針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

もうじき飯倉五丁目の祭りでい。

2008-05-24 06:27:28 | 熊野さんのお祭り

 我が町、飯倉は増上寺、所謂、芝に隣接していた、背景もあって、江戸時代は武家屋敷も多く、昔は、結構、羽振りのいい人が多かったみたいだ。そんな中に熊野神社があります。この熊野神社、隣に飯倉小学校が出来た時に、境内を割譲させられた手前もあって、うんと小さい神社だ。

                      
 再び、神輿を担ぎ出した頃、まだまだ担ぎ手が集まらないので、この人数がやっと。

 地理的に見ても、隣は東京タワー、芝公園なので、隣町が普通の半分しかない。人口が半分って事だ。だから、神輿を担ぐ人手も止める間際では、他所からお金出してきてもらう始末だ。

                     
 年々、若者が増えてきた。神輿は小さくても、担ぎ手の心意気が大事。

 そこにくる神主さんはいつも、見入りも少なく、現神主=宮司のみっちゃんはアルバイトに出かける始末だ。なんせ、全て半分ですからね。

 そんな神社なので、お祭りも冴えなくて、神輿も出ないようになってしまった。そう何年もね。

                               

 そんな中、針達、青年部が再び神輿を出そうと決起した訳だ。当時飯五の飲み屋さん青年部の「飯倉亭」に宮司さん呼んで、今後の展望を大いに語り明かした。熊野さんのシンボルマーク「ヤタガラス」の版木を作って半纏の背中に入れるなんて話しもした。

 飯五は神社に協力的だが他の町会特に森○町会の当時会長は山形の人で、自分の思い入れている、「案山子祭りには力を注ぐが、神社の祭りになるとまるで、乗り気なしだ。神主が来ても「お前なんぞの若僧の話しは聞く必要は無い」なんていう始末だ。当時その森元の青年部を含め飯五の面々かなり憤慨したもんだよ。

         

 当初の目標は、小さい神輿でも一生懸命、大きい声を出して、担げばだんだん人も増えてくるし、マンションの上から窓を開けて見ている人も段々と下に下りて見にくるようになるし、しまいには、後を付いてくるようになるかも知れないと言う事だった。塵も積もれば山となる。その一つ一つの心意気の集まりが、大きな力になったんだ。

 針の家の前は保育園ですが、其処の保母さん連中にも声を掛けて出て貰っている訳だが、最初はモジモジしていたけど、一旦担ぐともう離れない。飯倉公園から出てたかだか5,600m位のところを一時間半以上掛けて練る訳だが、「女は強い」、ネヲ上げないぞ。鼻棒に齧り付いて離れない。まあ、肩に入っていないんだけど。(笑)

 でも、女性に容赦のない針が「もっと、肩入れろ!」って言ったら、ちゃんと担ぐ娘(こ)も出てきたよ。(わざと言ってるんだよ(笑)

         

 去年はその森○町会が「当番町会」だったので、最後の花道(商店街)を練った時は今までにない最高の盛り上がりとなった。(「案山子祭りよりも盛り上がっているぞ」と見せ付けてやったのだ。)

                      
  うちのあんちゃんも一回は担いだが、次の時はヘタッテしまった。ギタリストは肩を痛めたらまずいんだってさ。フンッ。

 流石にその後、その町会長も手を引いて、若者連中に任せた程だ。針の穴ほどでも勢いがあれば、絶対牙城でも崩せるの例えだ。

 最近、隣の三四町会もうなぎの「野田岩」の親爺さんが町会長になったんで、提灯をふやしたり、限定でうなぎを300円で出したり向島から芸者さんを呼んできて、鳴り物付きで神輿を出したり、よその町会も張り合ってきた。

 宮司のみっちゃんも顔が晴れ晴れとしているよ。担ぎ終わった時の皆の顔は、全く以って、幸福感に満ち溢れている。去年は麻布十番稲荷の神主が見に来たほどだ。「こんな小さな神社がどうしてこんなに盛り上がっているんだろう?」と不思議に思ったに違いない。

 来週は神酒所の設営だ。その一週間後が大祭だぞ。針の爺さんも「打ち出でまする」。

コメント (2)
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