浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

音楽座ミュージカル「ホーム」

2024-12-14 23:27:32 | 演劇

 演劇が好きだ。そしてミュージカルも。ミュージカルと言えば、音楽座である。まだまだ若い頃、音楽座のミュージカル「シャボン玉とんだ宇宙 (ソラ)までとんだ」「とってもゴースト」をみて、心から感動し、それ以来音楽座のファンになった。「マドモアゼル・モーツァル」「トリトルプリンス (星の王子さま)」なども見た。

 音楽座のミュージカルは、音楽座の創作である。音楽座のミュージカルをはじめて見たとき、ミュージカルの楽しさ、心の躍動を感じ、さらにそのなかからにじみ出る、生きるって素晴らしい、生きていこうという希望ということを感じさせてくれた。

 高校で演劇鑑賞の係をしていたとき、音楽座のミュージカルを見せたくて、2年がかりでお金をためて生徒に見せたことがある。その時見せたのは「とってもゴースト」であった。高校単独での公演は無理であったが、それを何とかして上演にこぎつけた。

 それ以降、わたしのところに音楽座のレターが送られてきていた(係を外れてからかなり経って来なくなったが)。音楽座が近くに来たら必ず見に行った。それだけ、音楽座のミュージカルは素晴らしいと思ったからだ。

 明日15日23時59分まで、このミュージカルを自由に見ることができるとのこと。ぜひ多くの方に見てもらいたい。これが日本のミュージカルだ、ということを知ってもらいたい。

 見られるのは「ホーム」である。筋の展開に、劇的な変化をもとめたせいか、この展開はどうも・・・・というところもあるが、全体として、さすが音楽座!!!というミュージカルである。

 音楽座というミュージカル劇団があること、そして音楽座がこういう素敵なミュージカルを上演しているということをぜひ知ってもらいたくて、ここに紹介する。明日15日の23時59分まで、である。2時間31分の大作である。

 音楽座ミュージカル 「ホーム」

 

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裁判のこと

2024-12-13 19:57:12 | 

 昨日届いた『週刊金曜日』(12月13日号)には、裁判所に関する記事が多かった。東京高裁の白石哲、東京地裁の村主隆行、東京高裁の相澤真木、これらの裁判長が、白石哲がすべきことをせずに(違法である)結審させたことを、村主、相澤の両裁判長もその不始末(違法)を追認したことが記されている。裁判長が違法なことを次々と追認するという、裁判所の無能ぶりを記していた。手続き法を踏みにじった行為が平然と行われたことに、わたしも呆れかえった。

 全国の医師、歯科医師による「マイナンバーカードを使った健康保険のオンライン資格確認を義務づけられるのは違法」だとして、東京地裁に訴えたのだが、裁判長・岡田幸人が請求棄却した。この訴訟は、当然原告が勝訴すると思っていたのだが。

 裁判所の位置が、行政の追認組織となっていることは、もうふつうのことになっているように思う。1970年代、極右の石田和外が最高裁の長官になってから、裁判機構をひどく右傾化させ、強権的に司法の独立を奪った。それ以降、裁判所の右傾化が続き、裁判所の本来の役割が失われていった。

 そしてそのなかでも、数少ない良心的な裁判官、上昇志向をもたない裁判官がいた。それが、西川伸一の「政治時評」で紹介した、もと裁判官・木谷明であった。

 残念ながら、どこの組織でも同じだが、良心的なそういう人間は少ない。しかし、そういうマイノリティがわたしたちの道行きを照らすのだ。

 

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日本被団協のノーベル平和賞受賞

2024-12-12 12:03:57 | 近現代史

 ノーベル平和賞を受賞した日本被団協代表の演説を聴いていたら、自然に涙がでてきた。

「核兵器は一発たりとも持ってはいけない 被爆者の心からの願い」ノーベル平和賞「日本被団協」

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【本】ハン・ガン『別れを告げない』(白水社)

2024-12-12 08:54:49 | 

 この本は、もう二日前には読み終えていた。しかしなかなか読後の気持ちを書こうとは思わなかった。

 わたしがこの本を読むなかで、何度も活字を追うのを止めて空を見つめることがしばしばであった。それだけではなく、読みはじめると、異次元の世界に入り込んだような気持ちになってしまい、現実の日常生活と『別れを告げない』の作品世界との間に、大きな懸隔があることにきづいた。何度も立ち止まり、立ち止まりつつ、やっと読み終えた。

 1948年韓国済州島では、あらんかぎりの暴虐が吹き荒れた。アメリカ軍、李承晩政権、軍隊、警察、そして右翼青年たち。国家のお墨付きを得た者たちが、次々と残酷な死を多くの人びとに強いた。

 きょうの新聞に、作者のハン・ガンのノーベル賞受賞記念講演で語られたことが記されていた。そこには、「私と肩を寄せ合いながら立っているこの人たちも、通りの向こう側の人たちも、一人一人が独自の「私」として生きている」と書かれていた。ハン・ガンらしい指摘である。

 たくさんの人びとが虐殺されるとき、それは数で表される。どこでも同じである。しかし、そこで表された数だけ、「私」があったのである。

 おそらくハン・ガンであろうこの小説の主人公キョンハは、友人のインソンとともに、済州島で虐殺された「私」を探っていく。インソンの母は、あの虐殺のまっただなかにいて、多くの血縁者、地域の人びとを殺された。インソンの母は、連行されていった兄の行方を探索していた。しかしインソンは、母が亡くなるまでそれを知らなかった。

 母も、兄もその他の人びとは、すでにこの世にはない。ならば、その「人びと」の「私」を知るためには、死後の世界に入りこむしかない。もちろん、生きている者が死の世界に入り込むことはできない、生と死のすれすれのところで、インソンもキョンハも母の行動をたどる。残された資料には、「私」に関する事項は残されている。しかし、それは「私」ではない。「私」には、怒り、悲しみ、歓びなどの感情がある。しかし資料には、「私」の感情は記されていない。母という「私」がどのように、人びとの死をたどったか、その足跡も記されていない。

