2009.11.14(土)雨、晴
里山ネットが主催する「金谷峠を歩く会」に参加する。金谷峠は小畑から室尾谷観音寺を結ぶ歴史の道で、小畑町の村上さんらが二年かけて計画整備されたものである。峠道の整備も興味があったが、なによりも「金谷峠」という名前にいにしえの鉱山、あるいは金属加工の臭いをかぎつけたからでもある。上林谷だけでなく、志賀郷、物部方面も金属関連の地名が多く、大江山周辺に多い麻呂子親王伝説も志賀郷まで届いている。特に大江町(現福知山市)に接する鍛治屋町、小畑町は気になっていたところである。物部町には金屋、鍛治屋町はそのまま、山野口には銀山、石原口、上浅谷、私市には大風呂、報恩寺には湯上なんて金属関連らしい地名が存在する。
さて、里山ネットに集合した九時にはまだ雨が降っている、そのうち上がるだろうと乗ってきた車で移動、公民館で移設された道標を見学する。
「山みち、こうもり」は宗峠の下の分岐、「こうもり、むろたに」は金谷峠と宗峠への道の分岐にあったと思われる。
峠の取り付きまで軽トラに乗せてもらい、10時20分ごろ出発。山道に入ろうとする広場に古い坑道口がある。高さは1m程だが、従前はもっと高かったそうだ。銀、銅、鉄何か解らないけど、古代の坑道がいきなり存在したことは今回の私の目的は達せられたと云ってよい。金谷(かなや)は通称名で本来は長谷(ながたに)と言うそうである。谷の周辺には探せばもっと鉱山の遺跡があるのだろうが、今回はそれが目的でもないし、団体行動でもあるので峠道に沿ってなにからしいものはないかと見回しながら歩く。
峠の遠望と坑道口跡、
道中道標があったりして、峠道の重要性を思わせる、なんでも江戸時代の巡検師が福知山藩から田辺藩(舞鶴)に至るのに使った道は鬼ヶ城峠~金谷峠~小畑、鍛冶屋、新庄、須波岐、白道路、上八田、七百石、上杉、於与岐、弥仙山、丹後峠という風に通ったと思われる。これが一直線で最短だからだ。ことほど左様に金屋谷取り付き地点から東、真正面に弥仙山の美しい姿が見えるのだ。朝出発時点は小雨のため見えなかったが、午後の復路では杉木立の中に、絵画のような弥仙山が見え感動的な一瞬だった。
復路での弥仙山の遠望。
昨日の雨でぬかるんだ谷筋を登って行くと綾部市と大江町の境界となる小尾根にたどり着く、これは丹波と丹後の境界でもある。「おく山、山の口」という道標があり、北東方向の谷筋を下ると奥山に行く。国土地理院の地図には破線の道があるが、通行できるか否かは定かでない。谷筋の道は荒廃の度合いがきついのではないか。
左の尾根筋を少し登ると金谷峠である。植林された林の中で見通しもないが、往時はほっこりする場所だっただろう。峠からは植林の中のユリ道となり、峠を少しくだったところに、表面の文字の消えた石の道標がある。側面に銘が打ってあり、奈良原に降りる道標と思われる。この道も地理院の地図には記されているが奥山道と同様の状態だろう。
金谷峠の切り通しと表面の消えた道標。
私たちは尾根に沿って西に進む、この道は地理院の地図には無いが、村上さんらのご苦労できれいに整備されており、距離表示もしっかりされている。なんでも立命館の学生さんがメジャーで測られたとか、大変な作業である。尾根筋は植林されており、展望はよろしくないが、二箇所ほど大江山連峰の眺めのよいところがある。丁度晴れ間が現れて、景色を堪能する。
千丈ヶ岳は雲の中
南西方面に鬼ヶ城、烏ヶ岳が見え出すと尾根は急な下りとなり、これまた水浸しの谷を下ると、いきなり府道492号線、左折峠の下に飛び出す。このあたりは綾部と違って、本格的な鉱山地帯で、福知山鉱山として大正時代まで操業していたそうである。つづく
府道に立つ案内板
今日のじょん:一日出かけていたのでじょんの様子がよく解らなかったのだが、昨日の軽トラ行でかなり疲れていたらしい。一日ぐったりして、食欲もなかったそうだ。軽トラにも慣れるよう頑張って連れ回すか。