東京都交響楽団定期 「ハイドン:交響曲第103番」 トゥルコヴィッチ

東京都交響楽団 第682回定期演奏会Aシリーズ

ハイドン 交響曲第13番
モーツァルト ピアノ協奏曲第20番
ハイドン 交響曲第103番「太鼓連打」

ピアノ アンティ・シーララ
管弦楽 東京都交響楽団(コンサートマスター 山本友重)
指揮 ミラン・トゥルコヴィッチ

2009/6/19 東京文化会館



当初予定のゲルハルト・ボッセが体調不良で降板したため、ウィーン・コンツェルトゥス・ムジクスに所属するミラン・トゥルコヴィッチが急遽、指揮台に立つこととなりました。東京都交響楽団の定期演奏会へ行ってきました。

失礼ながらもトゥルコヴィッチは名前も初めて聞く指揮者でしたが、彼の音楽センス、とりわけハイドンに関しては思いもよらぬほど優れた演奏で感心させられました。白眉は一曲目の第13番です。アレグロの第一楽章からして表情は極めて快活で、インテンポで刻まれる音楽のリズムは、あたかも舞踏曲を聴いているかのような愉悦感にも満ちあふれています。評論家用語を借りると「推進力」という言葉が相応しいのかもしれません。思わず身体を乗り出しそうになってしまうほどでした。

また一転しての緩やかな独奏チェロの入る第2楽章、それにフルートソロの美しいメヌエット楽章を経由してのフィナーレは、まさにハイドンはこうあるべきという見本のような溌剌とした演奏ではなかったでしょうか。繰り返されるフーガ風の「ジュピター動機」も極めて見通し良く整理され、古楽器的な奏法も一部取り入れた効果もあってか、それこそコンツェルトゥス・ムジクスを思わせる響きが文化会館に広がっていました。メインの103番は編成も大きいからか、13番の時のような瑞々しさは幾分減退し、ベートーヴェンの第1、第2交響曲を連想させるような堂々とした表情が印象に残りましたが、それも四隅を揃え、なおかつ弦と管の対比にも注意を払いながら、立体感のある音楽美を引き出すことに成功していました。代役と言わず、是非また共演していただきたいものです。

J.Haydn Symphony 103 'Drumroll' - Koopman Mvt 4

*コープマンのややクセのある太鼓連打。最終楽章です。

一方、シーララとのピアノ協奏曲は、指揮との呼吸にも若干の齟齬があったのか、今ひとつ乗り切れない演奏に終始していました。シーララ自身は以前、読響でバルトークを聴いて感心したことがあったので、ひょっとするとこの日はあまり調子が優れなかったのかもしれません。ただしアンコールのショパンは叙情性にも長けた演奏だったことを付け加えておきます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

新国立劇場 「ロッシーニ:チェネレントラ」

新国立劇場 2008/2009シーズン
ロッシーニ「チェネレントラ」

指揮 デイヴィッド・サイラス
演出 ジャン=ピエール・ポネル
合唱 新国立劇場合唱団
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
キャスト
 ドン・ラミーロ アントニーノ・シラグーザ
 ダンディーニ ロベルト・デ・カンディア
 ドン・マニフィコ ブルーノ・デ・シモーネ
 アンジェリーナ ヴェッセリーナ・カサロヴァ
 アリドーロ ギュンター・グロイスベック
 クロリンダ 幸田浩子
 ティーズベ 清水華澄

2009/6/10 新国立劇場オペラ劇場



アルマヴィーヴァ(2002年。セビリアの理髪師。)でのシラグーザの美声が忘れられず、久々に新国立劇場でオペラを観劇してきました。故ポネル演出による定番の舞台を今に蘇らせます。ロッシーニの「チェネレントラ」を聴いてきました。

まず一にも二にも挙げるべきは、その目当てのアントニーノ・シラグーザに他なりません。第一幕、チェネレントラに一目惚れするラミーロことシラグーザは、序盤こそセーブ気味なのかそれほど目立ってはいませんでしたが、後半の第二幕、とりわけチェネレントラに再会を誓う「誓ってまた見つける」の大アリアでは、ハイCも見事に決まっての歌唱で会場を大いにわかせてくれました。(まさかのアンコールまで付いていました。)2002年の時と比べると幾分声は太く、また状態もあったのか声量は小さめでしたが、あの甘美な歌声は、世界でも随一のロッシーニの歌い手としての実力を知るに相応しいものではなかったでしょうか。初台で再びシラグーザの声を聴けただけでも、本公演の満足感はほぼ得られたというものでした。

ラミーロの相方を務めた大御所、アンジェリーナ役のヴェッセリーナ・カサロヴァは、声に凄みを効かせたいつもの語り口ではありながらも、その低めの声質が、とりわけ召使い(灰まみれ=チェネレントラ)として虐げられる前半部分のキャラクター性といささか合わないような気がしてなりませんでした。とは言え、フィナーレの部分、ようはかつての姉や父たちの行動を許し、また人間愛を高らかに歌う「悲しみと苦しみから生まれた心」のアリアはさすがの貫禄で舞台を引き締めます。夜会に登場する際の黒のドレス姿がまるで夜の女王のようで驚かされましたが、どちらかというと今の彼女はもっとドラマテックで力押しが出来る役の方が向いているのかもしれません。また指導に問題があるのか、演技に関しては感心しませんでしたが、寄り添うシラグーザとの息はぴったりでした。

歌唱面では、安定した外国人のキャストの他、演技にも冴えた二人の姉、幸田浩子と清水華澄を是非とも触れないわけにはいきません。前述の通り、不思議にも外国人キャストにおいて殆ど演技らしい演技のない舞台でしたが、終始ブッファらしいドタバタ劇をコミカルに立ち回る彼女らの仕事ぶりは、本公演の成功にも大いに寄与するところではなかったでしょうか。歌に演技に訓練された合唱団はいつもながら隙がありませんでしたが、彼女らの好演もこの舞台に活気を与えていました。

Antonino Siragusa - tenor - G. Rossini - L'italiana In Algeri

*シラグーザ出演のアルジェのイタリア女。リンドーロは十八番です。アジリタも流麗です。

デイヴィッド・サイラス率いる東フィルは上々です。ロッシーニの最大の魅力でもある沸き立つようなリズム感こそ十全ではありませんでしたが、小気味良く立ち回るヴァイオリン群の機動性を活かし、透明感にも溢れた木管を導きながら、いささか真面目過ぎる嫌いはあるものの、破綻なくロッシーニ・クレッシェンドを聴かせていました。また時にテンポを落とし、舞台上の劇に観客の注意を向けていた点も興味深く思われます。歌を邪魔しない指揮であったことは間違いありません。