 ならば、生きている者たちは、「私」を、どうして生の世界だけで知ることができよう。

 ハン・ガンは、「窮極の愛についての小説」を書いたという。愛情をもつ「私」が、亡くなった者たちの、同じく愛情を持つ「私」を掴み取るのである。掴み取らなければ、さまざまな感情を抱き、その感情を表していた亡くなった者たちの「私」は、わからないではないか。

 人間は、愛の対象でもあり、愛の主体でもある。しかしその人間が亡くなるということは、愛する、愛されるという主体・客体が同時に消えていくということである。愛によって結ばれていた人間の関係が、断たれること、それが死なのだ。

 その死が、突然、何者かの暴力によってやってくる。暴力は、人間を死に至らしめるだけではなく、愛によって結ばれていた無数の人間関係をも断つ。

 ハン・ガンは、そうした人間の死、そしてその死によって断たれた関係を、それぞれの心理の奥深くまで、静かに静かにさぐっていく。その先にあるのは、おそらく人間をつなぐ愛なのであろう。

 この小説の色は、黒と白と赤である。赤は、血の色だ。黒は木々であり、殺された人びとである。そして白は雪である。雪は、色を隠していくが、同時に、生きる者を包むものでもある。

 ハン・ガンは先のノーベル賞受賞記念の講演で、「文学を読み、書くという営みは、同じく必然的に、生を破壊する全ての行為に真っ向から対立するということです。この文学賞を受賞する意味を、暴力に真っ向から立ち向かう皆さんと分かち合いたい」と語る。

 暴力が吹き荒れる現在の世界で、「生を破壊する全ての行為に真っ向から対立する」ハン・ガンが受賞した意味は大きい。被団協のノーベル平和賞受賞と共に、その意味は大きい。

 ハン・ガンの小説は、続けて二度読まなければならない深みをもつ。もう一度、わたしも読み直さなければならない。

 なお、訳者あとがきに、1948年に済州島で起きた事件の内容が、記されている。この事件は、日本にも影響をもたらした。済州島から日本に逃れてきた人びともいた。作家の金時鐘らがそうである。

 ちなみに、この事件の背景には、日本の植民地支配があったことを認識しておかなければならない。

 

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「平成」を振り返る(6)

2024-12-11 20:40:51 | 近現代史

 先に、「何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落」したことを指摘した。そのなかで、虚偽がはびこり、「無知」の「無恥」が幅をきかすようになった。

〇安倍晋三~青木理『安倍三代』(朝日文庫)をもとに考える
安倍晋三は、成蹊大学法学部政治学科卒業

▲「可もなく不可もなく、どこまでも凡庸で何の変哲もないおぼっちゃま」(225)

▲ ゼミ担当教授=成蹊大学法学部・佐藤竺(あつし) 地方自治制度などの研究者
「(ゼミで)そもそも発言したのを聞いた記憶がないんですから。他のゼミ生に聞いても、みんな知らないって言うんです。彼が卒業論文に何を書いたかも「覚えていない」って佐藤先生がおっしゃっていました。「立派なやつ(卒論)は今も大切に保管してあるが、薄っぺらなのは成蹊を辞める時にすべて処分してしまった。彼の卒論は、保存してる中には含まれていない」」(255)

▲学歴詐称 「1997年成蹊大学法学部政治学科卒業、引き続いて南カリフォルニア大学政治学科に2年間留学」

▲神戸製鋼時代の安倍の上司・矢野信治(同社、もと副社長)「彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じませんでした。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います。・・・・(政界入り後)に周りに感化されたんでしょう。まるで子犬が狼の子と群れているうち、あんな風になってしまった。僕はそう思っています」(281~2)

▲宇野重昭・もと成蹊大学学長(国際政治学)「・・彼を取り巻いているいろいろな人々、ブレーン、その中には私が知っている人もいますが、保守政党の中に入って右寄りの友人や側近、ブレーンがどんどん出来ていったのも大きかったのでしょう。彼の場合、気の合った仲間をつくり、その仲間内では親しくするけれど、仲間内でまとまってしまう。情念の同じ人とは通じ合うけれど、その結果、ある意味で孤立していると思います。・・・・彼ら(自民党)の保守は「なんとなく保守」で、ナショナリズムばかりを押し出しますが、現代日本にあるべき保守とは何か。民衆は生活のことを第一に考える穏健の保守を望んでいる層が大半でしょう。自民党がもっとまともな保守に戻って、そうした民衆の想いを引っ張っていってほしい。」(302~305)

▲2013年3月29日(問)「総理、芦部信喜さんという憲法学者、ご存知ですか?」(答)「私は憲法学の権威ではございませんので、存じ上げておりません」

◎まっさらな「白紙」(無知)状態で、政治家になって後、「仲間」からいろいろなこと(情報)を受け容れていった。今まで蓄積された「知」を持っていないが故(無知)に、また仲間から受容した「知」しかないが故に、さらに「仲間」と思う人だけを信じて共に行動することが当たり前となった。そしてそうした自分自身に羞恥心をもたない(「無恥」)。


◎国のトップに準じて、人々は「知」を蔑視ないし無視するようになった。そしてそれを恥ずかしいことだと思うこともなくなった。

 

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『現代思想』12月号 「田中美津とウーマンリブの時代」

2024-12-11 19:49:08 | 

 『現代思想』12月号、特集は、「田中美津とウーマンリブの時代」である。

 田中美津という名前は、若い頃から知ってはいたが、彼女の本は一冊も読んでこなかった。同じ時代の空気を吸っていたのに、要するに関心がなかったということである。

 その田中美津さんが亡くなった。そこで、『現代思想』が特集を組んだというわけだ。同時代に生きた、とはいっても当時でもかなり上の年令であったが、その名は知っていたし、彼女が始めたウーマンリブの運動については、その関係の雑誌記事は読んだことがあった。

 『現代思想』が田中美津の特集をするというので、田中美津とは何だったのかを知りたくて購入し、読んだ。

 田中美津のインタビューが、あった。それを見ていて、田中美津は、悩み、深い思考をへてたどり着いた彼女なりの論理があり、それが普遍性をもった内容として存在することを知った。だから、田中美津は振り返られるのである。

