晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

金属地名のこと(3) 11/9

2009-11-09 | 歴史・民俗

2009.11.9(月)曇

 「日本の地名」谷川健一著を読み終える。各地の古い地名に対して広範囲の見識と研究をなされており、大変興味深く読ませて貰った。特に地名に対しての愛情とポリシーが随所に見られて嬉しい読み物であった。Img_3363 インターネット上では私も含めて、多くのにわか地名研究家がブログやホームページで地名考証を論じている。時々参考に覗いているのだが、この本からの引用が多い。原典を明記して研究の参考として紹介しているものはともかくとして、あたかも自分が考えたように引用しているものも散見される。「なるほどなあ」と感心していたことが、本を読んで「なんだここからの引用か」というがっかりした状況もままある。大変真面目に真摯に取り組んでさすがと思わせるサイトもあるが、書籍や辞書から丸々引用して羅列しているものもある。そういうのに限って現地の写真などを載せたりしていかにもという感じにこしらえてある。
 この本の結語にある山田秀三氏の「アイヌ語地名の研究」からの引用を書いておこう。
 
地名という、殆ど意味を忘れられたものの解明は、ただ言葉だけをしっていてできるものではない。広く同形類形の地名を集めて、地名語の意味、語法等を割り出し、地名記録、伝承、地形、地誌等々から帰納的に改めてみて、解明ができるか否かというものである。
 
私にここまではできないが、肝に銘じておく必要がある。  
今ひとつ、これは地名研究ではなくて歴史のアマチュア研究家に対する警鐘として松本清張氏が「古代探求」の中で言っておられることを載せておきたい。
 
私は日本古代史にはアマチュアであり、専門外の者である。だが、専門外の「特権」をみだりに振り回すことはつつしんでいる。従来、こうした部外者は、何を云っても自由だという「自由の特権」を振りまわしすぎてきた。この種の「特権」の過度な行使はコンプレックスの反面露呈でしかない。部外者といえどもその論証は学術的な水準に近い客観性が要求されなければならない。「論証」なるものがひとりよがりの仮説で終始してはならない。中略
 ほかの文献はほとんど見ないで書く専門外研究家の独善的な大胆さはもう淘汰されてよい。これは史料や資料から、自分の仮説に都合の良いところばかりを択ってくる独善的な態度にも云えることである。

なんか私自身に言われているようで、大変恐縮する。

【作業日誌 11/9】
木小屋作製10日目(裏側の張り板準備)

今日のじょん:沢山のお客さんの相手をして疲れたワン。こうして日向ぼっこできる日も少なくなりそうだ。Img_3362

コメント
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