浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】赤石千衣子『ひとり親家庭』(岩波新書)

2014-04-30 00:11:27 | 読書
 おそらく母子家庭や父子家庭の生活についての関心は、体験者しかないだろうと思う。昨日も記したが、ボクも母子家庭の出身である。だからボクは、こういう問題にはとても強い関心をもつ。

 子どもの頃は「鍵っ子」だった。学校から家に帰ると、カギを開けて入る。いつもボクはカギを持っていた。

 母親の帰りが遅いときもあった。そのとき、近所のおばあさんが母が帰宅するまでいてくれた。

 母が公務員であったから、ボクは生きてこられたという認識を持っている。公務員は、年齢とともに昇給があった。また高度経済成長の時代のなかでボクは成長したのだが、親の給与も、経済成長率のあとを追って伸びていった時代であった。
 だからといって、豊かな生活ではなかった。でも当時は、今のようにお金があっても「もの」がなかったから、経済的な格差は表には出てこなかったように思う。また家の周囲も田畑がひろがるところであり、農家も贅沢な暮らしをしていなかった。だからカネがなくても、格差を実感しないで生きてこられたのだと思う。

 今は、格差がはっきりと見えるから、貧しい家庭、とりわけひとり親家庭は大変だと思うし、子どもを育てていくことの困難さは、昔の比ではないと思う。

 ボクはこういう問題を考えるときに、いつも「底辺の視座」ということを思う。これについてボクはいつも話してきた。社会は、底辺からみるととてもよく見える、と。解決策も同じだ。底辺に生きざるをえない人々が幸せになる社会こそが、みんなが幸せになることができるのだ。豊かな人たちにではなく、困難を抱えている人たち、経済的、時間的に厳しいなかで子どもを育てているひとり親家庭、こういう人たちに安心できる環境を整えることこそが、必要なのだ。

 この本には、具体的な提案がたくさんある。こういう提案がどんどん実現されていけば、社会も安定していくだろう。

 民生委員時代、「ひとり親家庭」を訪問したが、すべての母親の顔は疲労の色を濃くしていた。たいへんだろうなと思いながらも、決められたことしかしてあげなかったが、今もしっかりと生きているだろうか。

 現在の政府の政策は、格差をより拡大しようとする方向に動いている。しかし、それを人々は押しとどめようとはしていない。選挙結果がそれを物語る。

 困難の原因を考えるためには、社会科学的な思考が必要だ。日本人は、それが弱い。だから改善されないのだ。いつも少数の人が苦しい中で運動をして、何とか悪化にブレーキをかけることができている。だが、現状を見ると、もうぎりぎりだ。

 本の帯には、「これ以上、がんばれない・・・」だけが記されている。こういう現実は変えなければならない。

 是非読んで欲しい。

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ひとり親家庭

2014-04-29 17:51:24 | 読書
 今日、3冊の本が届いた。『ひとり親家庭』(岩波新書)、『ハンナ・アーレント』(中公新書)、柳沢協二『亡国の安保政策』(岩波書店)である。そのうち『ひとり親家庭』を読み出した。

 数日前、NHKでシングルマザーの生活についてのドキュメントが放映された。それを見たところ、宮本太郎中央大学教授がコメンテーターとしてでていたが、具体的な事例が映され、そのあとに宮本が何かを話すというパターンであるが、宮本のコメントがあまりに抽象的で、聞いていて「この野郎!」と思った。生活に困窮しているほんとうに具体的な事例、それに対する抽象的なコメント。

 宮本太郎の父親は、宮本顕治。共産党の最高幹部であった人だ。ごりごりの共産主義者で、この人の指導により、良心的な人々がどれほど党外に放逐されてきたことか。

 その息子の太郎は、今や政府の「社会保障政策」のアドバイザーとなっている。親子で、民衆の運動や生活を阻害してきたわけである。

 この番組について、よいものがあったので下記にアドレスを紹介する。

http://ameblo.jp/kokkoippan/entry-11835944779.html
 

 さて、この本のなかに、こういう記述があった。

 1990年代半ばまで、シングルマザーにとって安定した職場は、小学校や保育所の給食調理員や用務員だった。

 ところが、こういう職場は今や外部委託。民間企業による、低賃金の職場となっている。


 ボクも母子家庭で育った。2歳の時に父が病死し、そのあと、婚姻前まで小学校の教員をしていた母は公立幼稚園の教諭となって、姉とボクを育てた。母が一応の学歴をもち、また公務員であったから、ボクらは大学まで進学することができた。