演出上で一つ感心したのは、一幕第一場のラスト、アリドーロがただ一人、アンジェリーナに向かって自分が城へ連れていくと説くシーンです。それまでの五重唱で繰り広げられた「行く行かない。」の騒ぎは終わり、ここで一端幕を降ろした上にて二人だけが互いに内面をぶつけるようにして歌い合います。アリドーロの確信とアンジェリーナの迷いの対比、またスポットライトに照らされ、幕に大きく影絵のように映るアリドーロのドン・アルフォンソ的な立ち位置が、このシーンで器用に示されていたのではないでしょうか。ブッファとは言え、階級の問題云々など、シリアスな面もあるこの劇のエッセンスを抉りだしていたと感じました。

Juan Diego Florez "Si, ritrovarla io giuro" Cenerentola 2008

*こちらはもう一人のロッシーニテノール、フローレスの見事なアリア。

後半に向けてオーケストラ、歌手とも調子を上げる新国立劇場の公演のことです。これから終盤に向けて、さらにシラグーザの至芸も一層冴えてくるのではないでしょうか。期待をほぼ裏切らない公演でした。
コメント ( 7 ) | Trackback ( 0 )

東京フィルオーチャード定期 「チャイコフスキー:交響曲第5番」他 飯守泰次郎

東京フィルハーモニー交響楽団 第771回オーチャード定期演奏会

チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番
チャイコフスキー 交響曲第5番

ピアノ アンドレイ・コロベイニコフ
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター:荒井英治)
指揮 飯守泰次郎

2009/5/10 オーチャードホール



日曜昼下がりのオーチャード、定番の超名曲プロでも、飯守泰次郎とあらば気の抜けた演奏などあろうはずもありません。東フィルのオーチャードホール定期を聴いてきました。

あまり時間も経たずに同じピアニストを聴けるとは奇遇です。冒頭のピアノ協奏曲のソリストを務めるのは、つい先日、LFJで果敢に迫るバッハを披露したロシアの俊英、弱冠23歳のアンドレイ・コロベイニコフでした。相変わらず彼のピアノはダイナミックです。飯守サポートで管も全開のオケに負けることなく、音をホールいっぱいに行き渡るまで半ばガンガンと打ち鳴らしていきます。とは言え、彼の魅力はそうした激しいフォルテよりも、もっと控えめで落ち着いた、p方向の表現の箇所にあるのではないでしょうか。軽やかな音を奏で、まるでシャボン玉を吹くかのようにして音符を舞わせる様は、決して若さだけで力押ししないコロベイニコフの才能を伺い知るのに十分です。またその特性は、アンコールのチャイコフスキーの「四季」より、6月の「舟歌」でも存分に味わえました。是非また聴きたいピアニストの一人です。

メインのチャイ5は飯守節全開の力演となりました。金管はさながらブルックナーでも演奏するかのように猛々しく彷徨させ、弦は高音と低音部の対比を明確に、また木管群は全体より浮き上がるかのようにして瑞々しく吹かせます。そして圧巻なのは最終楽章です。かなり早めのテンポの3楽章よりほぼアタッカで入り、そのまま息も切らさぬスピードで「運命の動機」へとすすめ、ここで一端テンポを落としてじっくりと歌った上にて、アッチェレランドのかかる高速コーダでワーグナーばりの高揚感を演出しました。緻密さという点にはやや欠けた面はありましたが、濁流のように進み、また歌うところでは濃厚に歌うオケのドライブ感、またその力強さは、最近の飯守らしい見事な内容ではなかったかと思います。東フィルもかなり好調でした。

Mravinsky-Tchaikovsky I

*定番のムラヴィンよりチャイ5の第1楽章。

終演後はもちろん拍手喝采です。健闘したトランペットはもちろんこと、情熱的な演奏で一際目立っていたティンパニに大きな拍手がおくられていました。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009」 公演番号132、334、278、315

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2009の有料公演が昨日終了しましたが、私が聴いた上記公演番号の4公演の感想を手短かにまとめておきたいと思います。



公演番号132 5/3(日)11:15~ ホールB5
 J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲ト長調BWV988
 ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ)


長大なゴルトベルクをロマン派の一大叙情詩の如く弾ききったベレゾフスキー。彼の本調子とは離れている気はしたが、厳格なバッハの音楽を半ば崩すかのようにして、時に憂鬱に、また反面の快活に打ち鳴らす様は、ピアノ曲から広がる世界をゆうに超えたドラマテックなオペラを聴いているかのような錯覚さえ与えられた。雄弁なゴルトベルクも面白い。

公演番号334 5/5(火)15:45~ ホールB5
 F.クープラン 4声のソナタ「スルタン妃」/テレマン リコーダー、弦楽、通奏低音のための組曲イ短調
 カプリッチョ・ストラヴァガンテ
 ジュリアン・マルタン(リコーダー)
 スキップ・センペ(チェンバロ・指揮)


注目のセンペとその手兵によるプログラム。丁寧な調律から始まったのは、各々の楽器の音色が溶け合って一つになる甘いハーモニーだった。なかでも秀逸なのは後半のリコーダーのソロを入れたテレマンの組曲。指が的確極まりなく廻るジュリアン・マルタンのリロは表情豊かでかつ瑞々しく、それが小気味よく立ち回るヴァイオリン、そして底部を支えるコントラバスと見事に掛け合っていた。もちろん全体をあうんの呼吸でまとめあげるセンペのチェンバロもそつがない。ソロはチケットが取れずに泣く泣く断念したが、いつかは彼のリサイタルを聴いてみたいもの。

公演番号376 5/5(火)17:45~ ホールG409
 J.S.バッハ パルティータ第5番ト長調BWV829、第6番ホ短調BWV830
 アンドレイ・コロベイニコフ(ピアノ)


大胆に鳴らすフォルテと、一方でのソフトタッチな弱音部にも神経が行き届いたレンジの広いパルティータ。一気にアクセルを踏んで加速したかと思うと、ふと手の力を抜き、キーへ沈みこませて、音楽に絶妙な表情をつけていた。時に唸りながら情感をこめ、ピアノへ立ち向かうその姿勢は、ピアニストというよりもまるで格闘家のよう。とは言え、トリルなどの技巧の安定感も抜群。終始、バロック音楽の構築美を損なわずに演奏する点に、バッハに対する深い読み込みを思わせるものがあった。

公演番号315 5/5(火)19:45~ ホールA
 J.S.バッハ マタイ受難曲BWV244
 シャルロット・ミュラー=ペリエ(ソプラノ)
 ヴァレリー・ボナール(アルト)
 ダニエル・ヨハンセン(テノール)
 ファブリス・エヨーズ(バリトン)
 クリスティアン・イムラー(バリトン)
 ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル
 ミシェル・コルボ(指揮)


