針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

孫武と伍子胥。もう一人の孫子・

2020-07-08 12:10:06 | 漢詩・古典・エトセトラ

「戦わずして勝つ」という戦略思想。戦闘の防勢主義と短期決戦、また間諜(スパイ)の重要性等軍事研究において、戦略や戦術情報戦等幅広い領域で業績を残した。その軍事思想は現代に於いても有効性を失わず、今尚研究されている孫子の兵法です。

                   
                     孫 武

針外しの唯一知っているのは「敵を知りて己を知らば百戦して百戦危うからず」です。敵の軍勢の規模どういう街道をいつ通るか等情報が無ければ戦えません。孫子は情報戦が基本になっています。

孫武の逸話には、

 呉王の闔閭が「先生の著作十三編は全て読んだが宮中の夫人で少し軍の指揮を見せてもらう事は出来るか?」「分かりました。」孫武は宮中の美女180人を集合させ2つの部隊に分け武器を持たせて整列させた。そして王の寵姫2人を各隊の隊長に任命した。孫武が「貴方達は前後左右が分かるか?。と聞くと「ハイ分かります」と答えた。其処で将軍の印である鉄斧を置き命令を始めた。太鼓を打って「右」と号令すると、宮女達は馬鹿にしてどっと笑った。孫武は命令が既に明白なのに実行されないのは指揮官の罪なり」と言って隊長の寵姫2人を斬首しようとした、壇上で見ていた闔閭は驚いて「将軍の腕は既に良く分かった」余はその2人がいないと飯も美味くないので切るのは止めてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一度将軍として任を受けた以上陣中にあっては君命でも従いかねる事が御座います。土肥って闔閭の寵姫を2人共斬ってしまった。そして新たな隊長を選び再び号令を掛けると今度は女性部隊は命令通りに進退し粛然と声を出す者も無かった。軍令と葉かくもありきですが、昔から陣中に戯言なし」と言うように、一切の戯れ事、冗談事」は存在しません。それはそうだ、いったん軍令が発せられて、ある将兵が失敗して「今のは冗談でした」なんてありえません。こういう将兵は即、斬首です。

 孫子の兵法は孫武の作という定説が覆った事が有りました。1972年山東省の臨沂(りんき)県で発掘された一軍の銀雀山漢簡で「孫子の兵法13編、と孫臏の表した「孫臏兵法の竹簡が発見されました。分析の結果、孫武と孫臏は別人と証明された。孫武は伍子胥と共に闔閭に仕えていて、孫臏は一代下ります。孫臏は若い頃将軍の龐涓(ほうけん)の嫉妬から罪を着せられて「足切の刑」に処せられた。孫臏の臏と言う字は「足切」という意味があります。実は針が高校生の時に赤坂の本屋でこの書が出ていまして夢中になって読んだものです。

                   
                     孫 臏 

 歴史背景はWikipedia等で検証して頂くとして孫臏で有名な話は「馬陵の戦いで龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物を作り傍の木の絵dに板を吊るして「龐涓死於此木之下」(龐涓この樹の下にて死せん)と書き記させた。そして、その道の両側に兵1万を伏させ、兵達に「日没の後、此処に火がともるであろうからそれに向かって矢を射かけよ」と命じた。果たして計算通り夜半になって龐涓が到着して障害物を除けようとしてふと、木の枝に書かれたものがあると兵が言った為に自らこれを読もうと松明の火を掲げた。これに斉の伏兵が一斉に矢を放ち、軍は大混乱に陥った。自らが負けた事を悟った龐涓は「遂成豎子之名」(ついにあいつの名を世に知らしめてしまったの意)と言って息絶えた。

一方、伍子胥は孫武を闔閭に推挙して共に呉で働いたしたが、時に、太子 健に秦から嫁を貰う事になったが、少傅(しょうふ・副侍従長)の費無忌(ひむき)は楚に嫁いでくる伯嬴(はくえい・絶世の美女で嬴は秦の皇族の姓)を秦迄迎えに行ったがその美しさを見て太子ではなく平王に取り入ろうと考え側室に上げてしまい大使には別の女性をあてがってしまった。太子とすれば面白くありません。当然親子の対立となります。

                      
                                                                        伍子胥 

         伍奢とその子の伍尚(伍子胥の兄)と伍子胥もその影響力を費無忌に恐れられ平王に取り入っては伍家の一族の連座を図った。平王は伍奢を捕えて伍尚と伍子胥に「お前たちが都へ来たらお前達の父を助けると使者を送った。伍子胥はそれが伍家全員を殺す為と見抜き兄に逃げるように誘うが伍尚は父を見捨てられないと都に向き捕まり結局殺されてしまった。伍子胥は巧く呉に逃げられて復讐を誓う訳です。

 柏挙の戦いで孫武と共に出兵して兵法の天才孫武と地理に詳しい伍子胥の働きでついに楚の都、郢(えい)を陥落させます。楚の平王は既に死んでいて墓の所在が分からなかったが土地の者の子束に大きい穴を掘って其処に埋葬し、更に其処へ水を流して巨大な湖とした事を聞き、水を抜き王墓を暴き屍体を引きずり出して300回にも及び屍体を鞭打ったとあります。これが「屍体に鞭打つ」の語源になりました。歴史を紐解くと飽きる事を知りませんね。

コメント
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