 さまざまな人びとが田中美津を論じているのが、『現代思想』12月号である。それを読んで、田中美津を通じていろいろなことを知った。

 人間はいろいろな矛盾を抱えて生きている。矛盾の中で、あるべきこととあるべきではないことが発見されるのだが、通常は、あるべきことを取り出し、あるべきではないことを捨て去ることを試みるのだが、田中美津はその矛盾を抱えて生きることから出発することを主張する。

 田中美津が主張したことには、もちろん多くの論点があるが、「今、生きている」、これこそがすべてだという主張に、わたしは感動を持った。

 いろいろ書きたいことはあるが、本書を読んで、ウーマンリブ運動の先駆けだった人間の、その体験などに基づいた創造的な思想に、刺激を受けた。

 やはりすごい人だ。

 

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聴力障害をもった子どもたちの戦争

2024-12-10 15:14:07 | 近現代史

 以下の文は、2009年に書いたものである。
                      

 1945年4月16日付『静岡新聞』に、「天晴れ聾唖生徒」という見出しの記事がある。浜松聾唖学校の生徒が1944年9月から「職場に進軍」し、増産に励んでいる、というものである。この記事については既に『静岡県史』(通史編6 近現代二)で、「戦時下の障害児」(足立会員執筆)という項に「学徒動員」の一つとして紹介されている。


 だが驚くことに、動員されたのは、初等部の子どもたちであった。『静岡新聞』1945年4月15日付の記事には、「聾唖学徒が「翼」生産」という見出しで、静岡聾唖学校中等部の生徒9名が静岡飛行機工場で働いているという記事がある。このように、軍需工場に動員されたのは、中等部以上というのが一般的な理解である。

 浜松聾唖学校は、1923年4月、私立浜松盲学校内に併設(浜松市鴨江町在)され、1945年7月財団法人浜松聾唖学校となり、1948年県に移管され静岡県立浜松聾学校となった。戦時下、同校には初等部(1~6年)、中等部(1~5年)があり、校長は湯浅輝夫であった。

 子どもたちが動員されたのは、名古屋造兵廠関係の工場で、浜松市野口町にあった三協機械製作所(『浜松市戦災史』資料四)と馬込町にあった大日本機械製作所(聞き取りによる)である。三協機械は『浜松市戦災史』によると工作機械をつくる従業員230人の工場であるが、大日本については詳しいことはわからない。

 三協機械に動員されたのは、10歳(初等部5年から18歳(中等部5年)までの31名、1944年9月1日から。大日本機械には、10歳から14歳までの15名で、同年11月1日からであった。

 その証言をまず記しておこう。

 太田二郎さん(1934年1月生、5年)は三協機械に動員された。1944年9月1日に登校すると、今日から工場に働きに行くと言われ、その日から働き始めた。労働時間は8時30分から16時30分、初等部の子どもはヤスリがけ、中等部は部品づくりであった。月給は5円であった。

 花村光雄さん(1934年9月生、4年※聾唖学校は、入学時の年齢が一定していない)は、大日本機械に行った。1944年11月1日からで、当初午後だけであったが、途中から一日中働くこととなった。男子は弾丸のヤスリがけ、女子は50ずつ算えて箱に入れるという作業であった。
  1945年5月19日の空襲では二人の子ども(女)が亡くなった。三協機械構内にあった防空壕への直撃であった。

 ところでなぜ小学生が軍需工場に動員されたのか。推測ではあるが、まず湯浅校長の功名心である。4月16日付の記事中、湯浅校長談話に「私は彼等を全国に率先職場入りをさせた」とあり、また聞き取りからそのような傾向をもった人物であったようだ。そしてもう一つ。1941年8月から翌年8月にかけて旧浜北市を中心に15人が殺傷されるという強盗殺人事件(通称「浜松事件」)が起きている。その犯人は、同校生徒(検挙時は中等部1年。但し年齢は20歳か)であった。1942年10月浜松聾唖学校内で逮捕され、1944年2月静岡地裁浜松支部で死刑が言い渡され、同年6月大審院で死刑が確定、7月には刑が執行された(『静岡県警察史』下巻)。この事件の後から、工場への動員が始まる。事件の「汚名挽回」という面があったのかもしれない。

※柴田敬子『聴力障害者たちの戦中戦後』を参考にした。

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「平成」を振り返る(5)

2024-12-10 08:25:53 | 近現代史

 「知性が衰退する時代」として「平成」を捉えたが、それは「令和」になってさらに加速している。

 G・オーウェルは、「全体主義の真の恐怖は、「残虐行為」をおこなうからではなく、客観的真実という概念を攻撃することにある。それは未来ばかりか過去までも平然と意のままに動かすのだ。」(「思いつくままに」、『オーウェル評論集』岩波文庫、所収)と書いているが、その通りの時代の中にわたしたちは入っている。

まず「百田尚樹現象(『ニューズウィーク日本版』2019年6月4日号)」を紹介する。


①百田尚樹=1956年、大阪市生れ。同志社大学中退。放送作家として「探偵!ナイトスクープ」等の番組構成を手掛ける。2006年『永遠の0』で作家デビュー。他の著書に『海賊とよばれた男』(第10回本屋大賞受賞)『モンスター』『影法師』『大放言』『フォルトゥナの瞳』『鋼のメンタル』『幻庵』『戦争と平和』『日本国紀』などがある。彼は、右派思想の持ち主・改憲論者である。


②百田尚樹はなぜ読まれるか?
ⅰ)読みやすさ ⅱ)山場をいくつもつくるストーリー展開と構成力 ⅲ)おもしろさ ⅳ)反権威主義 ⅴ)アマチュア ⅵ)「感動」を重視 ⅶ)「普通の人々」に

 したがって、そこでは、事実や学問研究の成果を重視しない。近年の動向として、事実や学問研究(知的営みによる成果)を無視ないし軽視する文化がはびこっているように思える。

