麓山地区は、加美町役場の西約6kmのところ
加美町役場南側道路を北西へ、約900mで信号を左(西)へ国道347号線です
約1kmで鳴瀬川の支流の田川を田川橋で渡って道成りに進みます、約2kmの三叉路は左(尾花沢方面国道)へ
約3kmで、右カーブの龍川寺の山門前を左(南)へ、間も無く鳴瀬川の河川敷に降りて行きます
赤い欄干の石神橋の東側、鳴瀬川の南側の山に飯豊神社が鎮座しています
石神橋を渡ってすぐ右に飯豊神社社務所が在り、左には駐車場があります
西向きに飯豊神社の一ノ鳥居が建ちます
参道を進みます
右側の斜面の上に大きなスギの幹が見えました
手水舎です
ニノ鳥居は北向きに建っています、石段を上ります
中段に水の出ているところが有ります
石碑も並んでいます
中段で右に折れ、更に石段を上ります
境内に上がって来ました
右手に鐘楼です
拝殿前に注連縄を巻かれた杉の大木ですが、目的の杉ではありません、大木の影にもスギの枝が見えます
拝殿です
社殿の北側に目的のスギです
南側から
町指定天然記念物 飯豊神社の大木(杉・松)の標柱です、裏面の文面には・・・スギは本殿南側にあり、幹回り5.5m、高さ約30mあり、古くから名木として名高く、18世紀後半に書かれた安永風土記にも記載されている。
松は本殿北側にあり、幹回り3.9m、高さ30mの大木である。
*裏側文面の南と北・(スギとマツ)が反対になっています、松は無くなってしまったようです
西側から見上げました
根元の割れた石は「夫婦石」と言って「御神体」だそうです、玉垣は平成28年に下区南氏子一同が建てたものです
本殿です
本殿標柱です、文面には・・・当社は慶雲2年(705)巨勢麿の勧請と伝えられ、延喜式内社として大石を御神体としたが、その後天平9年(737)大野東人が社殿を造営し、正安2年(1300)朝日館主内海氏が再建したとある。
現在の社風が当時のものか不明だが、歴史的建造物と推定される。
現本殿は昭和46年老朽のため再建された。
*巨勢麿とは、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿。小徳・巨勢大海の孫で、京職大夫・巨勢紫檀の子。官位は従三位・中納言。持統天皇7年(693年)直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年)民部卿に任じられる(ウィキペディア一部抜粋)。この年に陸奥に視察にでも出たのかもしれませんね~、その後、和銅2年(709年)陸奥・越後両国の蝦夷征討のため、陸奥鎮東将軍に任ぜられています。
*大野東人とは、天平元年(729年)陸奥鎮守将軍に任じられ、鎮兵の功績があって昇進し、その後も蝦夷の開拓を進め、天平9年(737年)正月に陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあったことから、このころに社殿を造営したものと思われます。
境内社です
では、次へ行きましょう
2023年4月7日午前6時40分訪問です
加美町役場南側道路を北西へ、約900mで信号を左(西)へ国道347号線です
約1kmで鳴瀬川の支流の田川を田川橋で渡って道成りに進みます、約2kmの三叉路は左(尾花沢方面国道)へ
約3kmで、右カーブの龍川寺の山門前を左(南)へ、間も無く鳴瀬川の河川敷に降りて行きます
赤い欄干の石神橋の東側、鳴瀬川の南側の山に飯豊神社が鎮座しています
石神橋を渡ってすぐ右に飯豊神社社務所が在り、左には駐車場があります
西向きに飯豊神社の一ノ鳥居が建ちます
参道を進みます
右側の斜面の上に大きなスギの幹が見えました
手水舎です
ニノ鳥居は北向きに建っています、石段を上ります
中段に水の出ているところが有ります
石碑も並んでいます
中段で右に折れ、更に石段を上ります
境内に上がって来ました
右手に鐘楼です
拝殿前に注連縄を巻かれた杉の大木ですが、目的の杉ではありません、大木の影にもスギの枝が見えます
拝殿です
社殿の北側に目的のスギです
南側から
町指定天然記念物 飯豊神社の大木(杉・松)の標柱です、裏面の文面には・・・スギは本殿南側にあり、幹回り5.5m、高さ約30mあり、古くから名木として名高く、18世紀後半に書かれた安永風土記にも記載されている。
松は本殿北側にあり、幹回り3.9m、高さ30mの大木である。
*裏側文面の南と北・(スギとマツ)が反対になっています、松は無くなってしまったようです
西側から見上げました
根元の割れた石は「夫婦石」と言って「御神体」だそうです、玉垣は平成28年に下区南氏子一同が建てたものです
本殿です
本殿標柱です、文面には・・・当社は慶雲2年(705)巨勢麿の勧請と伝えられ、延喜式内社として大石を御神体としたが、その後天平9年(737)大野東人が社殿を造営し、正安2年(1300)朝日館主内海氏が再建したとある。
現在の社風が当時のものか不明だが、歴史的建造物と推定される。
現本殿は昭和46年老朽のため再建された。
*巨勢麿とは、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿。小徳・巨勢大海の孫で、京職大夫・巨勢紫檀の子。官位は従三位・中納言。持統天皇7年(693年)直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年)民部卿に任じられる(ウィキペディア一部抜粋)。この年に陸奥に視察にでも出たのかもしれませんね~、その後、和銅2年(709年)陸奥・越後両国の蝦夷征討のため、陸奥鎮東将軍に任ぜられています。
*大野東人とは、天平元年(729年)陸奥鎮守将軍に任じられ、鎮兵の功績があって昇進し、その後も蝦夷の開拓を進め、天平9年(737年)正月に陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあったことから、このころに社殿を造営したものと思われます。
境内社です
では、次へ行きましょう
2023年4月7日午前6時40分訪問です