2009.11.15(日)曇
金谷峠の道が府道に出合い、少し下ると左手に四国八十八ヶ所霊場がある。八十八のお大師さんがあることからこの峠道は大師道とも呼ばれていたそうだ。赤土の道を下ってゆくと、鎌倉時代の作と云われる仁王門の下に出る。見上げる室尾谷観音寺の伽藍は荘厳な感を受ける。
室尾谷観音伽藍、仁王門は右下。
観音寺の御詠歌に「はるばると登りて見れば観音寺 山も誓いも深き谷川」というのがある、やはり車で来るよりも、遠く歩いてお詣りするのがいいようだ。当寺は和銅七年行基の開祖とされる古刹である。高野山真言宗に属し、この地が往時から鉱山として存在していたことが予想される。真言密教と金属が密接な関係にあることは習知のことである。本尊は十一面観音で秘仏とされているので、二十年に一度の御開帳時しか見られない。次は七年後ということである。十一面観音と鉄とのつながりについては、「和鉄の文化」(井塚政義)に詳しい。
本堂で昼食をとり、お接待と講話を聞かせていただき、観音寺を後にする。
府道を戻り、左折峠のトンネルを越える。峠道を下ってゆくと山野口だ、この地はかつて天領であったという説明がされた。なんでも銀山があり、一時は大盛況ということである。何鹿郡誌に往時の様子が書かれている。
佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳〉已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしもの、如く又「鉱山奉行所あり.地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すべきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。
この地にも坑道口などあるのだろうが、確かめる機会もなく、唯一銀山という地名と「銀山橋」という橋に往時をしのばせるものがあることだ。
峠を下ってきて最初の左川の谷あたりが銀山である。鉱山奉行所もこのあたりと聞くが定かではない。もう一つ下の谷、上浅谷と言うところに銀山橋があり、その先を左に入って行く。
銀山橋もコンクリート、府道沿いに庚申塔や五輪塔も残っている。
田んぼの端の農道を上って行くが、傍らに旧道の面影も残っている。田んぼが終わり、山道を行くと、「おばた、ものべ」という石の道標があり、そこから尾根に取り付く。 明治の頃佐賀村の学校は物部にあり、子供はこの峠を越えて通っていたということである。2,3時間の山歩きを往復していたと思うと感慨ものである。急登を数十分、朝通った大師道の尾根に飛び出す。この地点には今回作られた道標がある。10分ほどで金谷峠に着き、金谷の谷筋を小畑に急ぐ。15:20挨拶をして解散、また来年も同じ催しをしたいと言うことだった。機会が合えば参加したい。いずれにしても得るものの多い峠行だった。
【作業日誌 11/15】
谷水水道補修
今日のじょん:調子も戻り、いつもどおりのじょんが戻ってきた。耳の様子も良くなって来たようだ。やはり元気でいるのがなによりだ。