 
③加藤典洋の指摘
 加藤は、島尾敏雄・吉田満『新編 特攻体験と戦後』(中公文庫、2014年)の「解説」で、両者の対談と『永遠の0』とを比較する。そしてこう記す。
※島尾は奄美・加計呂麻島で特攻用の「震洋」隊の隊長、吉田は戦艦大和の生き残り。戦後は日本銀行勤務。
「いまは、誰しも、特攻に関連し、また戦争の意味に関連し、賛否いずれのイデオロギーなりともたやすくある意味ではショッピングするように自在に手にすることができる。それだけではない。着脱可能と言おうか、小説を書くに際し、その感動が汎用的な広がりを持つよう、そのイデオロギーをそこに「入れる」こともできれば、「入れない」でおくことすらできる。イデオロギー、思想が、いよいよそのようなものなってきたというだけでなく、私たちがある小説に感動するとして、その「感動」もまたそのような意味で操作可能なものとなっているのである。」「私は『永遠の0』を読んだ。そしてそれが、百田の言うとおり、どちらかといえば反戦的な、感動的な物語であると思った。しかしそのことは、百田が愚劣ともいえる右翼思想の持ち主であることと両立する。何の不思議もない。今ではイデオロギーというものがそういうものであるように、感動もまた、操作可能である。感動しながら、同時に自分の「感動」をそのように、操作されうるものと受け止める審美的なリテラシーが新しい思想の流儀として求められているのである。」
 島尾、吉田、ふたりの対談を読み、加藤はこのように思う。
「言葉を変えれば、特攻体験をそのまま受けとめる限り、そこから「感動」に結びつく物語は生まれてこない、ということになる。」


 現在は、思想や、イデオロギー、感動が、ショッピング可能な、操作できるものとして登場する時代なのである。
 「アイデンティティ」ということばがある。「自己同一性などと訳される。自分は何者であるか,私がほかならぬこの私であるその核心とは何か,という自己定義がアイデンティティである。何かが変わるとき,変わらないものとして常に前提にされるもの (斉一性,連続性) がその機軸となる。」(『ブリタニカ国際大百科事典』)と説明されるが、石戸諭による百田尚樹の人物像から考えると、「私がほかならぬこの私であるその核心」がない、その時代時代の時流に沿って変化していく、それはカネ儲けのためでもあるし、権力とつながるためでもあるし、名誉を得るためでもある。いわば「アイデンティティ」の流動化ともいうべき様相を見せているのである。それが「平成」という時代の特徴かも知れない。

 学問的知が無視ないし軽視される時代のなか、権威というものも崩壊への道をたどった。それは学問の分野でも起きたことである。「ポストモダン」というある種の「流行」があった。 

(1)「ポストモダン」という考え方
● “現代は「大きな物語」が消え、歴史の終焉に入ったと考える。普遍性が破壊されたこの状況下では、「小さな無数のイストワール(物語=歴史)が、日常生活の織物を織り上げ」(『ポスト・モダン通信』)、言説は多様化する。”(リオタール)

●近代哲学の問題の構図は「主観」と「客観」との一致→言語論的転回=主観ー言語ー客観。「世界の正しい認識は可能か」=「言語はその認識を正しく表現できるか」。

●相対主義(「唯一絶対の視点や価値観から何ごとかを主張するのではなく,もろもろの視点や価値観の併立・共存を認め,それぞれの視点,価値観に立って複数の主張ができることを容認する立場」『世界大百科事典』第2版)→何が正しくて何が間違っているかという基準がない。価値論や倫理の問題が脱落。

●ポストモダンとは、「近代」を相対化した。そのなかで、近代が獲得してきた個人主義原理、人権、民主主義などのポジティヴな価値の相対化。※「個人主義原理」=個人の尊厳(権利の主体)と自己決定(自立と自律)

 今まで、共通だと思われていた価値に疑いがもたれるなか、倫理的なことさえも疑われるようになり、普遍的な価値観や倫理観が、個々バラバラに解体されていき、「何でもあり」という時代に突入した。

 

 

 

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「平成」を振り返る(4)

2024-12-09 18:38:26 | 近現代史

◎「構造改革」の展開 

 日本の政治社会構造を新自由主義的に「改造」する改革がすすめられた。
  一般に新自由主義とは、「政府などによる規制の最小化と、自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の再分配は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での自由競争により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする」(「デジタル大辞泉」)考え方である。

 先鞭を付けたのは、イギリスのサッチャーだった。

サッチャー(1925~2013)は、1979年に首相となり、それから1990年まで新自由主義的な改革を断行した。

 サッチャーは「小さな政府」を志向した。「小さな政府」を実現するため、彼女は政府支出の削減と減税を行った。彼女が最初に行ったことは、教育、社会福祉、公衆衛生、住宅等への政府支出の切り詰め、公営企業等への援助金などの縮小であり、その一方で軍人と警官の優遇、軍事費の増額であった。減税は所得税に対して行われ、他方支出税(消費税)が増税された(高所得者への優遇と中・低所得層への冷遇)。


 ところでイギリスでは1984年から1985年にかけて、炭鉱の大幅な合理化案に反対する全国炭鉱組合による大規模なストライキが行われた。サッチャーは対決姿勢を鮮明にし、ストライキを組合側の全面的な敗北に導いた。この炭鉱争議は、サッチャーにとって、労働運動を衰退させるための突破口であった。この争議を抑圧するために、サッチャーは政府支出の削減を唱えているにもかかわらず、巨額の費用を投入した。1982年にはアルゼンチンとフォークランド諸島をめぐって戦争が開始されたが、彼女はこれにも巨費を投入した。

 サッチャーのものの見方は単純で、すべてを善か悪か、正か邪かで判断する二元論で、悪(邪)とみなしたものを徹底的に攻撃する。彼女にとって「悪」は福祉制度であり、公衆衛生であり、労働組合なのである。そして「善」は納税者である。納税者は政府の株主であり、大金持ちは大株主でもあるから、サッチャーは大口の納税者(大金持ち)の発言には耳を傾ける(「納税者の理論」)。かくて政府は、金持ち階級の「御用政府」となる。(森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』岩波新書、1988年を参照した。)

