私は高校生の時、それはもう半世紀も前だが、生徒会で制服自由化を提起したことがあった。しかしまったく実現しなかった。
だが全国各地の高校を調べたところ、その頃でさえ制服が自由化されていたところがあり、うらやましかった。
「制服を着ない自由はありますか?」私服との選択制求め、現役教員・高校生らが1万8000人分の署名提出
私は高校生の時、それはもう半世紀も前だが、生徒会で制服自由化を提起したことがあった。しかしまったく実現しなかった。
だが全国各地の高校を調べたところ、その頃でさえ制服が自由化されていたところがあり、うらやましかった。
わが家はテレビを見ない。受像機はNetflixやAmazon Primeを家人が見るために存在しているにすぎない。もうテレビ放送は信用できないし、そんなのに大切な時間をつかうことがもったいないからだ。テレビは支配層や劣化した反知性的な方々の放言を垂れ流すだけのものに成り下がっている。ネットを見ていると、テレビ番組これがよかったなどと書いている向きもあるが、それはほんの一部にしかすぎない。ほとんどの番組は、厚顔無恥な政治家集団・自民党・公明党を擁護するものだ。
そして「報ステ」のCM。何ともヒドイもので、テレ朝が誰もこの問題点に気がつかなかったのは、まったくもってテレビ関係者の知性が麻痺しているとしかいいようがない。こういう輩がつくっているテレビに未来はない。
アベ政権以降の政府や自治体が発表する公式の数字は、作為されたものだという認識を私は持っている。
後進国日本の公式的な数字は、もうあてにならないのだ。
東京都の COVID-19関係の数字は、オリンピックを強行するために操作されているはずで、 信用できない。
確かにアメリカの大統領選挙が不正であるというデマは、ふつうの人なら信じない。だけど、信じる、あるいは信じているようなフリをする人々がいる。なぜ?と私は思う。
歴史研究者の呉座勇一という人が、ネトウヨの言説を支持しまた振りまいていたことがあちらこちらから指摘されている。
この人の名前は、中公新書の『応仁の乱』が爆発的に売れたということが話題になったことがある。それ以外にも著書があるようだが、私は一冊も彼の本を読んだことがない。
実は店頭では『応仁の乱』を手に取ってみたことはあるのだが、買うまでには至らなかった。新書ならあまり迷いもせずにいつもは買ってしまうのだが、買わなかった。私は店頭で買う前に、「まえがき」や「あとがき」を読むのだが、そこに胡散臭さを覚えたのである。その勘は当たったのかもしれない。
しばしば閲覧する研究者のTwitterに彼のことが報告されていたので少し調べてみたところ、確かにネトウヨの言説を書いていたり、リツイートしていた。
以前静岡大学の学生が、研究会が行っている資料調査に参加してきたので話したことがあるが、驚いたのは学生たちの間で右翼的な(それもネトウヨ的な。右翼でもしっかりした右翼もある)気分が横溢していることを感じた。彼らが話すことがあまりに根拠薄弱だったのでいろいろ議論したのであるが、その一回で彼らは参加してこなくなった。
気分としてのネトウヨ、私が彼らに感じたものだ。
呉座勇一という人も、そういうなかで研究者になったのではないか。歴史研究者としての学問的作法というものがある。私の世代は、その作法はみずからが専門にしている分野だけではなく、あらゆる方面に適用するのが一般的なのだが、若い人はそうではないようだ。彼の発言にはそれが顕著である。
学問研究が人格と離れているとでも言おうか、そういう人物がいるのだ。
おそらく私は彼の著書を読むことはない。学問研究は人格と一体でなければならないからだ。
Natureの記事。いつかはこの文に書かれたようになるのだろうが、しかしそれまでは死や後遺症の危険を伴う時代をくぐり抜けなければならない。そして少なくとも、 COVID-19撲滅のために何らかの策を講じなければならないのだが、日本政府は無為無策、モグラ叩き対応(感染者が出たときだけ、症状が出なければ放置するだけ)で、モグラ( COVID-19)そのものを“退治”しようとはしない。ああ・・
ワクチン接種に力を入れても、COVID-19を打ち負かす理論的な閾値には手が届かないだろう。
