晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

続・金谷峠 11/15

2009-11-16 | 山・峠

2009.11.15(日)曇

  金谷峠の道が府道に出合い、少し下ると左手に四国八十八ヶ所霊場がある。八十八のお大師さんがあることからこの峠道は大師道とも呼ばれていたそうだ。赤土の道を下ってゆくと、鎌倉時代の作と云われる仁王門の下に出る。見上げる室尾谷観音寺の伽藍は荘厳な感を受ける。 Img_3446
Img_3448
室尾谷観音伽藍、仁王門は右下。

観音寺の御詠歌に「はるばると登りて見れば観音寺 山も誓いも深き谷川」というのがある、やはり車で来るよりも、遠く歩いてお詣りするのがいいようだ。当寺は和銅七年行基の開祖とされる古刹である。高野山真言宗に属し、この地が往時から鉱山として存在していたことが予想される。真言密教と金属が密接な関係にあることは習知のことである。本尊は十一面観音で秘仏とされているので、二十年に一度の御開帳時しか見られない。次は七年後ということである。十一面観音と鉄とのつながりについては、「和鉄の文化」(井塚政義)に詳しい。
 本堂で昼食をとり、お接待と講話を聞かせていただき、観音寺を後にする。
 府道を戻り、左折峠のトンネルを越える。峠道を下ってゆくと山野口だ、この地はかつて天領であったという説明がされた。なんでも銀山があり、一時は大盛況ということである。何鹿郡誌に往時の様子が書かれている。


佐賀村字山野口小字若松山、大切山、石山に於て鉄鉱を発見し、(発見時代不詳〉已に貞享、元禄の頃盛に採掘せしもの、如く又「鉱山奉行所あり.地頭の代官所あり、其他山師、金掘師、商業人等諸国より入込み居住せし者幾千人、家屋も従って増加し繁栄日に盛なりき」とは従来口碑に伝ふる所なるも、何等文献の徴すべきなし。今其の跡を探るに金屑と思しきもの積んで山をなし、坑門は到る所に崩壊し、古墳墓亦散乱して転た往古の盛時を偲ばしむるものあり。

この地にも坑道口などあるのだろうが、確かめる機会もなく、唯一銀山という地名と「銀山橋」という橋に往時をしのばせるものがあることだ。
 峠を下ってきて最初の左川の谷あたりが銀山である。鉱山奉行所もこのあたりと聞くが定かではない。もう一つ下の谷、上浅谷と言うところに銀山橋があり、その先を左に入って行く。Img_3455Img_3457

銀山橋もコンクリート、府道沿いに庚申塔や五輪塔も残っている。


田んぼの端の農道を上って行くが、傍らに旧道の面影も残っている。田んぼが終わり、山道を行くと、「おばた、ものべ」という石の道標があり、そこから尾根に取り付く。Img_3459 明治の頃佐賀村の学校は物部にあり、子供はこの峠を越えて通っていたということである。2,3時間の山歩きを往復していたと思うと感慨ものである。急登を数十分、朝通った大師道の尾根に飛び出す。この地点には今回作られた道標がある。10分ほどで金谷峠に着き、金谷の谷筋を小畑に急ぐ。15:20挨拶をして解散、また来年も同じ催しをしたいと言うことだった。機会が合えば参加したい。いずれにしても得るものの多い峠行だった。

【作業日誌 11/15】
谷水水道補修

今日のじょん:調子も戻り、いつもどおりのじょんが戻ってきた。耳の様子も良くなって来たようだ。やはり元気でいるのがなによりだ。 

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金谷峠 11/14

2009-11-15 | 山・峠

2009.11.14(土)雨、晴

 里山ネットが主催する「金谷峠を歩く会」に参加する。金谷峠は小畑から室尾谷観音寺を結ぶ歴史の道で、小畑町の村上さんらが二年かけて計画整備されたものである。峠道の整備も興味があったが、なによりも「金谷峠」という名前にいにしえの鉱山、あるいは金属加工の臭いをかぎつけたからでもある。上林谷だけでなく、志賀郷、物部方面も金属関連の地名が多く、大江山周辺に多い麻呂子親王伝説も志賀郷まで届いている。特に大江町(現福知山市)に接する鍛治屋町、小畑町は気になっていたところである。物部町には金屋、鍛治屋町はそのまま、山野口には銀山、石原口、上浅谷、私市には大風呂、報恩寺には湯上なんて金属関連らしい地名が存在する。
 さて、里山ネットに集合した九時にはまだ雨が降っている、そのうち上がるだろうと乗ってきた車で移動、公民館で移設された道標を見学する。Img_3419
Img_3420
「山みち、こうもり」は宗峠の下の分岐、「こうもり、むろたに」は金谷峠と宗峠への道の分岐にあったと思われる。


