人生の転機、たとえばはじめて一人暮らしをするとか、大学に進学するとか・・・人生の転機の時には、何らかの決意といったものをもつ。
私もこの4月から、別の人生を生き始めたが、その快適さの中に埋まってしまいそうだ。朝は遅くまで寝ていられるし、図書館には自由な時間に行けるし、本は自由に読めるし・・・・
私の別の人生の初心は、まず関門海峡を渡って韓国に行くことであった。しかし3月11日の大震災はその初心に「待った」をかけた。以来、特に原発事故に関わる研究を始めてしまった。
同時に、自分の部屋の床に積まれている本の整理などをはじめたが、何とか片付き仕事ができるような環境ができた。ここ5、6年はリビングのテーブルで仕事をしていた。片付ける本の多さに愕然として、最近は雑誌以外は買わずに図書館から借りている(図書館いない本だけを買う。ただし、静岡県立中央図書館からも取り寄せることができるので、そんなに買わなくても良いようだ)。そのため、ほぼ毎日図書館に行っている。
さて私は今「ヒバクシャ」についていろいろ調べているが、そればかり勉強していては疲れるので他の種類の本も読む。今読んでいるのは、竹内洋『大学の下流化』(NTT出版)である。著者はよほど書き慣れているらしく文章はとても読みやすいが、いろいろな短文の寄せ集めなので、深さはない。しかし読んでいてこの人の思想的立場がぼんやりと浮かび上がってきたことは収穫であった。
また書かれている内容も、なるほどと思わせるようなものもあった。まず一つは、「教養=品格は読書だけで得られるもではないにしても、古典や名著によって広い世界を知り思索を深める読書が教養の中核を占めることはいささかも変わらない」ということば。
大学入学時は、おそらく教養を身につけるという初心を持っていただろうが、まさかもうそれが消えてしまっていることはないだろうね。大学に入ると自由が与えられる。しかしその自由というものを自覚的に操縦していかないと、放縦というものに転嫁してしまう。
気をつけよう。というのも、竹内はこの本で、「60年代までは読書する学生が社会にでることにより大衆社会を上流化する力が働いたが、80年代以後の日本社会は読書しない大学生が大量に社会にでることで大衆社会をどんどん下流化させている」と記している。
今の大学生の三分の一以上は、一ヶ月に一冊の本も読まない、読書時間ゼロの学生も多いそうだ。漱石の『坊ちゃん』を読ませたら、江戸時代の本だから言葉が難しいと感想を書いた学生もいるという。関西大学の学生だ。
何のために大学に行くのか。ボクが驚いたのは、部活動(もちろん運動部)の顧問になりたいから大学に行き先生になりたい!という希望を持った高校生が多いことであった。そのためには社会科でも何の科目でもよい・・というのである。それなら体育の教員になるべく体育大学に行けばよいのだ。学校教育において、部活動は本流ではない(しかし静岡県は、部活動こそが学校教育の中心であると言えるくらい、部活動がきわめて盛んな県である。他県出身の人に尋ねてみよう、静岡県の異常さがわかるというものだ)。
そういう大学生は本なんて読まない。おそらくバイトに明け暮れていることだろう。そういう噂を聞いてもいる。
こういう勉強をしたい、英語をしっかりと学びたい、古文書を読めるようになりたい・・・・いろいろな初心があっただろう。その初心を忘れることなく、日々精進しよう。
大学を出た者により、社会の知的水準が下げられるなんてまことに愚かなことだ。国公立大学でも、私立大学でも多額の税金が投入されている。君たちの遊ぶ時間を保障するために、国民は君たちに税金を払っているのではないのである。
私もこの4月から、別の人生を生き始めたが、その快適さの中に埋まってしまいそうだ。朝は遅くまで寝ていられるし、図書館には自由な時間に行けるし、本は自由に読めるし・・・・
私の別の人生の初心は、まず関門海峡を渡って韓国に行くことであった。しかし3月11日の大震災はその初心に「待った」をかけた。以来、特に原発事故に関わる研究を始めてしまった。
同時に、自分の部屋の床に積まれている本の整理などをはじめたが、何とか片付き仕事ができるような環境ができた。ここ5、6年はリビングのテーブルで仕事をしていた。片付ける本の多さに愕然として、最近は雑誌以外は買わずに図書館から借りている(図書館いない本だけを買う。ただし、静岡県立中央図書館からも取り寄せることができるので、そんなに買わなくても良いようだ)。そのため、ほぼ毎日図書館に行っている。
さて私は今「ヒバクシャ」についていろいろ調べているが、そればかり勉強していては疲れるので他の種類の本も読む。今読んでいるのは、竹内洋『大学の下流化』(NTT出版)である。著者はよほど書き慣れているらしく文章はとても読みやすいが、いろいろな短文の寄せ集めなので、深さはない。しかし読んでいてこの人の思想的立場がぼんやりと浮かび上がってきたことは収穫であった。
また書かれている内容も、なるほどと思わせるようなものもあった。まず一つは、「教養=品格は読書だけで得られるもではないにしても、古典や名著によって広い世界を知り思索を深める読書が教養の中核を占めることはいささかも変わらない」ということば。
大学入学時は、おそらく教養を身につけるという初心を持っていただろうが、まさかもうそれが消えてしまっていることはないだろうね。大学に入ると自由が与えられる。しかしその自由というものを自覚的に操縦していかないと、放縦というものに転嫁してしまう。
気をつけよう。というのも、竹内はこの本で、「60年代までは読書する学生が社会にでることにより大衆社会を上流化する力が働いたが、80年代以後の日本社会は読書しない大学生が大量に社会にでることで大衆社会をどんどん下流化させている」と記している。
今の大学生の三分の一以上は、一ヶ月に一冊の本も読まない、読書時間ゼロの学生も多いそうだ。漱石の『坊ちゃん』を読ませたら、江戸時代の本だから言葉が難しいと感想を書いた学生もいるという。関西大学の学生だ。
何のために大学に行くのか。ボクが驚いたのは、部活動(もちろん運動部)の顧問になりたいから大学に行き先生になりたい!という希望を持った高校生が多いことであった。そのためには社会科でも何の科目でもよい・・というのである。それなら体育の教員になるべく体育大学に行けばよいのだ。学校教育において、部活動は本流ではない(しかし静岡県は、部活動こそが学校教育の中心であると言えるくらい、部活動がきわめて盛んな県である。他県出身の人に尋ねてみよう、静岡県の異常さがわかるというものだ)。
そういう大学生は本なんて読まない。おそらくバイトに明け暮れていることだろう。そういう噂を聞いてもいる。
こういう勉強をしたい、英語をしっかりと学びたい、古文書を読めるようになりたい・・・・いろいろな初心があっただろう。その初心を忘れることなく、日々精進しよう。
大学を出た者により、社会の知的水準が下げられるなんてまことに愚かなことだ。国公立大学でも、私立大学でも多額の税金が投入されている。君たちの遊ぶ時間を保障するために、国民は君たちに税金を払っているのではないのである。