奇を衒うことを全くせず、まるで受難のモノローグを一人で切々と語るかのように進む、コルボらしい内省的なマタイ。透き通るような声を聴かせる合唱はもちろん、清々しい響きで音楽に表情をつける木管群など、定評のあるローゼンヌ声楽・器楽アンサンブルの機動力も見事だった。もちろん歌手も素晴らしい。イエスへの愛を歌うソプラノのペリエ、またアルトのボナールをはじめ、情感のこもった進行で場の雰囲気を盛り上げた福音史家のテノール、ヨハンセンなどはとりわけ印象的。通常休憩を挟む第一部終了後、音楽が進み、二部冒頭のイエスへ死を告げる箇所で休憩となったが、そのまま通して演奏しても気にならないくらいの集中力があった。LFJで聴いたコルボではフォーレのレクイエムが一番感銘を受けたが、それに匹敵するくらいの高いレベルの演奏ではなかっただろうか。



今年は自分のスケジュールもあってか、コンサート以外のLFJならではのイベントにあまり参加出来ませんでした。年々、チケット争奪戦も厳しくなり、ぶらりと有楽町へ立ち寄って音楽を楽しむというイベント色は薄くなくなってきていますが、マスタークラスやキオスク、地下広場、もちろん屋台村などこそお祭りならでの企画でもあるので、なるべく来年はもう少しその辺にも足を突っ込んでみるつもりです。

ところで来年のLFJはショパンやシューマン(?)と聞きました。これまたピアノなどで人気の作曲家だけあってチケットも大変なことになるのではないでしょうか。私としてはどちらかと言うと後者の方に関心があるので、そちらをメインにしてまた行きたいと思います。

*追記:来年のテーマはショパン!(LFJ公式ブログ)
ショパンの他にシューマンではなく、リスト、メンデルスゾーン、パガニーニ、またロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティらを取り上げるそうです。



*関連エントリ
「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 2009」@東京国際フォーラム
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

東京シティ・フィル定期 「ハイドン:天地創造」 飯守泰次郎

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 第226回定期演奏会

ハイドン オラトリオ「天地創造」(全3部)

ソプラノ 市原愛
テノール 望月哲也
バス 成田眞
合唱 東京シティ・フィル・コーア
お話 吉田進
管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
指揮 飯守泰次郎

2009/2/20 19:00 東京オペラシティコンサートホール



上野時代は度々お世話になりましたが、初台へと本拠地を移してからの公演へ行ったのは初めてでした。東京シティの定期演奏会よりハイドンのオラトリオ「天地創造」を聴いてきました。

ミルトンの「失楽園」、及び旧約「創世記」などを元に構成された全110分にも及ぶ大曲を、ほぼ緊張感を削ぐことなく演奏し得たのは、やはり指揮の飯守に抜群の求心力があったからではないでしょうか。飯守というと、さもすればワーグナーの公演を挙げられるように、ロマン派音楽を勇壮に聴かせるエネルギッシュな指揮者のイメージを持っていますが、オーケストラの地力も露となるような、半ば『騙し』の利かない古典派音楽の魅力を素直に引き出すことにも十分に長けています。決して機能的とは言えない同オーケストラへ的確な指示を送り、「音による絵画」(解説冊子)にも興味深いハイドンのシンプルながらも凝った音楽を、時に逞しい合唱団の力を借りながら見事にまとめあげていました。流石の安定感です。

ピリオド楽器の奏法も公演を引き締めます。神の栄光を輝かしく讃える華麗な前半部の音楽は過度に装飾することなく清涼に響かせ、一方でのアダムとエヴァの邂逅を歌う第3部においては微笑ましく温かい愛の調べを小気味良く聴かせていました。また合唱、オケとも尻上がりに調子をあげていたのが印象的です。前半部はやや合わない部分もありましたが、特に休憩を挟んでの第3部は相当の水準に達していたのではないでしょうか。終結部の高らかな「アーメン」はホールいっぱいに瑞々しく響いていました。

歌手ではバスの成田が別格です。堂々とした歌唱で周囲を圧倒していました。次点ではソプラノの市原愛ではないでしょうか。可憐な歌声はエヴァ役にぴったりとはまっていました。

冒頭には、ハイドンとメイソンの関係を解説する作曲家の吉田進氏の『お話」がありました。もちろんこうした試みには拍手を送りたいところですが、充実した内容はともかくも、如何せん話し振りがやや硬すぎました。折角のライブなので、もう一歩アドリブをきかせた遊び心があっても良かったと思います。

会場は大入りでした。終演後、合唱団が退場するまで拍手が鳴り止まなかったことを付け加えておきます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

オーケストラ・ダスビダーニャ定期 「ショスタコーヴィチ:交響曲第10番」他 長田雅人

オーケストラ・ダスビダーニャ 第16回定期演奏会

ショスタコーヴィチ オラトリオ「森の歌」(改訂前の歌詞による)
ショスタコーヴィチ 交響曲第10番

テノール 小貫岩夫
バス 岸本力
混声合唱 コール・ダスビダーニャ
児童合唱 すみだ少年少女合唱団
管弦楽 オーケストラ・ダスビダーニャ
指揮 長田雅人

2009/2/15 東京芸術劇場大ホール



アマチュアのオーケストラ「オーケストラ・ダスビダーニャ」が、ショスタコーヴィチのために全てを捧げます。年に一度の定期演奏会へ行ってきました。

実はそもそもお金を払ってアマオケを聴くのが初めてでしたが、ともかく団員の方々の熱気、そして情熱には、終始頭が下がるものがありました。最近でこそメジャー作曲家の仲間入りをしたとは言え、さほど人気もないショスタコーヴィチを演奏するためだけに作られた団体というだけでただならぬ気配を感じますが、さらには「森の歌」や「第10番」などの演奏機会の少ない曲を果敢に攻めて表現し得たというだけでも、十分に称賛に値するのではないでしょうか。年に一度、まさに一期一会にかける熱意は、客席にただ座る私にも十分に伝わってきました。美音などもろともせず、ショスタコーヴィチ自身の叫びを示すかのように音を裂くトランペット、千手観音の如く手を振り乱して、ホールを割れんとばかりに叩きまくるティンパニ、そしてロックでも演奏するようにノリにのった小太鼓など、まさにアマオケならではの醍醐味を存分に楽しむことが出来ました。音楽の構造、そしてハーモニーを提示するよりも、曲の奥底にあると信じたい『魂』を抉りとることに関しては、プロのオケでもなかなか出来るものではありません。ダスビの公演からはそうした面を強く感じました。

明暗の対比も過激に、時にアンサンブル崩壊寸前の超快速テンポで聴かせる「第10番」も楽しめましたが、より興味深かったのは実演では初めての「森の歌」でした。ショスタコーヴィチにしては薄気味悪いほどに明快な音楽で、スターリンのあくまでも植林事業を超ど級のスケールで描くこの曲を、ダスビは改訂前の言語テキスト、つまりは直接的にスターリンをたたえる文言の入った内容で高らかに歌い上げます。とりわけ全合唱、及びソロの入る第7曲「栄光」の力強さは圧巻の一言です。迫真に満ちた「スターリンに栄えあれ!」というフレーズが頭を離れません。ショスタコーヴィチはこの音楽で名誉を回復し、また一方で自身をある意味で傷つけざるを得なかったわけですが、今回の演奏はそうした歴史の暗部をまたリアルに再現していたのではないでしょうか。楽天的などんちゃん騒ぎの音楽が逆に心へ突き刺さりました。

