周瑜はまだ野に居た鳳雛先生事、龐統を曹操の元に向かわせ曹操の大船団が、川が怒涛のように荒れ狂い船酔い、疫病に苦しんでいる様子に乗り込んでいき「船を鎖でお互い繋ぎ止めれば静かなる事大地を進むが如くです」と進言します。案の定揺れがピタッととまり、曹操もかなり安堵します。しかし、これは龐統の謀だったのです。ただ徐庶だけはそれを見抜いており、わが身の安全を龐統に問て、北方の馬騰の抑えになることを申し出て戦場から離れ難を逃れます。(これを連環の計)と言います。
周 瑜 鳳雛先生事、龐統 士元
右側が河口になります。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙します。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し・張允が旧友のよしみで呉軍に訪ねて来た時,大飲させて机の上に蔡瑁にあてた偽の内通の書をわざと置き忘れて荊州水軍の要である蔡瑁を曹操の手によって殺させてしまいます。
更に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の仇を打ちたい従弟の蔡中、蔡和を利用し、偽情報を曹操軍に流させる。周瑜は将軍の黄蓋と共謀してわざと諍いを起こして老将の黄蓋をむち打ちにします。そして蔡中・蔡和を通じて曹操に偽の降伏を申し出る。(これを苦肉の計といいます)曹操は疑り深いのでかなり手傷を負わせたとのことです。
いよいよ、曹操の大軍と赤壁で対峙する訳ですが、呉軍にはいい矢が不足していました。かつて諸葛亮を恐れていた呉の大都督 周瑜は難題をかけて諸葛亮に一週間で矢を10万本揃えるように要望します。すると諸葛亮は「戦にそんな時間を費やせられない、私なら三日で揃えて御覧にいれましょう」と。呉の面々は驚くばかりです。魯粛は「先生軽々しくそんな事を言って大丈夫ですか?」すると孔明は船を三艘用意させ、藁で芯を作り周りを白い布で覆い、曹操の大軍に向けて夜半に出航します。
赤 壁
到着すると孔明は琴を鳴らし、船を横向きにして敵前に停泊させます。慌てた曹軍は矢を雨アラレと打ち込み、時を得て今度は船先を反対に向けて矢を射こませます。こうして、矢で針ネズミのようになった船を呉軍迄引き返すと10万本どころか一説によると30万本も用意してしまいます。
周瑜は内心驚きいよいよ孔明を亡き者にしようと思う訳です。
苦肉の計を進めたいのですが一つ難題が残ります。それはこの時期十月は北西の風が吹いていて呉軍にとって逆風だった訳だ。散々悩んでいると孔明が「私が東南の風を吹かして御覧に入れましょう」孔明は七星壇を作らせて祈祷に入ります。皆は訝しがりますが、後1日の頃東南の風が吹き始めます。これは祈祷ではなく、一年でこの時期に東南の風が吹く事を孔明は知っていたのでした。
すわこそとばかりに苦肉の策を実行に移します。曹操の大船団に近付いた黄蓋はまんまと火を放ちます。曹操の見張りは船の汽水線が軽いのを見破りますが、大船団に近付いた黄蓋はまんまと火を放ちます。
曹操の船は龐統の策によって鎖で繋がれており逃げるに逃げられない。あっという間に大火災となります。こうして、曹操は命からがらやっと逃げます。一方孔明はかねてから周瑜のたくらみを感知しており、東南の風が吹くや否や、その機に乗じて呉を脱出します。
呉軍の大勝利となり大敗した曹操の軍は烏林に兵をまとめて逃走します。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかける。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認する。(昔、漢寿亭候の位を授けてもらった恩義があります)
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、立て直すのに長い年月がかかります。以後荊州は劉備と孫権の係争地になります。