 しかし今、公務員の職場はどんどん狭くなり、シングルマザーが子育てをしながら安定した生活を可能とする職場は今やほとんどない。

 ボクとしては、心が痛む。

 宮本太郎は、共産党からたくさんの報酬がわたされ、何の不自由もなく育てられたのだろう。だから、シングルマザーの苦境なんか想像もできないのだ。

 この本、『ひとり親家庭』を書いたのは、赤石千衣子さん。自らもシングルマザーであった人だ。

 実際多くの人々は、両親がいて経済的に安定した生活をしているのだろう。だからシングルマザーの大変さなんかわからない。しかし、こういう現実を知ることが大切だ。そしてその苦しみを想像して欲しいと思う。

 その想像力が、政策に対する怒りや、宮本太郎のコメントに憤りを生み出すことができるのだ。

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【本】辺見庸『抵抗論』(毎日新聞社)

2014-04-27 19:51:37 | 読書
 いつもいつも鋭い切り口で、現在を斬る。

 もっとも刺激を受けたのは、「メディアはなぜ戦争を支えるのか」。当時の新聞労連委員長の明珍さん(毎日新聞社)の質問に、きちんと対応しないで、自らの言いたいことをどんどん主張していく様に、驚きとともに、明珍さんに同情しつつ、辺見さんの怒りの程度を感じてしまった。おそらくその怒りを明珍さんは受け止めてくれるだろうという期待による主張であると思った。

 ここで紹介された、『沈黙の螺旋階段』『意識産業』、『幻影の時代』を読んでみたいと思った。『沈黙の・・・』はかなり高額の本。どうしようか迷っている。

 印象に残る文は、最後の「危機の認識と抵抗のありようについて」である。辺見さんの中学時代の先生による「思え!!」という一喝は効果的であると思った。今は何も思わない、考えないで、タダ時流に流されるままに生きている人が多いようであるが故に、「思え!!」は貴重なアドバイスであると思う。

 また殺人についての比較についても、その通りだと思う。

 「組織的、系統的な大量殺戮は見た眼には犯罪に見えない。・・自爆テロは途方もない犯罪に見えてしまう」

 この「錯視」を強く指摘するのだ。

 そして「思え!」のあと、その思ったことを表現していくことが重要であると、結ぶ。

 良い本だ。刺激になるし、考えさせる。ボクは病床で横になりながら読んだが、時に居ずまいを正すことがあった。

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竹久夢二

2014-04-26 23:35:52 | 読書
 袖井林二郎『夢二 異国への旅』(ミネルヴァ書房)を読み終えた。ひろたまさき氏から夢二晩年の台湾旅行を記した「台湾の夢二ー最後の旅」という論文を送っていただいたのだが、その論文にこの本のことが記されていた。そこで古本で700円ということだったので購入したのである。実際は3000円である。届いた本は新刊本のようであった。

 ボクは夢二の絵が好きで、若い頃岡山で米騒動史研究会があったとき、タクシーをとばして「夢二郷土美術館」に行ったこともある。

http://yumeji-art-museum.com/

 夢二との出会いは、高校生の頃だったか、デパートで行われた展覧会をみたことだと記憶している。夢二の絵に描かれた女性たちの物憂げなやるせない姿が、ボクのこころに強い印象をもたらしたのだ。そのときに購入した絵はがき、そして岡山の「夢二郷土美術館」で購入した絵はがきの一部は今も持っている。


 さて夢二は、アメリカ西海岸、そしてヨーロッパへと旅に出る。夢二はある種の人格破綻者、カネがあればどんどんつかってしまい、いつもカネがない。しかし周りの人々に支えられながら、この大きな旅行を経験する。そして途轍もない女性好きである。

 だがだからといって、この旅行が夢二の絵にどういうプラスがあったのかはわからない。あまり描いていないからだ。すでに名声を得ていた夢二、どちらかというと落ち目になったあとに洋行したので、その成果が現れていないように思える。