 日本でも、このような改革が推進された。まず「労働規制の撤廃」である。
例:派遣労働の規制緩和(自由化) 労働者派遣法の展開
1985年 専門業務派遣13業種のみ
1996年 専門業務26業務に拡大
1999年 原則自由、臨時的・一般的業務も解禁(期間1年)
2003年 専門業務派遣(原則3年、更新可能)、臨時的・一般的業務(原則1年、3年まで)、製造業派遣も可能
2012年 規制を強化,派遣期間が 30日以内のいわゆる日雇派遣は原則禁止,期限付きで働く派遣労働者が無期限の雇用者となれるよう派遣元が支援すること,派遣労働者と派遣先の労働者との待遇の均衡化に努めること。
2015年 専門26業務の区分が廃止され,すべての業務に関して,派遣先の同一の事業所における派遣労働者の受け入れの上限が原則 3年。派遣元には,派遣先への直接雇用の依頼など雇用安定措置や派遣労働者のキャリアアップ措置の実施が義務づけられた。

 またサッチャーの炭坑労働組合への強圧的な動きは、日本では国鉄の分割民営化としてあらわれた(1987年)。このなかで、国鉄労働組合は、徹底的に差別され、抑圧された。

 小泉内閣は新自由主義的改革を推進した。「構造改革なくして日本の再生と未来はない」と、小泉は叫んで推進した。その内容は、
①不良債権処理(貸し渋り、貸し剥がし)→倒産、失業
②民営化(「民間部門の活動の場と収益機会を拡大する」)
③「小さな政府」→公務員の減少  しかし、「官製ワーキングプア」
④「規制緩和」
       新規参入の自由化
       構造改革特区
 ⑤歳出抑制(財政健全化) 

  そのような改革の背後にいたのが、経団連などの財界、そしてアメリカであった。

その結果はどうだったのか。

①  経済成長せず
②  大企業だけが内部留保をため込む       「法人企業統計」 大和総研
 2016年 社内留保 30兆円+内部留保(利益余剰金)406兆円 +法人企業統計上の内部留保 48兆円(その状態=投資有価証券 304兆円(179兆円)+現預金211兆円(147兆円) 有形固定資産455兆円(464兆円)) ※( )内の数字は2006年の数字
③  格差社会
④  人口減少

「日本はもはや、誰もが豊かさを享受する国でも世界の先端を行く国でもない。失敗と迷走を重ねる不安と課題でいっぱいの国なのだ」(吉見俊哉『平成時代』岩波新書、2019年)

 


 

 

 

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「平成」を振り返る(3)

2024-12-09 09:10:12 | 近現代史

◎「企業に奉仕する公共」(政治)

  残念ながら、何度も書いてきたように、政府や自治体は、集められた税金を企業へばらまいている。本来、「公共」とは、provided by the government from taxes to be available to everyone: とされています。誰もが利用できるように、税金を政府が提供することなのであるが、実際は企業や自民党、公明党の「お友だち」に税金が拠出されている。

  消費税が10%となり、庶民は重税に「ゼイ、ゼイ」と苦しんでいるが、「法人税実効税率」は、  1988年には 51.55%であったものが、2019年には29.74%と減らされている。また「所得税最高税率」も、 1988年では60%であったものが、2019年には45%となっている。1988年、消費税は0%であったが、2019年からは10%である。つまり累進課税である所得税を減らし、大衆課税である消費税に徴税の軸足を移してきているのである。

 それに、消費税が導入されてから、2022年までの消費税総額が224兆円、法人税の減税額がそれとほぼ同じの208兆円、つまり、法人税の減税分を消費税が埋めているという現状なのだ。

 また自治体も、企業への補助金支出を行っている。浜松市の例を示す。

 浜松市は、自動車メーカーのSUZUKIへ約35億円の企業立地補助金(県を含めると52億円)を交付した。SUZUKIによる検査不正が行われた時期なのに、浜松市はSUZUKIに補助金を支出したのである。

 浜松市にはかつて「行財政改革推進審議会」があり、そこでは鈴木修が積極的に動いていた。そこでの彼の発言を紹介しよう。

 「補助金の件数を減らすことも重要ですけど、絶対金額を減らすことがもっと重要」 「(日赤浜松病院に対する市の補助金について)僕は他の病院は移転しても、もらってるかもらってないか知らないが、今後こういう5年にも10年にもわたって何十億円なんていう補助金の出し方、企業誘致だとか何とかという問題についても、40億円の補助金をもらって企業誘致を受けたなんて会社はないでしょう。あるいは、釣った魚にエサはやらないってことで、今市内にある企業が1千億円設備投資したって市は1銭も払ってないわけです。だから、47億円というのは重要な問題。そういうことが二度と起きない取り決めというか、ルールを作っておくことも私は必要ではないかと思います。」(第二次、第四回)

 補足しておくと、浜松市の基幹病院のひとつである日赤浜松病院はほぼ中心部にあり、拡張することはできないために、郊外へ移転することになり、浜松市が補助金をだしたのである。それに鈴木修は噛みついたわけである。

 鈴木修が中心となってまとめられた『第二次行革審答申』(2008年3月19日)には、「補助金は、過去のしがらみを断ち切り統一的な制度のもと、公益性、公平性の視点により、行政が税金で負担すべきものか徹底的に事業内容を検証することが重要である。さらに市民は補助金に頼るのではなく、何ができるか、何をすべきか自ら考え行動する必要がある。」と書かれていた。

 しかし、なんと、SUZUKIは補助金を受けとったのである、補助金削減を強硬に主張していた鈴木修、自分(自社)への補助金はいいのか。ちなみに、この答申により、浜松市が支出していた公益団体その他への補助金は廃止されたり減額されたりしたという。