  峠の取り付きまで軽トラに乗せてもらい、10時20分ごろ出発。山道に入ろうとする広場に古い坑道口がある。高さは1m程だが、従前はもっと高かったそうだ。銀、銅、鉄何か解らないけど、古代の坑道がいきなり存在したことは今回の私の目的は達せられたと云ってよい。金谷(かなや)は通称名で本来は長谷(ながたに)と言うそうである。谷の周辺には探せばもっと鉱山の遺跡があるのだろうが、今回はそれが目的でもないし、団体行動でもあるので峠道に沿ってなにからしいものはないかと見回しながら歩く。Img_3422 Img_3424

峠の遠望と坑道口跡、



  道中道標があったりして、峠道の重要性を思わせる、なんでも江戸時代の巡検師が福知山藩から田辺藩(舞鶴)に至るのに使った道は鬼ヶ城峠~金谷峠~小畑、鍛冶屋、新庄、須波岐、白道路、上八田、七百石、上杉、於与岐、弥仙山、丹後峠という風に通ったと思われる。これが一直線で最短だからだ。ことほど左様に金屋谷取り付き地点から東、真正面に弥仙山の美しい姿が見えるのだ。朝出発時点は小雨のため見えなかったが、午後の復路では杉木立の中に、絵画のような弥仙山が見え感動的な一瞬だった。Img_3461

復路での弥仙山の遠望。

 昨日の雨でぬかるんだ谷筋を登って行くと綾部市と大江町の境界となる小尾根にたどり着く、これは丹波と丹後の境界でもある。「おく山、山の口」という道標があり、北東方向の谷筋を下ると奥山に行く。国土地理院の地図には破線の道があるが、通行できるか否かは定かでない。谷筋の道は荒廃の度合いがきついのではないか。Img_3429
左の尾根筋を少し登ると金谷峠である。植林された林の中で見通しもないが、往時はほっこりする場所だっただろう。峠からは植林の中のユリ道となり、峠を少しくだったところに、表面の文字の消えた石の道標がある。側面に銘が打ってあり、奈良原に降りる道標と思われる。この道も地理院の地図には記されているが奥山道と同様の状態だろう。

Img_3431 Img_3433金谷峠の切り通しと表面の消えた道標。



 私たちは尾根に沿って西に進む、この道は地理院の地図には無いが、村上さんらのご苦労できれいに整備されており、距離表示もしっかりされている。なんでも立命館の学生さんがメジャーで測られたとか、大変な作業である。尾根筋は植林されており、展望はよろしくないが、二箇所ほど大江山連峰の眺めのよいところがある。丁度晴れ間が現れて、景色を堪能する。Img_3439

千丈ヶ岳は雲の中


 南西方面に鬼ヶ城、烏ヶ岳が見え出すと尾根は急な下りとなり、これまた水浸しの谷を下ると、いきなり府道492号線、左折峠の下に飛び出す。このあたりは綾部と違って、本格的な鉱山地帯で、福知山鉱山として大正時代まで操業していたそうである。つづくImg_3443

府道に立つ案内板

今日のじょん:一日出かけていたのでじょんの様子がよく解らなかったのだが、昨日の軽トラ行でかなり疲れていたらしい。一日ぐったりして、食欲もなかったそうだ。軽トラにも慣れるよう頑張って連れ回すか。

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上林探訪 古屋 11/13

2009-11-13 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.13(金)曇

 雨が上がり、水量が増えているだろうと大岩の滝にあっぱれ号で行く。その前に古屋にも行ってみようと草壁川沿いの府道を登って行く。古屋は9月のサイクリングで行ったのでおなじみだったが、かみさんは初めてなので期待しているようだ。渡辺さん宅の前まで来ると対岸に猿の群れが騒いでいる。たわわになった柿を狙って来ているのだろうが、じょんがいるためだろうか、ギャーギャーいいながら山に逃げていった。じょんを降ろしてやると、まだ残っていた数匹を追いかけようとする。猿など珍しくもないが、ここんとこ姿を現せて居なかったので、なんとなく懐かしいような、憎々しいような妙な感じだ。農家の軒先には栃の実が干してあり、最近商品化された栃の実おかきなどの原料のようだ。Img_3380 Img_3382

この谷を遡ると、洞峠から鶴ヶ岡にいたる。でかい猿も居るぞ。


 じょんを荷台に載せてそろそろと大岩まで下って行く。天気がいまいちのせいもあるが、今年の紅葉は今ひとつの感じだ。大岩の滝は先日周囲の清掃が行われて、滝がよく見えるようになっている。確かに水量は多く、水音が激しい。枯れ葉が風に舞って吹雪のようだ。今この瞬間に季節が入れ替わったような雰囲気になる。数枚写真を撮って、いいのがあれば年賀状にでも使おうか。Img_33861 Img_3402 Img_3409