 この本、旅行中に描いた絵が紹介され、また文筆家としても名高い夢二の文が、そこそこに引用されていて、なかなか読ませる本である。

 悲哀のためには青い絵の具、歓喜のためには黄色、信仰のためには緑色、純潔のためには白、愛のためには赤い絵の具を・・・

 希望を表す色はない、という。夢二には希望はなかったのか。

 またドイツで日本画について記したものも紹介されている。

 西洋画に於ては、光の中に物を見る。・・・日本画に於ては、心の中に物を見る。・・・・利休は「庭に花あれば、茶室に花を挿さず」と教える。全宇宙の中に唯一を求め、唯一の中に森羅万象を大観する手だてである。またこれは重複を避くる一の審美眼である・・・・

 ボクは夢二の絵を見てはいても、夢二の文や、夢二について書かれた伝記めいたものも読んだことはなかった。

 この本を読んで、いよいよ夢二が好きになった。

 東京にも、弥生美術館・夢二美術館がある。短時間だけど一度行ったことがある。そのとき一緒に行った人は、今頃どうしているのだろうか。

http://www.yayoi-yumeji-museum.jp/

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【本】必ず読むべき本

2014-04-20 20:59:20 | 読書
 現在の政治状況をまともにみつめるために必読の本を紹介する。

 まず『週刊金曜日』臨時増刊号。特集は「さらば独裁者」である。安倍政権をどうみるべきなのか、きちんとした眼を持つためには、必ず読むべきである。700円。

 斉藤貴男『戦争のできる国へー安倍政権の正体』(朝日新書)820円+悪税。

 『世界』5月号、特集は「集団的自衛権を問う」。岩波書店発行。800円+悪税。


 ボクはいつも言っている、知らなければ怒りは湧いてこない!と。そして知るべきことを知るためには、読んだり、聴いたり、見たりしなければならない。あたりまえのことだ。テレビのおバカ番組にうつつを抜かしている時間があったら、読みなさい。

 今は、歴史の転換点。どういう姿勢を示すのかが、問われている。
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社会学

2014-04-14 13:36:56 | 読書
 ボクは、「民俗学」は、いい加減な学問であるという認識を持っている。あることを主張する時、その根拠となるものが、きちんと証明されなくても、主張してしまうというのが「民俗学」だ。つまり、主張の根拠を問わない。根拠があやふやでも、それは許されてしまう。

 今日ボクは、大澤真幸の「明治ナショナリズム」という論文を読んだ。『近代日本のナショナリズム』(講談社)に所収されている。

 テーマは「ナショナリズムからウルトラナショナリズムへ」となっているが、読み進めていくと、この論文で大沢は何を論じようとしているのかよくわからなくなってきた。町田の住人がしばしば社会学はいい加減な学問だといっていたが、そうかも知れないと思い始めた。

 Aということを主張し、そのAを前提として「もしAが本当であれば・・・」として、次の論に進む。ではAが「本当」でなかったらどうするのか。自分で何ごとかを主張し、それが「もし本当なら・・」と仮定のまま宙ぶらりんにしたことを、今度はそれについて「なぜそう言えるのだろうか」とくる。

 論が緻密ではなく、難解な語句を多用することによって煙に巻くような書き方だ。書き殴っているような感じ。

 また大正期に「天皇なき国民」を措定し、田邊元や西田幾多郎を持ってくるかと思えば、マルクスはでてくる、フーコーは出てくる、保田與重郎も三木清も・・・・・。その引用の仕方は、彼ら思想家自身の思想全体を無視して、利用できるところをつまみ食いしていく。

 途中まではなるほどと思いながら読んでいたが、途中からボクは空中分解だ。思いつきをもとに、多くの思想家の言説を寄せ木細工のようにあつめて、外から見たら一定の像を結ぶように見せて、中に入るとまったく迷路、という文章。

 歴史学ではぜったいにやらない手法を用いて論を進める。融通無碍としかいいいようがない。

 図書館から借りた本。買わなくてよかった!!
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路面が揺れる

2014-04-13 17:43:28 | 読書
 若い頃、パレードではなく、デモに参加した。数万という人が、道を歩いた。あるときは走り、あるときは手をつないで道いっぱいに広がって歩く・・・

 そのとき、ボクは、ふと足元を注目した。道路が揺れ動いている。たくさんの、たくさんの人々が、この道路を力を込めて歩く、だから、揺れる、動く。

 地響き?