 このように、この例のように、国も地方自治体も、企業(とりわけ大企業)に補助金を交付したり、税制上優遇したりして厚遇しているのである(研究開発減税、受取配当益金不算入制度、外国子会社配当益金不算入制度、連結納税制度・・・)。さらに「消費税還付制度(輸出免税制度)」がある。例えば、50万円の商品を下請けから仕入れたとき、メーカーは消費税率10%を上乗せし、55万円を下請けに支払う。下請けはこの売り上げから5万円を税務署に納める。メーカーはそれを加工し、税込み110万円の商品を作ったとする。国内では販売に際し、消費税10万円を消費者から受け取る。10万円から、仕入れの際下請けに払った5万円を引き、残る5万円をメーカーが税務署に納める。これを年間でまとめて計算して支払う。一方、海外に輸出する場合は輸出免税により価格は税抜きの100万円となるため、仕入れの際に支払った5万円が相殺できない。これを国庫から還付金として補填する制度。消費税還付金には、年率1.6%の利息に相当する「還付加算金」が上乗せされるから、2018年度分で3683億円の還付を受けるトヨタは、単純計算で約59億円が利息として入ってくる。
 輸出企業にとって、消費税は多額の「益税」なのである。

◎「平成」におきたこと

 〇まず日経連が「新時代の『日本的経営』-挑戦すべき方向とその具体策」(1995)を提出したことである。それには労働者を三つのグループに分けることが提案されている。
①「長期蓄積能力活用型グループ」( 期間の定めのない雇用契約/管理職・総合職・技能部門の基幹職/月給制か年俸制・職能給/昇給制度あり/賞与=定率+業績スライド/年金 あり/役職昇進 職能資格昇進
②「高度専門能力活用型グループ」(有期雇用契約/専門部門(企画、営業、研究開発等)/年俸制・業績給/昇給無し/賞与・成果配分/年金 なし/業績評価
③「雇用柔軟型グループ」(有期雇用契約/一般職 技能部門 販売部門/時間給制・職務給/昇給なし/賞与・定率/年金 なし
 これによると、正社員は①のみで、②③は非正規となる。目的は、人件費の抑制であり、その結果、低賃金の非正規労働者は増え続け、全労働者の約4割が非正規となっている。

 その効果は1997、8年から出始め、その頃から賃金の下降、全世帯の所得金額が減り始めた。

 〇されにそれを推進したのが、1997年の転換、「橋本行革」であった。
 1996年1月 第二次橋本龍太郎内閣が誕生し、「構造改革」を打ちだした。「財政構造改革」(歳出抑制見直し)、「教育改革」、「社会保障構造改革」(給付と負担の均衡)、「経済構造改革」(規制緩和)、「金融システム改革」(金融の自由化)、「行政改革」(中央省庁再編、公務員減らし)が実施され、①消費税増税(3%から5%へ)、所得税・住民税の特別減税廃止、②公共投資の抑制、③不良債権処理→金融機関の破綻、④アジア通貨危機→輸出の減により、賃金減少、消費の減退、景気悪化が進んでいった。

 その「構造改革」がどういったものであるかは、次回に綴る。

 

 

 

 

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「平成」を振り返る(2)

2024-12-08 21:37:36 | 近現代史

 「平成」の時代、どんなことが起きたかを記しておこう。

〇中曽根康弘内閣(1982年11月~1987年11月)
1983年1月「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化」発言。/1985年7月「戦後政治の総決算」主張。/1985年8月、靖国神社公式参拝/1985年9月、プラザ合意→円高・ドル安へ/1985年10月、国鉄分割民営化、閣議決定。/1986年4月、経済構造調整研究会、「前川レポート」(内需拡大)/1986年12月、防衛費がGNPの1%枠突破。
1987年4月、国鉄分割民営化。/臨調「行革」路線=「個人の自立・自助」、「小さな政府」

1989年
4月 3%の消費税実施(約6兆円) 6月 天安門事件 9月 日米構造協議始まる  11月 連合発足・総評解散

1990年
6月 日米構造協議決着(公共投資10カ年計画、総額430兆円、大店法改正など) 8月 イラク、クウェート侵攻 10月 東証株価2万円を割る(バブル崩壊へ)

1991年
1月 湾岸戦争(湾岸戦争支援として90億ドル約1兆2,000億円援助)4月 自衛隊掃海艇ペルシャ湾へ、12月 ソ連崩壊 ※バブル(1986~91)崩壊
※ 1985年のプラザ合意(ドル安円高政策)を反映した金融緩和政策のため日本では資金の過剰流動性が生じ,低金利が長く続き,株式や土地に資金が集中してこれらの価格をつり上げた。1989年以降日銀が金融引締めに転じたため,株価や地価が急落,バブルは崩壊し,その後遺症で金融システムが機能しなくなり,景気も極端に悪化,人々はその影響に苦しめられた。

1992年
1月 大店法改正(規制緩和)施行 6月 国際平和維持活動(PKO)協力法成立

1993年 
8月 細川護煕非自民連立内閣成立

1994年
1月 政治改革4法案成立、衆議院議員小選挙区比例代表並立制決定
6月 松本サリン事件発生  6月 村山内閣 10月1995~2004年度の公共投資計画、総額630兆円に。

1995年
1月 阪神・淡路大震災発生 3月 地下鉄サリン事件発生 4月 1ドル=80円を切る 5月 日経連「新時代の『日本的経営』」 11月 windows 95 日本発売

1996年
1月 橋本龍太郎内閣 4月 安保再定義 9月 民主党結党 10月 第41回総選挙(初の小選挙区比例代表並立制)

1997年
4月 消費税の税率、3%から5%に引き上げ   9月 新ガイドライン 12月 介護保険法公布

1998年
1月 大蔵省不良債権金額76兆円と発表 4月 周辺事態法案など閣議決定 7月小渕内閣

1999年
5月 周辺事態法などの新ガイドライン3法成立。7月 憲法調査会設置の改正国会法成立。8月 国旗・国歌法成立。通信傍受法、組織犯罪処罰法、改正住民基本台帳法成立。
12月 労働者派遣法改正、派遣対象事業を原則自由化

2000年
4月 介護保険制度開始 森内閣 12月 教育改革国民会議、教育基本法見直しを提言。
2001年
1月 中央省庁再編成 4月小泉内閣 6月 経済財政諮問会議、「聖域なき構造改革」の具体策まとめた基本方針決定 9月 アメリカ同時多発テロ 10月 テロ対策特別措置法、成立

