三国志では蜀、劉備、関羽、張飛、趙雲の話ばかりなのでちょっと片手落ちね。其処で目を付けた御仁をとり上げてみました。因みに曹丕は好きではありません。
曹植(そうしょく、または、そうち)大概そうしょくって言ってますよね。を取り上げます。
初平3年-太和6年(192-232) 中国後漢末から三国時代の人物で、魏の皇族。字は子建。陳王に封じられ、諡号は思であったことから陳思王とも呼ばれる。唐の李白・杜甫以前における中国を代表する文学者として、「詩聖」の評価を受けた人物でもある。沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。曹操の五男として生まれる。
曹 植
生母の卞氏は倡家(歌姫)の出身であるが、「世説新語」賢媛篇に名を列ねる賢婦であった。同母兄に文帝曹丕・任城威王曹彰。同母弟に蕭懐王曹熊。子は曹苗(早世)・曹志。他に2人の娘がいた。
異母兄の曹昂と曹鑠が早世すると、197年頃に卞氏が正室に上げられ、曹植は曹操の正嫡の三男となる
幼い頃より詩など数十万言を諳んじ、自身も詩人であった曹操に寵愛された。211年、平原侯(食邑5000戸)に封じられ、214年、臨葘侯(同)に転封される。
曹植は礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと奔放さをあわせ持った、天才肌の貴公子であった。詩人としてのみならず、実際には父の遠征に従って14歳から従軍し、烏桓遠征、潼関の戦いや張魯征討など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っている。戦場の空気に馴染んでいたとみられる。
このころより詩・賦の才能がさらに高まり、ますます曹操の寵愛は深くなる。同時に、この頃から長兄の曹丕との後継争いが勃発する。彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強かったが、217年、正式に曹丕が太子に指名され、以降は曹植と側近者たちは厳しく迫害を受けることになる。
220年、曹操が没すると側近が次々と誅殺され、221年には安郷侯に転封、同年のうちに鄄城侯に再転封、223年にはさらに雍丘王(食邑2500戸)、以後浚儀王・再び雍丘王・東阿王・陳王(食邑3500戸)と、死ぬまで各地を転々とさせられた。
この間、皇族として捨扶持を得るだけに飽き足らず、文帝曹丕と明帝曹叡に対し、幾度も政治的登用を訴える哀切な文を奉っている。特に明帝の治世になると、親族間の交流を復することを訴える文章が増える。230年、母卞氏が没し、最大の庇護者を失う。その後も鬱々とした日々を送り、232年11月28日、「常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して」41歳で死去。子の曹志が後を継いだ。一説によると曹植は曹丕の奥方の甄氏(しんし)に恋焦がれていたとか。
甄氏(しんし)
甄氏は袁尚の息子の嫁であったが曹操が袁尚を破った後、長男の曹丕に嫁がせたとあります。有名な詩に「七歩詩」がありますね。「よくみのもんた氏」が何かにつけて取り上げていました。
七歩詩 曹植
煮豆持作羹 漉鼓以為汁 豆を煮て持て羹と作し鼓を漉して以て汁と為す
豆を煮て濃いスープを作る豆で作った調味料を濾して味を調える
萁在釜下燃 豆在釜中泣 萁は釜下に在りて燃え豆は釜中に在りて泣く
豆がらは釜の下で燃え豆は釜の中で泣く
本是同根生 相煎何太急 本同根より生ずるに相煎ること何ぞ太だ急なると
豆も豆がらも同じ根から育ったものなのに豆がらは豆を煮るのにどうしてそんなに激しく煮るのか
曹操の元には敵国の細君が多数集まっていたので、後、後継者争いが起きるのは火を見るよりか明らかですよね。人間と言う動物は先の事がよめませんね。一歩先は闇と言いますが、なかなか先は読めませんね。
権力の中に身を置いていると、良い事はありません。昔2000円札作った小渕恵〇首相は、脳梗塞であるのに、権力に居座ったので、死ぬ羽目になってしまいました。
竹林の七賢人ではありませんがそういう世界から離れて暮らすのを選ぶ方がいいのかも知れません。