 社会が変わるときは、おそらくもっと大きな地響きが聞こえるだろうと思いながら、そのとき、ボクは歩いた。パレードではなく、あれはデモだった。


 今週号の『週刊金曜日』、辺見庸と佐高信の対談。辺見のことばは、重く、ボクのこころにズシッとくる。

 辺見は、「いまは人間が侮辱される時代になっている」という。人々はそれを自覚できない、と。そうだなと思う。こんなにも人権が侵害され、人間扱いされなくても、人はそれに耐えながら生きている。そうしながら生きることがあたりまえ、というように。

 そして人々の間には、短く平板な、わかりやすい「構文」が飛び交っている。それを辺見は「ファシズムの基本形」だという。

 魯迅の時代の知識人のほうが、思索に深度がある、人間観察の深さがあるという。そうだろうなと、ボクも思う。今、テレビメディアで交わされていることばは、軽く、浅く、すぐに消えて亡くなってしまう。一瞬の笑いだけがある。風刺も何もない、ただの笑い。

 スマートフォンをボクは持っていないが、持つつもりもないが、それを辺見は、「貧困ビジネス」だという。そういう視点を持っていなかった。確かに、貧しい若者でも、職がなくきちんとした収入がなくても、スマートフォンやケータイを持っている。

 「戦後民主主義の実質とは何だったのか」と、辺見は言う。ボクも、「戦後民主主義」は、日本社会に組み込まれなかった、ただ形式的にことばだけがあっただけではなかったか、と思うようになっている。でなと、こんな簡単に、民主主義や人権が軽視され踏みにじられる時代は来ることはなかっただろう、と思う。

 「人は弱いから群れるんじゃなくて、群れるから弱い」と竹中労がいっていたそのことばを、辺見は引く。そうだなと、これにも同意する。

 とは言いつつ、ボクは群れては来なかったなあと振り返る。組合でも、いつも非主流であったし、組合から無視されたこともあったと。

 この対談で、辺見は自らの『抵抗論』(毎日新聞社)を引く。

 早速図書館から借りだして読み始めた。最初が、デモの際の路面の揺れについて書いた文だった。それを読みながら、若い頃を思い出した。

 そう、デモの時、路面は揺れていた、と。

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【本】中島岳志『血盟団事件』(文藝春秋)

2014-04-11 19:37:18 | 読書
 中島岳志の本ははじめて読んだ。なかなか良い本である。よく調べている。といっても、血盟団員の「公判記録」を主な資料としているから、文献の渉猟にはあまり困らなかったのではないかと思う。問題は、それらの公判記録に記されている事実や彼らの「思い」をどのように整理し、構成していくかである。それがうまくいっているから、読み進めることができたといえよう。

 学ぶことができたことを、箇条書きで記しておく。

 血盟団員の多くは、煩悶青年であったということである。自らの生の行方と、彼らが生きた時期と場所、そこは吹き荒れる貧困と格差社会があった。正義感を抱いた青年が、何を考えたか、そしてどう行動しようとしたかが、よくわかる。

 その彼らの信条として、日蓮宗があった。この時代の、いわゆる「右翼」や「国家改造」を志向する人々は、その多くが日蓮宗に帰依していた。なぜか。

 彼らの思い込みは、しかし、空回りに終わらざるをえなかった。天皇と民衆の間に、「君側の奸」が存在し、彼らが諸悪の根源であり、彼らを芟除すれば問題は解決するというのは、当たり前だが幻想である。国家機構を科学的に認識せずに、きわめて主観的に捉えている。

 権藤成卿の思想は、共産主義的であることがわかった。

 日本神話-国学ー天皇制イデオロギーという思想的連関は、血盟団の思想の中に大きな位置を占めていない。日本神話-国学ー天皇制イデオロギーという連関は、体制的なものであることが想像できる。

以上
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【本】ケネス・B・パイル『欧化と国粋』(講談社学術文庫)

2014-04-10 20:19:18 | 読書
 幕末から怒濤のように「西洋」が流入してきた。その「西洋」をどう捉えるか。明治の青年たちの煩悶が始まった。

 徳富蘇峰のように、あらゆる分野で「西洋」に溶け込むか、あるいは陸羯南や三宅雪嶺のように、「日本的なるもの」をもちながら、「西洋」に是々非々で対応していくか。

 民友社と政教社とを対応させながら、その時期の知識人たちの思考を跡づけていく。そして1890年代以降、蘇峰は「変節」し、陸らの主張も一時期の勢いをなくしていく。

 そしてその後に、偏狭な国家主義が力を持ち、席巻していくようになる。その経過を、様々な論説をもとにして明らかにしていく。

 「日本人は何を誇ればよいのか」という煩悶。

 21世紀の現代日本、同じような空気がでてきていると思う。同じような気持ちを持った人たちが右往左往しているのかもしれない。その気持ちが、排外主義に傾きかけているのか・・・・?