第10番の後、アンコールに再度同曲のアレグロ楽章を演奏したのには驚きました。痛快なほどに鳴る金管、打楽器群とも最後の力を振り絞っての大熱演です。

SOLTI Shostakovich Symphony No. 10 Munich BRSO Live


preludeさんのお誘いがなければ、血潮の迸る本公演も聞き逃していたかもしれません。会場も満席でした。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

N響オーチャード定期 「ドヴォルザーク:交響曲第8番」他 エリシュカ

NHK交響楽団 第52回オーチャード定期演奏会

ドヴォルザーク スラブ狂詩曲第1番
モーツァルト フルートとハープのための協奏曲
ドヴォルザーク 交響曲第8番

フルート アンドレア・グリミネッリ
ハープ 平野花子
管弦楽 NHK交響楽団(コンサートマスター 篠崎史紀)
指揮 ラドミル・エリシュカ

2009/1/31 オーチャードホール

チェコのドヴォルザーク協会会長をつとめ、2008年には札幌交響楽団の首席客演指揮者に就任したラドミル・エリシュカがN響に初共演します。オーチャード定期へ行ってきました。

ともかく指揮者とオーケストラに関するならば、休憩を挟んだメインの「ドボ8」こそが全てであったと言えるのではないでしょうか。当然ながらこの曲を知り尽くしたエリシュカのこと、初共演となるN響相手にどこまで解釈を徹底出来るかにかかっていましたが、そうした初顔合わせの一種の齟齬は微塵もなく、まさに息の合った演奏を披露していました。エリシュカは決して奇を衒うことをせず、音楽の四隅を真面目なほどにピシッと揃え、常に前へと進む力を意識させる、力強くも大味にならない「ドボ8」を作り上げます。また第三楽章での甘美な旋律ではテンポを幾分落としてじっくり歌い、反面の快活なフィナーレでは時に情熱に満ちた指揮振りでN響から意外な烈しさを引き出し、音楽にメリハリのある表情を付けていました。率直なところ、この曲は「新世界」のようなドラマを感じさせるものでもない、ようは捉え難い面がありますが、それを散漫にせず、全編を太い芯で貫いたようなまとまりのある「ドボ8」を提示していたと思います。見事でした。

「ドヴォルザーク:交響曲第6番/エリシュカ」

エリシュカの指揮に応えたN響の好サポートにも触れないわけにはいきません。このところのN響は一時期に比べ、安定感を取り戻している印象がありますが、今回もまた集中力に長けた演奏を聴くことが出来ました。フィナーレの金管トランペットも無難にこなし、フルートの動機や哀愁を帯びたヴァイオリンも決して「ボヘミアの豊かな自然」(解説冊子より)を思わせるものではなかったものの、指揮に食らい付きながら美しい響きを奏でています。初共演というと今月初旬のジンマンも同様ですが、その時に感じた双方の手探り感はほぼありません。基本的に手堅く、また明快なエリシュカの指揮は、N響の音楽の志向とも良くマッチしていたようです。

前半ではフルートのグリミネッリが秀逸でした。またピアニッシモに注視されたN響の小気味良いサポートとも悪くありません。

オーチャードで聴くN響も新鮮でした。今回は縁あって三階の右バルコニーに座ることが出来ましたが、何かと音像がボヤけてしまう同ホールでも、確かにここなら音が飛んできます。ともかく『当たり席』の少ないホールではありますが、席を選べば音響の問題もかなり軽減されるようです。

Dvorak Symphony No. 8 (Szell/RCO)

*セルの「ドボ8」第4楽章。行進曲が軍楽隊風です。映像はありません。

明日、明後日のA定期、同コンビの「我が祖国」にも期待出来るのではないでしょうか。もちろん私も聴くつもりです。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

N響定期 「シューベルト:交響曲第8番(ザ・グレート)」他 ジンマン

NHK交響楽団 第1637回定期公演 Aプログラム1日目

ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番
シューベルト 交響曲第8番「ザ・グレート」

ヴァイオリン リサ・バティアシュヴィリ
管弦楽 NHK交響楽団
指揮 デーヴィッド・ジンマン

2009/1/10 18:00 NHKホール



目当てのジンマンよりも、失礼ながらも存じ上げなかったバティアシュヴィリの方により感銘しました。トーンハレ管とのコンビでも名高いジンマンがN響に初共演します。Aプロ初日へ行ってきました。

ステレオタイプにもショスタコーヴィチと言うと、とかく暗鬱に構えるか、逆に諧謔性を強調する演奏を思い浮かべてしまいますが、ジンマンとバティアシュヴィリには、そのような言わば情緒的でかつ斜めに構えた部分は殆どありません。音楽の不純物を排するかの如く、オーケストラより軽やかでまた繊細な響きを引き出したジンマンは、安定した技巧にも裏打ちされた、即物的なバティアシュヴィリのソロをサポートすることに見事なほど成功しています。そしてもちろんバティアシュヴィリの最大の聴かせどころは、第三楽章「パッサカリア」のカデンツァではなかったでしょうか。彼女の独奏は中音域において豊かな音量があるのはもちろん、低音部のピアニッシモにも鋼のような太い芯が通っています。また最終楽章の「バーレスク」も聴き逃せません。文字通り同楽章は「道化的」(解説冊子より引用)な要素の強い部分ではありますが、バティアシュヴィリはどちらかと言うと曲の主観には立ち入らずに、それ自体の持つ運動の流れにのって駆け抜けるような疾走感に長けた演奏を披露していました。当然ながらショスタコーヴィチならではの『語り』は望めませんが、ジンマンとともに、変奏に主題の交錯するこの曲の構造を透かしとっています。訛りのない、半ば洗練されたショスタコーヴィチでした。

近年の研究によれば「第8番」が定着しつつあるという一方のシューベルトは、ジンマンならもっと突っ込めた面があったとは感じてしまうものの、あえてスケール感を放棄した、室内楽的な小気味良い演奏が繰り広げられていたのではないでしょうか。「グレート」が作曲家に独特な歌謡性を連ねたものでもなく、また小型のブルックナーのように仰々しいものでもなく、モーツァルトの交響曲の延長上として聴こえて来ただけでも収穫があります。基本的には正攻法でしたが、余分な贅肉を削ぎ落としたスタイリッシュな音楽が展開されていました。当然ながらクライマックスの高揚感も比較的控えめです。大時代的な演奏に有りがちの勿体ぶった様相は皆無でした。

