針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

時代は下って臥薪嘗胆。

2020-07-10 06:31:20 | 漢詩・古典・エトセトラ

紀元前496年迄遡った話です。
中国戦国時代、呉と越の話です。呉と越と言えば「呉越同舟」ですね。「敵同士が同じ船に乗る」「そんなのはあり得ないという事です。

また有名な話しとしては、「天勾践を空しゅうする事勿れ、時に范蠡無きにしも有らず」これを最初読んだ時に「テンコウセン」てなんだ?。船の名前なのかえ?。なんて思った事も。↞嫌だねー、その学の無い事!。その意味が分かったのも最近になってから。(顔、真っ赤!)
「天は勾践を見放すようなことはしない。必ず范蠡のような忠臣が現れて助けてくれる」の意味。

 越を強国に築き上げた王の允常(いんじょう)が亡くなると太子の勾践が後を継いだ。この允常の死を機に呉王闔閭が孫武の反対を退け、越に大軍を率いて攻め込んだ。しかし、父の代から仕えていた范蠡の奇策で呉軍を欈李で大敗に追い込んだ。この時越の武将の放った矢で闔閭が足を負傷し、これが原因で、破傷風に罹(かか)り陣没した。呉でも太子の夫差が即位して、対立はさらに深まった。夫差は伍子胥の補佐で呉を立て直して悦に攻め込んで今度は越を滅亡寸前まで攻め込んだ。

                         
                                 夫 差

勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を申し入れた。これに伍子胥は猛反対したが、押し切って和を受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召使になって使えることになったが、范蠡の工作によって程なく越に戻る事が出来た。勾践はこの時の悔しさを忘れず部屋に苦い「肝」を吊るし毎日舐めて復讐を誓ったのである。これを会稽の恥といいます。この会稽の恥は中国の書物では頻繁に出てきますので覚えておくといいですね。

                         
                                勾 践


 呉王夫差が薪の上に寝てその痛みに耐えた事と勾践が肝を舐めて復讐を誓った事を合わせて「臥薪嘗胆」という故事になりました。一説には臥薪嘗胆は勾践一人の事とする説もあります。もしかすると、勾践だけだと面白みが無いので、前者の方を定説にしているのかも知れません。

越は着々と国力を蓄えて夫差が中原の会盟に出かけた時を狙って呉に攻め込み、太子 友を斬り殺した。夫差は慌てて呉に戻ったがその後、越に滅ばされてしまった。

呉を滅ぼした勾践は越の都を琅琊(江蘇省の連雲港市海州区)に遷都し、諸侯を会盟して中原の覇者になった。が勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種が自害したりして、衰退してしまった。人間喉元を過ぎると、昔の苦労を忘れがちになります。よく「治世に於いて乱を忘れず」といいます。また「天は人の安逸を許さない」と言いますね。武道でも、「残心」と言う言葉があります。「四六時中気を張る」事はしなくていいですが、一寸心の片隅に要心をして置くことを忘れずにね。

 

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