 
 
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【本】大塚ひかり『本当はひどかった昔の日本』(新潮社)

2014-04-10 19:45:48 | 読書
 この人の『源氏物語』を読んだことがある。そのうたい文句に惹かれて読んだのだが、あまりたいしたことはなかった。

 さてこの本は、面白い。古典文学については、高校の教科書程度の知識しかない、だから読んでいくと、へえ~、というところが多くある。

 育児放棄、子どもを捨てさせる村人、子どもの虐待、妊婦いじめ、動物虐待、美人が優遇される社会、カネまみれの世の中。

 まあ、現在と変わらない姿が、昔にもあったということである。

 この本を購入した理由は、本居宣長が『古事記』を真実の書として認識しているようなので、『古事記』に記されていることは、すべて肯定すべきではないこと、ひどいことも書かれていることを示すためであった。ボクはずっと昔『古事記』を読んだことがあるが、国学を学ぶにあたって読む必要に迫られている。だが、読む気がしない。そのための次善の策として読んだのだ。

 町田の住人のために、少し紹介しておこう。

 第14章は、「究極の見た目社会だった平安中期」。いつの時代も美人はトク、ということだ。だがたとえ美人だったとしても、平安期の女性の顔を美人だとは思えないから、あまり興味はないなあ。

 美人に生まれた女性は、前世によいことをしたからだそうだ。男はどうなのだろうか。
ボクは現世はだめだったから、来世に期待をもって、よいことをしようと思うが、町田の住人はいかがだろうか。
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【本】池上正樹・加藤順子『石巻市立大川小学校「事故検証委員会」を検証する」(ポプラ社)

2014-04-06 17:01:28 | 読書


 上の写真は、昨年4月はじめ訪れたときに撮影したものだ。その日は雪交じりの冷たい雨が降っていたが、大川小学校に着くと雨は止んだ。3月11日、子ども74名を呑み込んだあの津波に襲われた校舎が佇んでいた。重い、重い雲が、校舎の上にのしかかっていた。そこを訪れる人々はその重みに押しつぶされそうになりながら、現場を凝視した。

 現場の「時」は、津波が襲来した15時37分で止まっていた。その後の「時」を刻ませないという決意を、校舎は示していた。それは津波に呑まれた子どもたちの意志でもある。

 「なぜ50分間も校庭にとどまっていたのか」、「校舎の裏に山があるのに、なぜそこに逃げなかったのか」
 これは遺族が抱く当然の疑問であると同時に、津波に呑まれた子どもたちの疑問でもあった。

 「山に逃げよう」という声はあった。しかしその声は通らなかった。いたずらに50分を刻み、そして危険な北上川の土手に向かって歩を進めていたそのときに、津波は子どもたちを呑み込んでいったのだ。

 ボクは、この疑問の答えについて、何度か書いてきた。

 この日、校長は不在であった。避難についてなかなか結論がでなかった原因の一つは、この校長の不在であったのではないかと思う。現在の学校現場は、上意下達の場となっている。そういう場では、トップ以外なかなか決定ができない。「オレが責任を取る、山に登ろう」という声が、教頭あたりからでていたら、皆助かったかも知れない。

 現在の学校では、個々の教員は、管理・指示される対象であって、自主的な行動や教育は許されなくなっている。特に義務教育学校ではそうなっている。

 大阪や東京などでは、入学式・卒業式に教員が「君が代」を歌っているかどうかチェックされるような状態だ。このように、いわゆる「管理教育」は、全国各地で確立しつつあるのだ。

 そういう状態に置かれている教員たちは、自らこうしたい、こうする、という決定をくだせない。とくに自分が直接関わっている子どもたちだけではなく、学校全体に関わることについては、「上」からの指示によりはじめて動くことができるのだ。