SCHUBERT, Symphony 9, 4th movement

*こちらはブリュッヘンのベト7のような躍動感に満ちた「ザ・グレート」。暗部を抉られた曲が、ステージ上にて踊り狂います。

この日のN響はすこぶる好調です。指揮者が袖に下がる前に団員が立ち上るのは感心出来ませんが、(N響以外でまず見たことがありません。)ジンマンの手法に敬意を払いながら、なおかつ持てる力を全て出し切っていました。まずは初回とのことで若干の手探り感は否めませんでしたが、是非とも再度の共演を願いたいものです。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

N響定期 「ストラヴィンスキー:エディプス王」他 デュトワ

NHK交響楽団 第1634回定期公演 Aプログラム2日目

ストラヴィンスキー バレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」
ストラヴィンスキー オペラ・オラトリオ「エディプス王」

キャスト
 エディプス王 ポール・グローヴズ
 ヨカスタ ペトラ・ラング
 クレオン/伝令 ロベルト・ギェルラフ
 ティレシアス デーヴィッド・ウィルソン・ジョンソン
 羊飼い 大槻孝志
 語り 平幹二朗
管弦楽 NHK交響楽団(コンサートマスター 篠崎史紀)
合唱 東京混声合唱団
指揮 シャルル・デュトワ

2008/12/7 15:00 NHKホール

思えば、NHKホールでデュトワを聴くのは4年ぶりのことです。ストラヴィンスキーのオペラ・オラトリオ、「エディプス王」(コンサート形式)の公演へ行ってきました。

詳しい方には今更かもしれませんが、「エディプス王」は上演形態からして一風変わっています。ステージ上に管弦楽、合唱、またキャストが並ぶのは通常のコンサート形式と同じですが、その形の内容如何を問わず、舞台進行についてはストラヴィンスキー自身による細かい指定がついているわけです。つまりそれは劇の進行役を上演地の母国語の台詞、ようは日本語で話す『語り』がつとめ、その粗筋の紹介に続いて、各場面の音楽劇が進むという形でした。しかも劇は日本語はおろか、ストラヴィンスキーの母語であるロシア語でもなく、全てラテン語により歌われることが義務づけられています。率直なところ、「エディプス」という、ギリシャ悲劇の名作にあえて『語り役』を用いる設定と、母語とラテン語との交錯するスタイルにはやや違和感がありましたが、理解するという点において歌を大きく上回る『語り』の力を借りて、聴き手が劇中世界へスムーズに入るには不足のない舞台が作り上げられていたのは事実でした。母国語の『語り』でドラマの筋を頭で理解し、ラテン語とオーケストラという記号と音楽よって感覚的に受け止める二重の体験は、また通常のオペラ上演とは異なって新鮮だと言えるでしょう。ストラヴィンスキーの意図も大いに気になるところです。

デュトワだから無条件に良いと言うつもりはありませんが、何故に彼がN響の指揮台に立つと、こうもオーケストラが快活に、また見事なリズム感を披露しながら華やかな音を奏でていくのでしょうか。デュトワの指揮はオーケストラはおろか、ホール全体を圧倒するほどの声の力でもって『場』を作り上げた合唱に対しても極めて的確です。瑞々しい弦、刹那的でありながらも芯の通ったクラリネット、または一部トランペットの高らかな響き、そして小気味良いティンパニは、安定した時のN響を聴いた時にだけ得られるような充足感に満ちあふれていました。またキャストでは、呪われた役の凄みこそ不足しながらも、ホールに豊かな声を響かせたエディプスのグローヴズ、そして彼の許されない妻で、悲劇性を強調したドラマテックな歌を聴かせたヨカスタ役のペトラ・ラングが秀逸です。そして何よりも特筆すべきは、前述の通り、ステージ上に神々の響宴の場を音で生み出した東京混声合唱団でしょう。言葉に魂のこもった平の語りに唯一対峙出来ていたのは、彼らの巧みな合唱だけであったかもしれません。見事な迫力でした。

一曲目の弦楽合奏によるバレエ音楽、「ミューズの神を率いるアポロ」も、デュトワならではの清々しい響きが音楽の持ち味を素直に引き出した好演です。ただし弦のピチカート、もしくはヴァイオリンとコントラバスの静かな語り合いなど、その繊細な音楽を肌で感じるにはキャパシティが大きすぎました。篠崎の切々としたソロを味わうのにこのホールは相応しくありません。

「Jessye Norman - Oedipus Rex」

*こちらはジェシー・ノーマンの「エディプス王」。王がかつて三叉路で先王を殺してしまったことに気がつきます。

今年のコンサートはこれで終わりです。あまり通えませんでしたが、また一年を通して振り返りを別エントリにて書きたいと思います。
コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )

ウィーン国立歌劇場来日公演2008 「ドニゼッティ:ロベルト・デヴェリュー」 ハイダー

ウィーン国立歌劇場来日公演2008

ドニゼッティ ロベルト・デヴェリュー(演奏会方式)

キャスト
 エリザベッタ エディタ・グルベローヴァ
 サラ ナディア・クラステヴァ
 ロベルト ホセ・ブロス
 ノッティンガム公爵 ロベルト・フロンターリ
管弦楽 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
合唱 ウィーン国立歌劇場合唱団
指揮 フリードリッヒ・ハイダー

2008/11/4 18:30 東京文化会館



「全てはグルベローヴァのためにあった。」としても過言ではありません。この上ないキャストでの「ロベルト・デヴェリュー」です。ウィーン国立歌劇場の来日公演を聴いてきました。

単にはまり役としてしまうには言葉が足りません。文化会館のステージに君臨していたのは、時代を超えてやって来たエリザベッタそのものでした。グルベローヴァは、敢然たる地位にありながらも恋に揺れ、また嫉妬心と復讐心に苛まれる女王の姿を、抜群の歌唱と演技にて完全に自家薬籠中のものとしています。確かにその歌声においては、例えばかつて頻繁にこなしていた「後宮からの逃走」のコンスタンツェ役のような、宝石の煌めきをも連想させる輝かしいコロラトゥーラこそ望めませんが、歌というよりも台詞をそのまま聴くかのような凄みのある発声と、また絶妙なブレスが、もはやドニゼッティの付けた音楽を超えた部分にまで踏み込んだエリザベッタ像を作りあげていました。第一幕で逡巡する彼女は第二幕で一転、激しい怒りを露にしながら死刑判決を告げますが、その際のあまりにも恐ろしい「行け!」は、ロベルトだけではなく、客席の全てまでを呪って凍り付かせるかのような迫力に満ち溢れています。また第三幕、ロベルトの処刑の後で歌われる大アリアでは、取り乱した人間の見せる脆さと、その反面の女王としての気高さを失うまいとする、単に悲劇的な「狂乱の場」に収まらない、人間の多面的な深みを見事に表していました。演奏会方式にも関わらず、眼前に16世紀のイギリス王室の憎悪劇が本当に繰り広げられているように錯覚したのは私だけでしょうか。これほど声に役者を感じるオペラ歌手を初めて知りました。グルベローヴァがエリザベッタなのです。

