「心の内から「言いたい、伝えたい」という言葉から始める」

 音楽も、言葉も、心の内からの内発的な要求があってこそ、音楽も言葉も誕生するということ、「人間の尊厳」を基盤にして、心の奥底からの音楽や言葉のeducate(この原義は引き出すというもの)を実践されているようだ。

 この本が届いてから、ざっと読み通したが、ここには素晴らしい人たちの人生や語りが詰め込まれている。

 学ばせていただいた、感謝、感謝である。自分自身の至らなさも、教えられた。頑張らなければならない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「民主的医療」

2014-10-25 20:07:07 | 読書
 『現代思想』9月号は「医者の世界」が特集だ。テレ朝系列で「ドクターX」という番組があって、ボクもそれを見ている。今まで医者や医療についての関心はほとんどなかった。ただ、ハンセン病の問題を「差別」の視点から捉え、静岡県のハンセン病を歴史的に明らかにすることはしたいとずっと考えていて、一応それには着手はしているのだが、継続していない。

 さて巻頭は、大野更紗さんの文であるが、刺激を受けるような文ではなかった。もうボクは大野さんの本は読んでいるから。

 次の早川一光さんと立岩真也さんの対談は、とても興味深いものであった。早川さんは1924年生まれ、なかなかのご高齢であるが、医師として現役で活躍されている。
 早川さんは、戦争が終わって、「自治」に目ざめる。「セルフ・コントロ-ル、自ら治める、これはもう眩いばかりの輝きを僕らに放っていた」という。ここにも戦争直後の解放された気分がほとばしり出ている。こうした「感激」をもう一度確かめることが大切だと、ボクは考えている。

 早川さんは、「まず学生が自ら学ぼうという意欲が民主主義の第一歩であり、そういう意味での自治ができるということがデモクラシーの第一歩」であって、「民主主義者とは何かと言えば、参加すること、発言すること、それから情報を公開すること、閉じた部屋の中で閉じたことをするのではなく、みんながわかるところでわかるようなものをすること。そのかわりみんなはこれに向かって意見を言うからそれを聞く耳を持つということ」と語る。戦後の民主主義は、こういう精神で開始されたのだ。

 このような視点で医療活動に従事する早川さんは、「健康を守るにしても、「自分の身体は自分で守る」という自主の考え方を、どれだけたくさんの人たちに持たせるかということが、福祉、保健、疫学である」という。民主主義に不可欠の自主、自律が必要であるという。早川さんは、「ナトゥーラ・サナート、メディクス・クラート」、「自然が治すのであって、医者はそれを下から支えるだけ」、それが「医療」なんだという考えをもっておられる。

 その考えは、対談の中で各所に表現されている。「医療」というものをとても謙虚に把握されている。

 「治らない、治せない、ではどうするかといったら、一緒に泣こうよ、一緒に語ろうよ、一緒に悩もうよ、つねにあなたの側にいるよ、と、住民と一緒に歩いて行くことしか僕らにはできないのではないか」

 そして「とことんまで生きること」を提唱する。民衆と共にある医療活動はどうあるべきかをずっと考え続けてきた早川さん。

 ここに引用しなかったが、何カ所かでなるほどと教えられたところがあった。

 ボクは、医療従事者をうらやましく思ったことがあった。仕事そのものが、即自的に人のためになるからだ。しかしボクは医者になろうなんて少しも考えたことがない。ちょっと血が出たりするだけで、もうボクはふつうじゃなくなってしまうからだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本が来た

2014-10-24 22:42:52 | 読書
 大野更紗さんが推薦していた『病院の世紀の理論』(有斐閣)がきた。その価格は、4000円+悪税。ボクはひとが推薦した本をよく読む。その人が本を読んで知ったことを知りたくなる。大野さんが知ったことを、僕も知りたいというわけだ。この本は図書館にはなかったので仕方がないから購入した。医学史というか医療の歴史の本である。

 もう一冊は、井筒俊彦『イスラーム文化』(岩波文庫)。ボクはほとんどイスラームを知らない。現在のイスラーム圏の混乱はアメリカをはじめとした欧米諸国が導き出したものではあるが、イスラーム文化を知ることはとても大切なことだと思う。井筒氏は、イスラーム思想の権威である。