 「どうしましょう」、「山に逃げましょうか」、「子どもがケガをするかも知れない」、「どうしましょうか」・・・・・・という会話が延々と続けられたのではないか。

 現在の学校で、こうした場合の決定権を持っているのは校長だ。良い結果を得られないような決定を下した後に責任を追及されたくない、だから、決定しない。決定しないまま、だらだらと時間をつぶしていたのだ。

 こうした学校の構造は、戦後民主教育を破壊してきた文部科学省がじっくりと築き上げてきたものだ。もちろん、そういう構造が出来ていたからといって、すべての学校が大川小学校のような悲劇に見舞われたわけではない。そこには大川小学校の独自の問題があったのかもしれない。

 この多くの子どもたたちが犠牲になったのは、なぜか。それを明らかにするために「事故検証委員会」が設置された。しかし、先の疑問は解明されなかった。

 委員会の方向は、事故を教訓化しての「展望」を打ち出すことが目的だったようだ。この検証に費やされたカネは5700万円。だが、本書に記された「展望」は、こうした委員会をつくらなくてもよいようなものであった。誰でも考えつくようなものが、最終報告書としてまとめあげられた。

 遺族たちの、そしてボク自身も抱いた疑問には、何もこたえない代物であった。本書も、その点を問題としている。しかしボクは思う。

 本書の内容は「ダイヤモンドオンライン」でほとんど読むことができるが、問題がありすぎる。まずこの委員会の問題。これは行政がよくやる、コンサルタント会社への丸投げそのものであった。委員を委嘱しても、文はすべてコンサルがまとめる。おそらくコンサル会社が書いた原稿に対して、委員が若干の意見をいう、それをコンサル会社が一定反映させて報告書をつくる、というものであろう。こういうコンサルへの丸投げの状態をみると、石巻市や県、文科省は真剣にこの問題に取り組むつもりはなく、形式的にことを終わらせようという姿勢ではなかったのかと思わざるをえない。

 この津波の中、生き残った子どももいた。そしてただひとり、教員も助かった。その教員は、しかし現場を語らない。そしてその日休暇をとっていた校長は、16日に市教育委員会へ登庁し、翌日現場へ行った。

 この本を読むと、遺族たちの思い、それは犠牲になったこどもたちの思いでもあるだろうが、検証委員会も、市教委も文科相も、ほとんど顧慮していないようだ。

 ボクは、「本来、責任とは痛みの共有だと思うんです」という水俣病患者の緒方さんのことばを思い出す。事故は、学校管理下でおきた。通常、学校の管理責任の最高責任者は校長であるから、その場にいなかったからといって校長が免責されるものでもなく、また同時に教育委員会も免責されるものではない(したがって石巻市の市長も)。

 何をどうしたって校長や教育委員会は責任を免れることはない。だからこそ、「痛みの共有」としての責任をはたすべきであった。しかし、果たさなかった。

 いずれ、裁判が開始される。遺族や犠牲になった子どもたちの「なぜ?」は、まったく答えられていないからだ。


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スチュアート・ホール

2014-04-05 17:17:05 | 読書
 スチュアート・ホールという人を知らなかった。『現代思想』の臨時増刊号、これが最近よく出版される、直近のそれはこのスチュアート・ホールを特集している。書店に行って確認して、これは読まなければならないと思い購入した。もちろんすべて読み終えたわけではない。しかしスチュアート・ホール、なかなか刺激的な思想家であることは確かだ。

 巻頭に上野俊哉ら3人の座談会がある。彼らは3人とも、ニューリベ(新自由主義)に批判的な姿勢をもっているようだ。だがここで論議されていることが、一般の人々には届かない。現在、安倍首相はじめ、安倍政権は「反知性主義」者で固まっているが、それは安倍を支持する者たちも同様だ。

 だがしかし、スチュアート・ホールを読むと、そういうことを言うだけでは何も始まらないことがよくわかる。

 スチュアート・ホールは、「パブリック・インテレクチュアルズ」と言われていた。パブリックとともにデモにでて、どんなものにも書き、パブリックの前で話し、語り合った。それはなぜか。

 ホールは、1970年代、「政治的転換」をした。人種差別主義者の保守党議員を支持する何千人という群衆がデモをしていた。「左翼の知識人」は、こういう人々に語りかけることばを持っていないことに気づいた。