(NBSより)

このまま続けるとグルベローヴァの印象だけで感想が終わってしまいますが、次点で存在感を発揮していたのは、ロベルトのホセ・ブロスでしょう。別格のグルベローヴァを除いても、他主役級3名は皆、高いレベルにある歌唱を披露していましたが、その中で最も説得力のあったのがホセに他なりません。ソフトでありながらも、張りのある強い歌が実に見事でした。またやや一本調子になってしまう嫌いはありましたが、サラのクラステヴァとノッティンガムのフロンターリも十分に務めを果たしていたと思います。もちろんグルベローヴァを含め、歌手においては今、国内で聴ける最高のドニゼッティであったことは言うまでもありません。

そのような充実極まりない歌手陣に対し、いささか分が悪かったのはオーケストラではなかったでしょうか。管弦楽は尻上がりに調子をあげ、とりわけ機動力のある弦によって、情景を浮かび上がらせる様子はさすがウィーンとしか言いようがありませんが、管をはじめとして、細かい部分においてかなり粗が目立つように思えました。このオペラの、また一回の公演でオーケストラの実力を判断するのはナンセンスですが、僅かながらもこれまでに聴いて来た海外有名歌劇場のそれに比べ、少し落ちるのではないかというのが率直な感想です。たまたまこの日は調子が悪かっただけかもしれませんが、覇気のない序曲などはどうも納得出来ませんでした。

もちろんそのようなオーケストラの問題は、指揮のハイダーに由来する部分も多分にありそうです。さすがにベルカント・オペラの巨匠ということで、歌手の呼吸に合わせた指揮は安定していますが、テンポにメリハリこそありがらも、重唱などのいくつかの聴かせどころを簡単に流してしまうのはやや物足りなく思えました。歌が全てのドニゼッティとは言え、この作品の筋はヴェルディ的なドラマテックな要素も強く、もっと腰の据えた、それこそグルベローヴァだけに重きを置かない、四隅の揃った構成感のある演奏の方がより良かったのではないでしょうか。グルベローヴァの絶大な存在感だけでも唯一無比な公演であることは間違いありませんが、ドニゼッティでもとりわけ良く出来た「劇」としての面白さだけを味わうには、ひょっとすると及第点にまで至らなかったかもしれません。

最後の合唱がカットされていたのは何か理由があるのでしょうか。エリザベッタが一人で歌う分、孤立した彼女の悲劇性を高めるには最良でしたが、やはり依然として切り離せない女王としての宿命性が影薄くなってしまいます。私はあった方が断然好きです。

Roberto Devereux Finale opera


極限のピアニッシモにも関わらず、鋼のような芯の通ったグルベローヴァの歌唱は忘れられそうもありません。そういう意味においては、まさに一期一会となるコンサートでした。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

東響定期 「チャイコフスキー:交響曲第5番」他 キタエンコ

東京交響楽団 第560回定期演奏会

シューベルト イタリア風序曲第1番
ショスタコーヴィチ チェロ協奏曲第1番
チャイコフスキー 交響曲第5番

指揮 ドミトリー・キタエンコ
チェロ ヨハネス・モーザー

2008/10/17 19:00 サントリーホールPブロック



キタエンコと言えば、一昨年前の「レニングラード」です。かの凄演で聴衆の度肝を抜いたキタエンコが、再び東京交響楽団の指揮台に立ちました。東響サントリー定期へ行ってきました。

いわゆる前座の、半ば飛ばしがちになりがちな一曲目からして、キタエンコ節が炸裂します。腰の据えたぶれないテンポがシューベルトの流麗な音楽をしっかりと支え、一転してのロッシーニ風のストレッタでは、重々しくなり過ぎない愉悦感のあるリズムが冴え渡りました。いつも指揮者への食らい付きの良い東響も、この日は一段と力が入っていたのではないでしょうか。これは名演の予感です。メインのチャイ5へ向けての期待がより高まるような内容でした。

ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲は、ソリストのモーザーを褒めるべきでしょう。馴染みのない曲なので多くは語れませんが、モーザーのいささか甘美でかつ、時に早くも老成したかのような儚さを思わせる音がホールを支配し、ショスタコーヴィチの細部に込み入ったこの曲を、いとも簡単に、どこか通俗名曲を奏でるかのようにして弾ききってしまいます。また技巧も確かです。私としてはショスタコーヴィチよりも、アンコールのバッハにこそ彼の持ち味が良く出ているような印象も受けましたが、若手のホープとも言えるソリストを迎えてのコンチェルトも聴き応え満点だったと言えるのではないでしょうか。またもう一点、首席ハミルによるホルンソロも特筆に値します。これほど朗々たる、また安定感の抜群なホルンソロを聴ける在京オーケストラなど、なかなか見当たりません。

休憩を挟んでのチャイ5は、何かとセンチメンタルな方向へ走りがちなチェイコフスキーの旋律美など吹っ飛ばすかのような、大変に重厚でかつ、音楽の構築感にも長けた名演でした。テンポはかのレニングラード同様、全く迷いのない堂々としたもので、それが時にロシアの大地を連想させるかのような荒涼たる響きをまとわりながら、まさしく重戦車のように行進していきます。今回はさすがに『突き』こそ登場しませんでしたが、渾身の力感漲るキタエンコの指揮は、そのままオーケストラ全体に覆いかぶさるかのようにして乗り移ったようです。ごりごりと底部を支えるコントラバス、ダンスを披露するかのように躍動的な木管群、そして息の長い金管と、言ってしまえばあともう一歩、音に厚みがあればと願うヴァイオリン群を除けば、それこそロシアの一流オーケストラでも聴いているかのような演奏が実現していました。単に「立派」と評してしまうにはあまりにも失礼でしょう。率直なところ、キタエンコは前回のレニングラードにて初めて見知った指揮者でしたが、今これほど巨匠然したチャイコフスキーを聴かせる指揮者は他にいないのではないでしょうか。さらに言ってしまえば、チャイコフスキーはかなり苦手な作曲家の一人ですが、まさか第4楽章で涙腺が緩むとは思いもよりません。サラッと旋律をなぞるような、流麗なチャイコフスキーを望む方には全く受け付けない演奏ではあったかもしれませんが、私は断然に支持したいと思います。

「プロコフィエフ:交響曲全集/キタエンコ/ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団」

キタエンコは来年3月、ウィーン放送響との来日が予定されていますが、東京交響楽団との次回共演のアナウンスがありません。是非望みたいところです。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