 昨日オタワでテロ事件が起きた。ボクもカナダ・オタワに行ったことがある。友人のカナダ人がオタワに住んでいたので訪問したのである。彼の父はオタワの市議会議員、自然保護運動をしている。
 ついでにケベック、モントリオールにも行ったが、カナダは自然が豊かでとても落ち着いた地域であった。そういうところでテロ事件が起きた。

 世界は危険な時代に入っているように思う。エボラ、テロ・・・・経済生活の不安定を含めて、不安の色が濃くなっている。

 エボラの場合は、アフリカのなかで抑え込むこと、テロはイスラエル・パレスチナ問題を解決すること、そして新自由主義経済学を乗り越える学説が力を持つこと、いずれにしても人々が目的意識的に動き回ることが肝要だ。そうした動きにどれだけ力を添えることができるか。とりあえず、「国境なき医師団」にカネを送ろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】立花隆『天皇と東大』全四巻(文春文庫)

2014-10-22 20:59:02 | 読書
 立花隆は「あとがき」で、「いまの若い世代は驚くほど、歴史を知らない。とりわけ近現代史の現代に近い部分がポッカリ穴が開いている。」と記している。

 高校生の時、ボクが学んだ「日本史」は、第一次世界大戦で終わった。「それ以後は自分でやっておけ」というようなことを言われた記憶がある。だから学校で「昭和戦前史」を学んだことはない。とはいっても、「歴史を知らない」と言われたことはない。
 ボクらの世代は、岩波新書を読むのが当たり前であった。だから遠山茂樹らの『昭和史』など、「昭和戦前史」などは自ら読んでいた。

 高校などの学校教育で教えられたから歴史を知る、ということではなく、自主的に本を読んだりすることがなくなったから、「歴史を知らない」のではないか。

 こういうことを言っていても仕方がない。とくに1930年代の歴史はしっかり知っておく必要があると思う。

 この『天皇と東大』は、問題意識があんがい鮮明なので、「昭和戦前史」を学ぶにはよいテキストとなると思う。特に第三巻はよかった。

 現在、1930年代に学問の自由を攻撃し続けた蓑田胸喜のような人物が増えているようだ。蓑田は「原理日本」で騒ぎ、権力にたれ込み、「右翼」を動員して、学問の自由や東大のリベラリストを攻撃し続けた。その結果、蓑田の主張が大きな力を発揮するようになり、歴史を大きく右旋回させた。その行き着く先に1945年の敗戦があった。

 同じ歴史を繰り返させてはならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井正一のことば

2014-10-20 20:40:56 | 読書
 山代巴の『私の学んだこと』のなかに、中井から教えられたことばがあった。それが感動的なので紹介しておく。

 あの山の稜線は、静止しているように見えるだろう。でも闘っているんだよ。大気と大地との闘いの最前線なんだよ。君たち山へ登って分水嶺に立ったとき、そこは雨に叩かれると土砂になって、少しずつ流れていることを知るだろう。われわれの日々も歴史を知り、歴史の進歩にかかわって生きている限り、外からは何もしていないように見えても、常に闘っているんだよ。今日われわれは何ほどかのことをしてきたが、それはあの山の稜線が雨に打たれて土砂に変わるための一滴の変化はもたらしている、こういう、一滴、一滴の行為が積み重なって、平和と民主主義の歴史は前進するんだよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

もう一度、「かいほうかん」

2014-10-20 20:07:03 | 読書
 今日、4冊の本が届いた。しかし今はその本を読むのは待とう。

 今、『天皇と東大』第四巻を読んでいる。戦争へと進んでいる1930年代から40年代初めの歴史である。暗い野蛮な時代である。

 同時にボクは、山代巴の『私の学んだこと』(径書房)を読んでいる。こちらは、戦争が終わり、人々もふたつの「かいほうかん」(開放感、解放感)に包まれながら、地域で新しい民主的な社会をつくろうという清新な時代が描かれている。大正デモクラシーの匂いをかいだ教員、天皇制ファシズムに抵抗した中井正一などから、新しい知識を学び、議論し、活動する。特高の抑圧がなくなり、人々が自由に動き回る。

 こういう時代があったということが、忘れられている、と思う。

 来年は、戦後70年である。戦争を振り返るのもいい、しかし戦争が終わったばかりの「かいほうかん」の時代がどういう時代であったのかを描くのも大切ではないか。

 戦争が終わったとき、全国各地はこの「かいほうかん」に覆われたはずだ。この「かいほうかん」をもう一度想起しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする