時は184年,張角の唱えた太平道「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」という新興宗教であった黄巾の乱が勃発して,漢の末期(後漢)は天下入り乱れて混沌の時代となります。「中山靖王の末裔」の劉備玄徳、と私塾を開いていた雲長関羽、と鴻家の家にいた張飛翼徳が桃園にて「義兄弟の契り」を結んで手勢を率いて立ち上がる訳です。(これを桃園の義といいます)
この時期には諸葛亮は「自らを管仲、楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていた。
諸葛 亮 孔明
諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は三度足を運び、熱意を以て諸葛亮を迎えたがこれを「三顧の礼」というのは有名な話ですよね。
孔明の嫁さんは黄承彦の娘で「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。因みに、鳳雛先生の龐統は黄承彦の親戚であり、諸葛亮は奥さんを通じて龐統と親戚でもあります。
『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽(水鏡先生)を訪ねた折、諸葛亮は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また「伏龍、天に昇らんと欲すると雖もその時を得ず」と言ったとあります。
諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」と呼びます。そしてこの時劉備が言った言葉に「水を得た魚のようだ」(これを「水魚の交わり」と言います)
建安13年(208年)劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。その為に長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じてて家宝を見せると騙し高楼の上に諸葛亮を連れ出して挙句に梯子を外して助言を求めた。孔明は仕方なく助言をした訳ですがこれが後に窮地を救う事になります。
諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏してしまった。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた。この時劉禅阿斗を抱いて曹操の軍を蹴散らし鬼神の働きによって渡り合い突破した趙雲子龍の話は有名で、長坂橋の戦いとして語り継がれています。
趙雲 子龍
曹操軍に追いつかれて「これ迄」と覚悟を決めた折に危機一髪で劉琦の援軍に助けてもらう事が出来ました。
孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛(あの「外には周瑜、うちには魯粛に問え」の魯粛です。)
派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。
この際、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。何故曹操の下につく事などできましょうか」と答えた。
当時呉の内部では主戦派と投降派に分かれていましたが、孫権も迷いましたが、孔明が一つの歌を披露します。孔明は曹操が「二喬」を欲しがっていると告げ、更に曹操の子・曹植がその望みを謳った詩「銅雀台賦」を諳んじたことで周瑜は激怒、孫権に対し主戦論を主張する。これによって孫権は開戦を決意します。
その大喬は孫策夫人で小喬は周瑜婦人なのでした。孔明は其の事を重々承知して、とぼけて話をしたのでした。レッドクリフでは小喬が曹操の元に人質に向かうなんてありますが、全く以てふざけた話です。
その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域(昔は揚子江って言ってました)流域で対戦する事となります。