都響定期 「ブルックナー:交響曲第6番」他 ストリンガー/デュメイ

東京都交響楽団 第667回定期演奏会Aシリーズ

ベートーヴェン ヴァイオリン協奏曲
ブルックナー 交響曲第6番

指揮 マーク・ストリンガー
ヴァイオリン オーギュスタン・デュメイ

2008/9/25 19:00 東京文化会館5階



世界的ヴァイオリニスト、オーギュスタン・デュメイが東京都交響楽団と共演します。当日券で行ってきました。文化会館での定期演奏会です。

コンサートやCDリリースなど、積極的な音楽活動でその名を轟かせるデュメイですが、彼の演奏を端的に示せば、実に即物的で、若干の音程を除けばほぼ完璧だったと言えるのではないでしょうか。音の中央を太い鋼の棒が貫いているのではないかと思ってしまうほど逞しく、また輝かしい中音域をはじめ、オーケストラを簡単に圧倒してしまう超ど級のフォルテッシモから、棘の生えるかのように研ぎすまされた怜悧なピアニッシモなど、その長身の体躯を生かして、ベートーヴェンのコンチェルトなど全く相手とせずと言わんばかりに、難なく弾ききってしまいます。ここにオーケストラとの対話や掛け合いを楽しむ協奏曲の妙味はなく、もはや完全なるデュメイの独奏会と化していました。率直なところ、好き嫌いの観点から述べれば、私は今回こそ心に響かないヴァイオリン独奏を聴いたのは初めてですが、逆にその完全性において極めて高度な位置に指し示され、圧倒的な演奏に接したのも初めてでした。ただしデュメイの名誉のために、演奏後の拍手は割れんばかりのものであったことを付け加えておきます。聴衆の反応は良かったようです。

さて一曲目では完全にデュメイの陰に隠れてしまった感もある指揮者、ストリンガーですが、失礼ながらも、メインのブル6を見通しのよい、いわば清涼感のある演奏で思いのほか楽しませてくれました。月刊都響によれば、ストリンガーはブル6において、ボウイングや強弱をかの巨匠、ヨッフムの指示を加えたとのことでしたが、確かに総じて素朴で、また全く奇をてらうことのない、安心感のあるブルックナーが実現していたと思います。またそもそもこの第6交響曲自体が前半部分、ようは1、2楽章に重きの置かれるような構成をとっていますが、ストリンガーもその部分の良さを素直に引き出すようなアプローチであったのではないでしょうか。白眉はもちろんアダージョです。テンポを落とし、一つ一つの旋律を熱意をもって、しかしながら決して浪花節になることになく、落ち着きを払って奏でていきます。また音楽の四隅をきっちりと揃えるストリンガーは、ブルックナーの緩徐楽章からどこか都会的で整然とした響きを引き出すことにも成功していました。幽玄さ、または大自然を思わせる雄大さとは反対の方向にありますが、私は彼のアプローチを支持します。あえて言えば、スケルツォ以降はやや先を急いだ感も受けましたが、フィナーレまで一貫した音楽作りが出来ていました。

都響がまた充実しています。やや不安定なホルンをはじめ、金管はストリンガーの指示にもよるのか、やや伸びやかさが足りないような気もしましたが、木管の表情は細やかで、瑞々しいヴァイオリンとともに無理ないスケールでまとまっていました。

ところで既に都響公式HPでも告知されていますが、会場でも来年度のスケジュールを記載したビラが配布されていました。ともかく注目したいのは年度後半、11月から3月です。デプリーストのブルックナーの第7交響曲をはじめ、人気のインバルが同じくブルックナーの第5、第8、さらにはマーラーの第3、第4交響曲を披露します。(その他にはインバルのベト3、5、またはチャイ4も予定されています。)これはチケットの人気も高くなるに違いありません。争奪戦は厳しくなりそうです。

*関連リンク(都響HPの速報。ともにpdf。)
2009年度定期演奏会(Aシリーズ&Bシリーズ)
2009年度プロムナードコンサート&東京芸術劇場シリーズ「作曲家の肖像」
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )

N響定期 「マーラー:交響曲第5番」他 

NHK交響楽団 第1625回定期公演Aプログラム

バッハ 組曲第3番から「アリア」(ホルスト・シュタインを偲んで)
デニゾフ 「絵画」(1970)
マーラー 交響曲第5番

指揮 ハンス・ドレヴァンツ
管弦楽 NHK交響楽団(コンサートマスター 堀正文)

2008/9/14 15:00 NHKホール2階



ドイツの名匠、ハンス・ドレヴァンツが10年ぶりにN響の指揮台にたちました。得意とする現代音楽とマーラーの第5番を並べた意欲的なプログラムです。定期公演、Aプロへ行ってきました。

シュタインを偲んで急遽追加された「アリア」を挟んでの、デニゾフの「絵画」がなかなか優れています。この作品は1970年、モスクワの画家、ボリス・ビルゲルに献呈されたものだそうですが、複雑なオーケストレーションをとりながらも、時に温かみのある音の心地よい、フランス印象派を思わせる色彩感に満ちた音楽でした。ちなみにデニゾフはこの後、「水彩画」(1975)、「パウルクレーの3つの絵」(1985)といった、同じく絵画に着想を得た音楽を作曲しています。クレーの絵を音楽に仕立てたとは俄然興味がわいてきます。是非聴いてみたいものです。

メインのマーラーは言ってしまえば楷書体です。横への流れ、いわゆるマーラー的なうねりとダイナミズムは殆ど追求されることなく、縦への意識、ようは各フレーズを一つ一つの箱のような塊として捉え、それを積み上げて全体を構築していくかのようなアプローチがとられていました。結果、例えば公演冊子に記載されているような第1楽章の「物悲しい旋律」などの主観的な表情は消え、もっと純音楽的な、音そのものの塊があるがままに響いてきます。もちろんこれはこれで一つの解釈ではありますが、最近、良く耳にするような細部へ手を突っ込み、これまで見えてこなかった新しい『景色』を披露するものでも、またもっとどっしりと構え、慟哭から勝利へと流れる激しいマーラーでもないので、どこか冷めた、いささか平板な演奏になってしまっていたのは事実でした。ただしこの辺は好き嫌いの問題も多分にありそうです。

N響の出来はまずまずと言ったところではないでしょうか。第5楽章冒頭でのミスなど、言われがちなホルン云々は完璧とまではいきませんでしたが、特に破綻もなく、ドレヴァンツの解釈にもよるのか、終始、淡々と曲を進めていたと思います。ただ一つ気になったのは、トゥッティの際などにおける、全体の音の緩みです。ティンパニは他から完全に分離したかのようにがなり立て、逆に弦は内側へ引きこもるかのようにしてこじんまりとまとまってしまいます。先に今回の演奏を「平板」と表しましたが、ひょっとしたらそれはN響側にも問題があったのかもしれません。

適切ではないかもしれませんが、ドレヴァンツは例えば東京シティや東響のような、棒へダイレクトに食らい付いてくるオーケストラの方が持ち味を発揮するのではないでしょうか。このところどうも体温のあがりきらないN響には、ドレヴァンツのような真面目な指揮ぶりがあまり合わなかったかもしれません。