2002年                                                                                              1月 1府12省庁、始動     5月 日韓共催のサッカーW杯開催    7月 郵政関連法成立、「日本郵政公社」2003年4月発足 9月 「日朝平壌宣言」に署名

2003年
3月 イラク戦争 SARS集団発生 5月 個人情報保護法 6月 有事関連3法、改正労働者派遣法成立、経済財政諮問会議、三位一体改革と規制改革決定 7月 国立大学法人化法など関連6法成立、イラク復興支援法成立 

2004年
1月 陸上自衛隊先遣隊がイラク・サマワ到着  5月 小泉訪朝、拉致被害者の家族が帰国  6月道路公団民営化関連法成立 10月 新潟県中越地震で死者40人 12月スマトラ沖地震

2005年
4月 JR福知山線脱線事故 9月 宮城県南部地震 10月 郵政民営化関連法が成立

2006年
1月 日本郵政株式会社が発足 6月 厚生労働省、2005年の人口動態統計で出生率は1.25と過去最低と発表   9月 安倍晋三内閣が発足 12月 改正教育基本法成立

2007年
2月 「年金記録漏れ」5000万件判明 7月 新潟県中越沖地震、死者15人、参院選で自民歴史的惨敗、民主第1党に。9月 安倍首相が突然の退陣、後継に福田首相 10月 民営郵政スタート

2008年
4月 後期高齢者医療制度発足 6月 秋葉原通り魔事件 9月 リーマンショック(株価大暴落)

2009年
6月 新型インフルエンザ流行 9月 民主党政権成立  10月 厚労省、日本の貧困率を15.7%発表(先進国最悪)

2010年
1月 日本航空破綻 3月 平成の大合併終了 6月 鳩山内閣退陣→菅直人政権  

2011年
3月 東日本大震災・原発事故 9月 野田内閣 10月 歴史的円高、一時1ドル=75円32銭(政府・日銀円売り介入。介入額は1日としては最大の7兆7000億円程度)

2012年
8月 社会保障と税の一体改革の柱である消費増税法成立(8%へ。民主、自民、公明)。
12月 第二次安倍政権

2013年
12月 特定秘密保護法成立(施行は2014年)

2014年
4月 消費税5%から8%へ 5月 内閣人事局設置 7月 安倍内閣、集団的自衛権行使容認の閣議決定(解釈改憲)  

2015年
9月 安全保障関連法が成立

2016年
4月 熊本地震 5月  オバマ大統領が広島を訪れる。8月 天皇が「象徴としての務め」で見解表明 

2017年
1月 トランプ米大統領に 6月 「共謀罪」法が成立 ※森友・加計・南スーダン国連平和維持活動日報問題

2018年
3月 財務省、森友文書改ざん認める

2019年 
10月 消費税10%へ 12月 中国で新型コロナウイルス

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「平成」を振り返る(1)

2024-12-08 21:23:31 | 近現代史

 1995年について『世界』が特集したことを、先に紹介した。1995年に焦点をあてて講演したこともあったが、今そのレジメがどのUSBメモリーにあるのか捜し当てていない。そこで、「「平成」を振り返る」というテーマで話したこともあるので、それを紹介していこうと思う。

 「平成」とは、 1989年1月8日から2019年4月30日までの期間である。約30年、その30年について、わたしは、 Ⅰ「企業に奉仕するシステム」(政治・経済)、Ⅱ「知性が衰退する時代」(社会)、Ⅲ「対米従属から自発的対米隷属へ」(政治・外交)として、3回に分けて話した。

 「平成」という時代においては、内閣は短期間で変わっていた。小泉内閣、安倍内閣は長かったが、それ以外は短命内閣であった。それを示すと、次のようになる。

  竹下登            1987(昭和62)年11月6日~1989(平成元)年6月3日   
  宇野宗佑          1989年6月3日~1989年8月10日                      
  海部俊樹          1989年8月10日~1991年11月5日
  宮沢喜一          1991年11月5日~1993年8月9日                     
  細川護熙          1993年8月9日~1994年4月28日
  羽田孜            1994年4月28日~1994年6月30日                  
  村山富市          1994年6月30日~1996年1月11日
  橋本龍太郎        1996年1月11日~1998年7月30日                 
  小渕恵三          1998年7月30日~2000年4月5日                 
  森喜朗          2000年4月5日~2001年4月26日
     小泉純一郎        2001年4月26日~2006年9月26日
  安倍晋三          2006年9月26日~2007年9月26日
  福田康夫          2007年9月26日~2008年9月24日
  麻生太郎          2008年9月24日~2009年9月16日
  鳩山由紀夫        2009年9月16日~2010年6月8日
     菅直人            2010年6月8日~2011年9月2日
  野田佳彦          2011年9月2日~2012年12月26日
  安倍晋三          2012年12月26日~2020(令和2)年9月16日

 「平成」という時代について、吉見俊哉編『平成史講義』(ちくま新書)では、「失敗の30年」、「戦後日本社会が作り上げてきたものが崩れ落ちていく時代」、「苦難の30年間」、「失われた30年」、「沈滞した時代」などと否定的なことばで総括される。わたしは、「平成」を、「庶民を切り棄てるシステムを構築した時代」として捉えたい。グローバル資本主義、新自由主義(民営化・規制緩和)、政治改革、自己責任、「小さい政府」など、すべてが「庶民を切りすてるシステム」につながっていると考えるからだ。

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「アベノミクスは、日本の劣化を加速」

2024-12-08 09:01:34 | 政治

 日本の国際的地位は、下がり続ける。しかしそのなかでも、輸出企業はウハウハの大儲け。それはそうだろう。輸出企業は、自民党へ大金を寄付しているからだ。それにより、みずからに都合の良い政策を実施させている。まさに輸出企業が政策を買っているのだ。