 そのような政治的言説に対抗して、「どのようにを突きつけ、抵抗し、対抗的な力を打ち立てていくか」という作業を始めなければならなかったからだ。

 ホールは、「ア-ティクレイション」を主張する。articulation、つながりようもないものをつなぐ、「本来的に繫がりようのない inarculated なものを意図的に繋いでいく」という意味だ。

 これは現在の日本でこそ有効な考え方ではないか。

 まだ読み始めたところだから、まだまだ学べるものはでてくるだろう。それを今後も報告していきたい。

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「私たちは資本主義の奴隷になるべきではない」

2014-04-02 08:09:21 | 読書
 『現代思想』4月号は、現在の若者が置かれている困難な状況が記されている。久しぶりに、特集の論文その他をすべて読み終えた。その過程で誤植が多いことが判明したが、それは置いておこう。

 山口恵子の「「東京」に出ざるをえない若者たち」は、青森県の青年たちの労働と生活を記したものだ。一度も正社員にならず、職場を転々とする。「労働力流動化政策」により翻弄される若者たち。ハードな仕事、低賃金、放置される労災、「細切れ雇用」・・・・しかしそういう状況であっても、彼らの故郷や実家は、その困難を和らげてくれる。だが、親はなくなり、世代が変わり、実家が永続的にその支えとなるわけがない。実家が支えるという「日本型福祉」は、もうもたなくなっている。

 山口は、末尾に近いところでこう記す。

都市近郊部の労働者の外側に、より不利な条件で地方から(および海外から)の労働者が動員される。周縁化された労働者であればあるほど、政策や景気の変動がダイレクトに転嫁され、労働と生活の不安定化が加速していく。構造的な地域間格差のなかでの使い勝手のよい労働力のプール地としての周辺、という位置づけは再生産される続けているようにみえる。
 
 そして「私たちは資本主義の奴隷になるべきではない」が、文の末尾に記される。

 中西新太郎の「グローバル競争時代の能力論・人材養成論と内面統治の国家主義」も、若者たちの内面まで統治しようとする暴力的なあり方が示される。

 たとえば相互抑圧的な、個人個人の「共感動員」が強制される、「感動」の強制的共感。それを表現しているかどうかにより審判されるという現実。

 出口はあるのか、と叫び出したくなるほどだ。

 大串潤児の「歴史教科書問題考察の原点」は、もう一度家永教科書裁判の再検証を行うことを要請している。実はボクは、家永裁判の訴訟関係の本が、書棚に並んでいるのだ。歴史教育が、戦前並みに国民教化の手段とされようとしているとき、戦後の知的営為により獲得されてきた、ボクたちの地歩を確認するためにも。

 矢野眞和「教育家族の逆接」は、日本人の意識状態が示される。私立大学はとてもカネがかかる、それはボクは「不当」であると思っているのだが、国民はそれを「不当」とは思っていないようだ。「子どもの教育は親の責任」というイデオロギー。これがあまりに強固で、だからこそ、日本の教育が、OECD加盟国のなかで極端に私費が多い、という状況に国民は何ら疑問を持たないのである。

 いや、日本国民は、ほとんど、どんなことにも疑問を抱かずに生きていくのだ。

 そのほか、今月号は読ませる論文が多い。日本は、本当に山のように課題がある。それらの課題を、あきらめることなく、ひとつひとつ解決していく、そういう気概が求められている。

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【本】『現代思想』4月号は読むべきだ! 

2014-03-31 20:03:55 | 読書
 今日、7冊本が届いた。そのうちの一冊が『現代思想』4月号だ。

 読みはじめると、きわめて内容が濃い、そういう論文や座談会がいっぱいつまっている。
田舎でフツーの生活をしていると見えないもの、それが次々と提示されてくる。

 最初に読んだのが、杉田真衣「28になってしまいました」である。東京の「最低位校」の公立普通科高校を10年前に卒業したふたりの子ども(女性)の「その後」を追ったものである。その「子ども」も、現在28歳だ。いったいどう生きてきたのか、生きさせられてきたのか。

