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自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

臥竜先生 諸葛孔明(3)

2020-08-27 16:45:31 | 漢詩・古典・エトセトラ

 赤壁に戦いの後、劉備たちは荊州南部の4郡を手に入れます。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が孔明の推挙にて劉備の陣営に加わります。

最初龐統と会った劉備は容姿の醜かった龐統を見て御興褪めして地方官の役を与えて追いやります。龐統は任地に赴き、毎日、酒を飲んでは寝てばかりです。ある時、張飛が見回りに訪れてこの有様を見てなじると、「こんな事は造作もない事です。半日もあれば」と言うので、やらせてみると、山のように積んであった訴状を半日も掛からないで処理してしまいます。張飛の驚く事。飛んで帰ってこの一部始終を報告します。諸葛亮,大笑して、「龐統は、そんな処に居る人間ではありません」。劉備、大いに恥じたとあります。

 建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米教の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正と張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛、趙雲、劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定し諸葛亮らは戦うところすべてで勝利した。郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲し、蜀の国に入ります。

その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州が孫権に奪われ、荊州の留守をしていた関羽が捕らえられ、斬殺された。

 劉備の養子の劉封が孟達,申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去した。翌年、劉備は成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相となった。

 劉備が関羽の敵討ちの為に呉へ進軍を計画した。しかし、この戦いの準備段階で飲んで寝ていた張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は和睦を行おうとしたが、孔明の言に従わず返って、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった。これを夷陵の戦いと言います。この戦いの後、諸葛亮は「法孝直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた。これは孔明の失策だったと言えます。だんだん孔明の意図とは違った方向に歴史は進んでいきます。

 劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で崩御する。崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子、劉禅が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。此の時「託孤の臣」には李厳も指名されている。「託孤の臣」とは父に死なれ、幼くして即位した君主の補佐を頼み、国政をゆだねられる重臣のこと。

           

 また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わないからけ重機に用いる莫れ、そなたはその事を忘れずにな」と言い残した。後に街亭の戦いで、孔明の指図に従わず、山の上に陣取り、水場を押さえられて司馬懿仲達に負けてしまいます。これが蜀軍の先行きを決定付けてしまいます。

             
              何の、変哲もない小高い山だが、馬謖は水を断たれて惨敗します。

馬謖は孔明の後を継ぐ天才でありながら、自分の才に溺れて大敗してしまいます。孔明は馬謖の才を惜しみながら首を刎ねる事を命じます。これが有名な「泣いて馬謖をきる」の経緯です。            

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