 そして自民党政治家は、そうすることによって、パーティー券を買ってもらったり、企業からの政治献金をしこたまもらう。

 輸出企業と自民党政治家は、大きなカネを媒介にして、深い関係を築き上げている。

 そもそも日本の経済的な国際的地位を下げたのが、アベノミクスなのだ。それにもかかわらず、いまだにアベシンゾーを持ち上げる人々がいる。そしてそのアベシンゾーに群がった統一教会の支援を受けた裏金議員たちが、悪事を重ねている。私腹を肥やし、利権政治を推進する自民党には、政界から去って欲しいと切に願う。

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1995年という年

2024-12-07 20:24:03 | 

 『世界』1月号が「1995 終わりと始まり」という特集を組んだ。そこには、村山政権、沖縄における米兵による少女暴行事件とその後の「米軍基地の整理縮小」問題、オウムの地下鉄サリン事件、「慰安婦」問題、阪神淡路大震災が取り上げられている。

 たしかに1995年は、大きな転換点であった。わたしも1995年に焦点をあてて、その後の変化、庶民にとっては悪化について、さまざまな統計をつかって話したことがある。

 それについては近いうちにアップしようと思うが、わたしは1995年という年を取り上げる場合は、日経連の「新時代の日本的経営-挑戦すべき方向とその具体策」に触れる。これは労働者を三つのグループにわけて、労働者の総賃金を減らしていこうという経営者たちの方針を示したものである。

 その「具体策」は、労働者を、「長期蓄積能力活用型グループ」「高度専門能力活用型グループ」「雇用柔軟型グループ」にわける。「長期・・・」はいわば「正社員」であり、「雇用柔軟型・・」はパート労働、アルバイトなどの非正規労働者であり、後者を大いに活用しようという提言であった。それ以後、30年にわたって日本だけが労働者の賃金が上昇しないという事態をつくりあげたのである。なお「高度専門・・・」は、公認会計士などである。

 この提言をまとめた日経連の幹部が、『東京新聞』のインタビューに応じた記事がある。非正規雇用の活用を30年前に提言したら…「今ほど増えるとは」 労組側「やっぱりこうなった」

 1995年を取り上げるなら、この提言に触れるべきであった。

 

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【本】将基面貴巳『反逆罪ー近代国家成立の裏面史』(岩波新書)

2024-12-07 13:27:09 | 

  何となく購入し、何となく読み終えた。どのようにこの本の内容を記していけばよいのかわからない。しかし、読み続けていったのだから、何ともいえない魅力が存在したのだろうと思う。

 「反逆罪」を中心にして、イギリス、フランスの歴史が叙述されているのだが、それがなかなか興味深く、読んでしまった。著者は映画にも詳しくて、数カ所に映画の紹介がなされていた。そのひとつ、フランス映画の「デリシュ」(Amazon Prime)をみたが、これがなかなかよかった。フランスの農村部の美しさ、そしてフランス革命へと向かう社会の状況がそのなかに描かれ、深部での民衆の意識の動きが静かに描かれていた。

 本の内容については、著者が終章でまとめているので、それを読めばよい。

 印象に残ったのは、「反逆罪」であるから、当然その罪を犯したとされれば処刑される。その処刑の方法がまた残酷極まりないものであった。首つり、内臓を抉って焼却、首の切断、身体を四つ裂きにする、これはひとりの人間に対しておこなわれる処刑である。首の切断までは受刑者は生きているわけだから、何とも凄まじい。これはイギリスのことであるが、フランスでは特権身分の者は斬首、民衆は絞首刑。その後、すばやく受刑者を死に至らしめるための「人道的な」方法として、ギロチンが生みだされた。これは身分に関わりなく「平等に」おこなわれた。

 人間の歴史は、暴力の歴史でもある。古今東西、暴力が吹き荒れていて、溜息が出てしまう。

 「反逆罪」についての認識も、時代の流れと共に変化していくが、近代国民国家の成立のなかで、ナショナリティーを国民がもつなかで、国家権力だけではなく、庶民までもが「国賊」などということばで、「反逆者」を糾弾するようになっていく。

 著者は、「反逆罪」を考察するにあたって、「マイェスタス」をキー概念にして論じている。「マイェスタス」とは、古代ローマの「威光」という意味のことばである。ヨーロッパ法は、ローマ法やゲルマン法の影響を受けながら発達していくのだが、「反逆罪」に関してはローマ法の「マイェスタス」概念が生きつづけたようだ。

 著者は末尾で、こう書いている。

戦後80年が経過しようとしている今日、政治に対する無関心が広がっている印象が強い一方で、SNSを中心に反逆罪のメタファーによる政治的レトリックが巷にあふれている。ある特定の政治的主張をもつ個人や集団を「国賊」、「非国民」あるいは「反日」などという言葉で罵倒する行為は「あまりに品性を欠き卑劣で真剣に受け止めるに値しない」と無視したくなる誘惑にかられるかもしれない。だが、こうした政治的レトリックが幅を利かせることで露わとなる政治的分断は、決して坐視して済ますことのできない問題をはらんでいる。が反逆罪のレトリックの背後には、究極的な忠誠対象に必ず随伴するマイェスタスへの崇敬感情が潜んでいるからである。自分が信奉する忠誠対象のマイェスタスが「国賊」によって毀損されているという危機感が少なからぬ人々の間で共有されているのである。

 これは日本のネトウヨの動きについてであるが、しかしわたしは彼らが「国賊」とか「反日」とか汚いことばで罵倒するとき、かれらのなかに明確な「マイェスタスへの崇敬感情」が存在しているとはとても思えない。彼らは、半ばうっぷん晴らし、あるいは遊びとして(彼らはいつもニヤニヤしている!)そうした行為をおこなっているのであって、「自分が信奉する忠誠対象」を明確に意識しているわけではないだろう。ある意味で、罵倒する行為に対する「忠誠」とでも言いうるのではないだろうか。

 【付記】昨日から、急にアクセス数が増えている。このブログで、いったい何に関心を持ったのだろうか。このブログには「アピールチャンス」というのがあるようだが、わたしは一度もつかったことはない。書きたいことを書く、それにアクセスする方がいる、それだけでうれしい、と思いながら綴っている。

 

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