 卒業後、彼女たちは非正規の労働を転々とする。

 最近『週刊金曜日』(3・28号)の「竹信三恵子の経済私考」を読んだ。そのなかに、こういう記述があった。

 学力の高い男子は都会へ出ていき、残された男子は地元で低賃金の肉体系の仕事に従事する。一方、低学歴で容姿に恵まれた女子の多くは風俗産業に向かう。

 それに呼応するかのように、28歳になった彼女たちは、キャバクラにつとめている。それ以外の非正規労働にもつくが、いずれも低賃金であるため、キャバクラのような風俗産業と低賃金の非正規労働を行ったり来たり、あるいはかけもちで働いている。

 先日みたNHKの「クローズアップ現代」では、シングルマザーの最後に行き着くところは、託児所つきのフーゾク産業で、それが彼女たちの最後のセイフティネットだと報じていた。

 ボクはまだまだ、ほんとうの「現実」を知らないと思った。昨日、水俣病患者の緒方正人さんの「本来、責任とは痛みの共有だと思うんです」を引用した。ボクは、歴史を学ぶものとして、今ボクが生きている現実に「責任」がある、と以前書いたことがある。「責任」が「痛みの共有」であるなら、ボクはまだ共有していない。「現実」を知らないからだ。「現実」をもっともっと知ろうと思う。

 『現代思想』今月号の特集は「ブラック化する教育」である。教員になりたいといっているM君、この本は読んだほうがよい。教育の「現実」が赤裸々に記されている。この「現実」を前に、君はやはり教員となるのはやめようと思うのか、それともその「現実」に主体的に関わろうとするのか。ボクは、その回答を示すことができない。君が判断することだ。しかし「現実」は知っておいたほうがよいと思う。
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「哲学者」

2014-03-30 15:53:43 | 読書
 長谷川三千子という人が、どのような思想を持っているかを知るために、彼女の本を何冊か借りた。『民主主義とは何なのか』(文春新書)、『正義の喪失 反時代的考察』(PHP)。しかし読み通せない。まったく面白くないのだ。文体はねちっこい。いろいろ本は読んでいるようだが、その本をもとにしての彼女の思考は浅薄としかいいようがない。学ぶべきものがない。皆無だ。これは驚くべきことだ。

 この人は「哲学者」だという。東大の哲学科出身。何とあの作家・野上弥生子氏のお孫さんだという。

 それにしても、ひどい。「正義の喪失」という文は、戦争と正義、戦争責任について述べているのだが、こういう問題について何らかの主張をするためには、ある程度の知識が求められる。しかし彼女は、浅い知識で「論じて」いく。つまり本は読んでいるのだが、そのテーマに関する学びが足りない。足りないから浅い。

 次いでボクは『常世の舟を漕ぎて』(世織書房)という本を読んだ。緒方正人という不知火海で魚をとっている漁民だ。彼が語ったことを、辻信一さんがまとめたものだ。

 緒方さんは漁師の家に生まれた。中学校までしか出ていない。だが、彼が語ることば、ことばが、実に深いのだ。緒方さんこそ、「哲学者」であるとボクは思う。

 緒方さんの父は水俣病で亡くなった。緒方さん自身も水俣病だ。家族には胎児性水俣病の甥や姪がいる。

 1953年生まれの彼の人生は波瀾万丈である。家出し、やくざ=右翼団体に関わり、水俣病患者の闘いに先頭になって参加し・・・常に体当たりでぶつかっていく行動派であった。彼はその行動を経て、その後深い深い思索をする。その過程で「狂」的な状況になったこともある。まだ決して年寄りではない彼が、そうした人生を送ってきたなかで紡ぎ出されてきた思想は、強くボクの精神を撃つ。

 そのなかに「本来、責任とは痛みの共有だと思うんです」があった。水俣病の責任を、チッソや国、県などに追及していくのだが、そこにあるのは「構造的な責任」であって、そこに現れる人々はたとえ責任をとったとしても、その責任は「痛みを共有する」ものではなく、それはカネとなってしかあらわれてこない。

 緒方さんは、「責任」という問題を徹底的に突き詰めていく。人間存在そのものの責任であり、「人が人を人と思わなくなった時」に、水俣病の責任は発生する、と。

 緒方さんの母は、「イヲばとって、カライモ作って、それを食って生きとれば、それでよかたい」という。若い頃、そのことばに反抗していた緒方さんは、今はこう語る。

 「国家なんてものは切ってうしててよか、あげんとなかったちゃよか、ということです。そんなもんなしに俺たち人間は生きてきたんだし、これからも生きていくんです。生き物として、海や山や草木に向き合って。」
 
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