Adagietto - Mahler 5th - Eschenbach/Philadelphia

(こちらは細部を抉りにえぐる、エッシェンバッハのドロドロしたアダージェットです。)
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )

アンサンブルモデルン 「ライヒ:18人の音楽家のための音楽」他 コンポージアム2008

コンポージアム2008 スティーヴ・ライヒの音楽

ダニエル・ヴァリエーションズ(2006)
18人の音楽家のための音楽(1974-76)

演奏 アンサンブル・モデルン/シナジー・ヴォーカルズ
指揮 ブラッド・ラブマン
ゲスト・パフォーマー スティーヴ・ライヒ
音響監督 ノーベルト・オマー

2008/5/21 19:00 東京オペラシティコンサートホール



ステージ上に作曲家本人を迎えています。コンポージアム2008より初日、「スティーヴ・ライヒの音楽」を聴いてきました。

好きなライヒを生で聴けるということだけでも気分が高まりますが、まさか実演がこれほどハイテンションなものであるとは思いもよりません。ともかく白眉は代表作としても名高いメインの「18人の音楽家のための音楽」です。この曲をCDで聴くと、ミニマル音楽への一般的なイメージと同様、全体を機械的に貫くリズムの永劫的な反復にどことない心地良さを覚えるわけですが、実演では各セッションの出す音の一つがまるで魂の欠片としてうごめき、そして始終駆け巡っているかのような非一定的な音の『運動』のスリリングな面白さを味わうことが出来ました。ミニマルの本質は、個々の音に内在する自立的な運動にあるのかもしれません。微妙に変動するピアノのリズムに体を委ね、情熱的に、また時には内省的に鳴らされるマリンバやシロフォンなどの打楽器の音へ耳を傾けることは、それこそ高まる心臓の鼓動と沸き立つ血液の循環を全身の感覚で確かめているかのような、極めて肉体的な一種の法悦体験です。叩かれるピアノと打楽器が神経を呼び覚まし、シャカシャカと響くマラカスはあたかも頭の中をシャッフルさせるかのようにその動きを強めていきます。また、強弱の繰り返される声楽とクラリネットは生命の呼吸です。約1時間にも及ぶ横への運動、つまり反復が聴き手の意識を麻痺させ、さらに各音の上下運動が逆にそれを覚醒させていきました。麻痺した感覚の中での覚醒は危険です。半ばトランス状態へと引き込みます。

実演ということで、ステージ上での演奏行為も視覚的に楽しむことが出来ました。舞台後方にはピアノを含めた数台の打楽器を、また前にはクラリネットと弦、そして声楽をともに左右から向き合うようにして並べていましたが、打楽器の奏者がバチを持ち替えて次々と別の楽器を鳴らしていく様子が、ちょうど反復の中で自由に行き交う音の運動を視覚化しているようで興味深く感じられます。ちなみにライヒは第4ピアノで演奏に参加していました。トレードマークの野球帽が小刻みに震えると、メロディーの分解された音のリズムが刻まれていくわけです。

「18人の音楽家のための音楽/ライヒ」

「ダニエル・ヴァリエーションズ/ライヒ」

終演後の客席の反応は熱狂的でした。そもそもいわゆる客層からして一般的なクラシックコンサートとは異なっていましたが、聴衆の殆どがスタンディングオベーションをしてライヒに拍手と歓声を送っていたのがとても印象に残ります。ライヒの音楽が一般的な「現代音楽」の枠に収まらないものであることは間違いありません。

一曲目の「ダニエル・ヴァリエーションズ」のリハーサル、及び本人のインタビューがyoutubeにありました。以下に転載しておきます。



こちらはお馴染み「18人の音楽家のための音楽」です。(3分6秒付近から。)



*関連リンク
スティーヴ・ライヒを探る~ライヒ、新作を語る(CDジャーナル)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

N響定期 「ルトスワフスキ:オーケストラのための協奏曲」他

NHK交響楽団 第1619回定期公演Aプログラム

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番
パヌフニク カティンの墓碑銘
ルトスワフスキ オーケストラのための協奏曲

指揮 尾高忠明
ピアノ レオン・フライシャー
管弦楽 NHK交響楽団(コンサートマスター 篠崎史紀)

2008/5/11 15:00~ NHKホール2階



前半の「皇帝」はさて置くとしても、後半の2曲、パヌフニクとルトスワフスキは力演だったのではないでしょうか。尾高忠明の指揮によるN響定期を聴いてきました。

僅か10分にも満たないパヌフニク(1914-91)の「カティンの墓碑銘」は、冒頭の篠崎のソロも切ない響きも心に残る、実に叙情的な音楽です。ヴァイオリンソロに導かれるようにして木管群が静かに重なり合い、後に弦が感情を揺さぶるようなフレーズを奏でながら、一つの大きな音へと収斂して高らかに鳴り渡ります。この手の音を積み重ね、結果全体が一つになる音楽を聴くには、オーケストラを手堅くまとめることに定評のある尾高の指揮が適切です。各パートへ丁寧な指示を与え、特に木管のフレーズを巧みに浮き上がらせながら、端正なティンパニを下支えにして無理なく曲を進行させていきます。メインのルトスワフスキでも同様でしたが、弦、木管、金管などを秩序立って、言わば曲の構造の四隅をしっかりと揃えながら、いとも容易く音楽を整理する様子はなかなか見事です。安定感のある音楽とはまさにこのことを指すのではないでしょうか。聞き慣れない曲でしたが、全く違和感なく響きに耳を傾けることが出来ました。

ルトスワフスキはそのような安定感の上に、尾高の独特なリズムが奇妙にマッチしていた、やや個性的な演奏だったと思います。どちらかというと彼は弾けるようなリズムをとるよりも、むしろ腰の据えた、角も尖った硬いリズムで音楽を進めますが、このルトスワフスキでは時折登場する民族音楽風のモチーフに、何やら東欧というよりも日本の土着の民謡を連想させるような、極めて泥臭いリズムを与えていました。元々、協奏曲でありながら東欧の作曲家らしい民族的な要素の多いこの音楽に、さらに日本的な感性が加わるという、言わば東西の折衷を見るかのような興味深い表現であったと思います。また木管を始め比較的、好調なN響も、尾高の指揮に鋭く食いついていました。不満は殆ど残りません。

さて、あまりにも馴染みの深い名曲を、説得力のある演奏で聴かせるのはそもそも難しいことです。一曲目の皇帝は尾高の指揮を含め私には真面目過ぎ、また数十年にわたるブランクを経て復活を遂げたというエピソードを鑑みても、ソリストのフライシャーに感銘させられる部分が殆どありませんでした。教科書の解説文を読むような表情の硬いオーケストラに、何やら千鳥足のようにたどたどしいピアノはこの曲に全然似合いません。

Cプロのエルガーはまさに尾高の十八番です。そちらでも手堅く、また少しひねりのある音楽が楽しめるのではないでしょうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »