毎年某所で歴史講座の講師を務めている。これは8年くらい前にやったもので、欧米帝国主義と日本との関係を戦国時代から追ったものである。講座で話したことは膨大なので、少しずつ紹介していこうと思う。
まず「大航海時代のなかの戦国時代」をとりあげた理由は、以下の通りである。
19世紀にやってきた欧米との接触により日本は近代へと歩みはじめた。そのときすで
に欧米は、近代化を推し進め、「帝国」として非ヨーロッパ世界を支配するようになって
いた。なぜヨーロッパの覇権が成立したのか、というのが、ここでの問題意識である。
ヨーロッパがアジアへ進出してきたのは15世紀末。そして16世紀の半ばには日本にも
到達し、これにより全世界が一体化した。なぜヨーロッパはアジアへ進出してきたのか。
それにアジアはどう対応したのか。ここでは16世紀を検証する。
※貧しくて戦争で奪い合う欧米諸国は、豊かなアジアの物産を求めてはるばるやってきたのである。
2豊かなアジア・貧しく戦争する西欧
(1)豊かなアジアの状況
①インド洋の交易・・特産品の交易(物々交換)
○高級香辛料シナモン(セイロン島、インド北西部)、クロウヴ(丁字)(東南アジア・マルク諸島)、ナツメグ、メイス(東南アジア・バンダ諸島)、胡椒・生姜(南インド、スマトラ)、乳香(アラビア半島)、馬(アラビア半島、ペルシャ)、金・象牙(東アフリカ)、絹織物・絨毯(ペルシャ)、綿織物(インド)
そして東アジアの特産物(絹織物、陶磁器など)
○季節風→帆船(ダウ船)
10月末~翌年3月北東の風(インド亜大陸から東アフリカへ)
4月~9月半ば南西の風(東アフリカからインド亜大陸へ)
○異なった宗教を信じる多様なエスニック集団が共存し、相互に競争しながら行われる貿易(インド洋は「経済の海」・・インド洋沿岸の政治権力は海を支配しなかった)。
○主要港・・マラッカ(マレー半島)、カリカット(西南インド)、カンベイ(西北インド)、ホルムズ(ペルシャ湾)、アデン(紅海入口)、キルワ(東アフリカ)など
②東南アジアの交易(インド洋と相似。15世紀前半 鄭和の大航海→マラッカなどの朝貢)
③東アジア(中国を中心とした冊封体制「政治の海」)
○明帝国(1368~1644)朱元璋
冊封体制(「人臣ニ外交ナシ」)・勘合貿易+海禁政策
海禁政策(治下の民間商人の外国貿易を禁止。華人商人の私的貿易、外国渡航の禁止)
→後期倭寇(16世紀中心、中国沿岸地域と東シナ海沿岸地域の人々が主力。密貿易)
※明帝国が海を管理・支配し、外国貿易を独占しようとした。東シナ海は「政治の海」。
永楽帝の時代には、40カ国が朝貢(東アジア、東南アジア)←中国の物産に対する需要大。朝貢船の港=広州、寧波、泉州
○日中貿易 1523年寧波の乱以降10年に一度となる→私貿易(倭寇の活発化)
日本→明・・硫黄、銅、鎧兜、刀剣、蘇木(漢方薬に用いる生薬の一つ。マメ科スオウの心材(しんざい)を乾燥したもの。通経(つうけい)、止血、鎮痛などの作用がある)。
1530年代 銀(石見銀山朝鮮から灰吹き法伝来)中国の需要増大(銀中心の徴税システム=一条鞭法)
明→日本・・絹、陶磁器、銅銭
○琉球=中継貿易で栄える→16世紀半ばに衰える=ポルトガル、スペイン人、倭寇(=中国密貿易商)
※アジアには豊富な物産が存在し、それらが交易により各地に運ばれていた。倭寇はある種の海賊であるが、倭寇といっても日本列島の住人だけではなく、周辺の国々の民衆も加わった集団で、暴力的な行動が展開されていた。しかし国家が出て来て戦争状態になるということはなかった。あるとすれば、秀吉の朝鮮侵略だけであった。