世界中でCOVID-19のワクチン接種率が上昇するにつれ、「このパンデミックはいつまで続くのか」という疑問が出ている。これは不確定要素の多い問いである。しかし、かつて人気があった、SARS-CoV-2に対して十分な数の人々が最終的に免疫を獲得し、ほとんどの感染を阻止できるという考え(「群集免疫閾値」)は、可能性が低くなってきている。
多くの科学者は、人々が一斉に免疫を獲得し始めれば、集団免疫によって社会が正常に戻ると考えていた。しかし、パンデミックが2年目に入った今、考え方が変わり始めている。2月、独立系データサイエンティストのYouyang Guは、自身が開発した人気予測モデル「COVID-19」の名称を「Path to Herd Immunity(群集免疫への道)」から「Path to Normality(正常への道)」に変更した。同氏は、ワクチン接種へのためらい、新型株の出現、子どもへの予防接種の遅れなどから、集団免疫の閾値に達する可能性は低いと考えていると述べている。
Guはデータサイエンティストだが、彼の考え方は疫学界の多くの人々と同じである。テキサス大学オースティン校COVID-19モデリング・コンソーシアムのエグゼクティブ・ディレクターである疫学者のローレン・アンセル・マイヤーズは、「集団免疫の閾値を超えれば、パンデミックは永久に起こらないという考え方から脱けつつあります」と語る。この転換は、パンデミックの複雑さと課題を反映したものであり、ワクチン接種が役立っているという事実を覆すものではない。「ワクチンは、ウイルスが自然に消滅し始めることを意味します」とマイヤーズは言う。しかし、新型株が発生し、感染に対する免疫力が低下する可能性があるため、「数カ月後、1年後にも脅威と戦い、将来の急増に対処しなければならない状況に陥るかもしれない」と述べている。
パンデミックの長期的な展望としては、おそらくCOVID-19はインフルエンザのような風土病になると思われる。しかし、短期的には、科学者たちは集団免疫を前提としない新しい正常な状態を考えている。ここでは、このような考え方の背景にある理由を紹介する。
ワクチンが感染を防ぐかどうかは不明であること。(内容省略)
ワクチンの展開にムラがあること。(内容省略)
新型株が集団免疫の要素を変えること(内容省略)
免疫力が永遠には続かないかもしれないこと(内容省略)
ワクチンが人間の行動を変えるかもしれない こと(内容省略)
ウイルスの感染を止めることは、正常な状態に戻るための一つの方法である。ロンドン大学衛生熱帯医学大学院のワクチン疫学者であるStefan Flascheは、「COVID-19に関するこれまでの知見を踏まえると、ワクチンだけで集団免疫を獲得するのはかなり難しい」と述べている。COVID-19についてこれまでにわかっていることを考えると、「ワクチンだけで集団免疫を獲得することは、かなり難しい」と彼は言う。もっと現実的な期待をする時が来た。ワクチンは「驚くべき進歩」だが、これで感染拡大を完全に止めることはできないだろう。しかし、これはそれほど深刻な問題ではない。集団免疫がなくても、弱い立場の人へのワクチン接種で、COVID-19による入院や死亡が減っているようだ。この病気はすぐにはなくならないかもしれないが、その存在感は薄れていくと思われる。
オリンピックの開会式に渡辺直美さんを出演させ、彼女を「ブタ」扱いするというとんでもない案が、電通出身の男の案として出され、当然のごとく激しく批判された。当たり前である。人権意識のかけらもないこの案、面白ければ何でもあり、という風潮が背景にあると思う。
テレビをほとんど見ていないが、ネットで検索すると、ニュースワイドショーはじめ「芸人」といわれる人びとが出演し、反知性的なことを平気で公共の電波で語っている。面白ければ、あるいは出演料が安いからと、まったくテレビは世紀末的な様相を呈している。ネットでみていると、何々のこういう番組はよかったという文をみるが、たとえそうであっても私は根本的にテレビは見る価値はない、と断定している。
人生の限られた時間、音楽を聴きながら本を読むことの方がいかに意味があるか。思考ははばたき、想像力が湧きあがる。
人格を否定するとんでもないことばが、あらゆるところで跋扈する。私はそうした世界とは無縁でありたいと思う。
渡辺直美さんがあの案にもとづく出演は、当然拒否すると言っているとのこと。当然である。