マリーまた遊びに来るで。帰りの車に飛びついてくる。




 上林も府道沿いの集落と谷の奥にある集落とでは、生活環境がかなり異なる。増して積雪期となると、大変な御苦労と心細さがあるだろう。初めて古屋を訪れたかみさんは感傷的になっている。現在古屋には5軒の家があると聞く。京街道の宿場でもあっただろうこの地に人々が還ってきて住み続ける手だてはないものだろうか。

【作業日誌 11/13】
無し

今日のじょん:今日の記事にも登場するのでお休み。
今日は一日荷台に乗って疲れたかな。Img_3395
 

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金属地名のこと(4) 11/12

2009-11-13 | 歴史・民俗

2009.11.12(木)曇

 前回、地名の研究について心構えを書いたが、アマチュアにとって非常に困難な条件である。だれもが陥ることは、各種の地名の語源や由来を集めて、当てはまる地名を探してきてはこれだと断定してしまうことではないか。例えば上林睦合町に浅原(あずら)というところがある。「引地のこと」で紹介した葛禮本神社のあるところだ。祭神が金山彦命であり、中風呂というところにあって、その地は有数の炭の産地であったということから、産鉄の地だと予想している。それにしても(あずら)とは妙な地名だなあと思っていた。葛禮本(くずれもと)も不思議な名前である。神社前の谷川に群生する芒をみて、元は「あしはら」だったのかなと感じていた。しかし昔の人が葦をアシと呼んでいただろうか。私自身、萱(かや)や芒(すすき)は小さい頃から知っていたが、葦(あし)を知ったのは学校で「人間は考える葦である」というのを習ってからである。Img_3226
葛禮本神社前の川

「日本の地名」(谷川健一)を読んでいて「アサ、アシ、アソはいずれも通音とみてよく、もともと朝鮮語で鉄を意味するサ、ソに由来する語と私は考える」というのを見つけた。鉄を意味するアサ、アシ、アソならアサ原、アシ原、アソ原のどれかが訛ってアズラになったと考えれば、金山彦命も中風呂もぴったり思惑が合ってくると考えていた。
 ところが実はこれが早計であるということに気付く。アソ、アス、アズは火山地方に多い崩壊地形にちなむ地名でもあることがわかった。阿蘇山なんてのはその典型だろう。
 2万5千分の一地図を見ても航空写真を見ても顕著な崩壊箇所は見つからない。しかし過去に崩壊があり、その地形からアソハラ、アズハラなどと呼ばれていたとしたら、葛禮本神社の社名もなるほどという感じになる。
 このように語源の言葉をやみくもに当てはめて、自らの仮説に都合良く決めつけるというようなことはやはり慎まなければならないことであろう。

【作業日誌 11/12】
木小屋2号11日目(背張り準備、塗装等)

今日のじょん:ヘイヘイが脱走するので、段々塀が高くなってきた。もうじょんが背伸びしても見えない高さとなっている。余り塀が高くなって、人間が入れなくなり、脚立が置いてある。これじゃあヘイヘイでなくて、塀塀だ。Img_3374                         
Img_3375ヘイヘイの塀



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紅葉や如何に 11/11

2009-11-11 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.11(水)雨

 暖かく晴天の続いた一週間が終わり、雨の周期となってきた。かなり強烈で、各地で大雨や波浪の警報が出ている。11月中旬は上林の紅葉のシーズンだ。昨年はかなり気温が低く、美しい紅葉が見られた。今年は気温が高めで今ひとつの様相である。数日この雨が続いたとして、その後の温度低下がその善し悪しを決めるだろう。ちょうど昨年の今日に撮った写真があったので比較してみよう。Img_1487Img_3366 

左(2008.11.11)、右(2009.11.10)
写真では違いがわからないかな。


 ともあれ次の定休日の13日に大岩の滝に紅葉の写真を撮りに行こうと思っているが、土井さんの話では昨年ほど美しくなさそうということだ。やはり気温、降雨などで左右されるものらしい。
 田舎暮らしの魅力は季節ごとの景色や水、空、星の美しさもあるが、なんと言っても季節ごとの食べ物や習慣、たとえばこの季節だとぎんなんを煎って食べたり、柚子風呂を始めたり新生姜や大根の漬け物を始めたりというのが嬉しいものだ。祭りやイベントも季節を感じさせられていいものだ。
 先日村上さん宅を訪問したとき、隣の地蔵堂に沢山穴の開いた石がぶら下がっていた。かみさんが、「あれは一体何?」と不思議がっていたが、私が小さいころは耳石(みみいし)といっていたように思う。検索サイトで調べると耳石(じせき)といって内耳にある骨のことばかりでてくる。どうも正式名称が不明で、ピーと音の出るものは石笛(いしぶえ)ともいわれているようだが、必ずしも総てが音が出るわけでもない。珍しいものかと思っていたら念道橋の下に落ちていた。長径が4cm程のものだが、なんとなく可愛らしいものである。Img_3316  

【作業日誌 11/11】
無し

今日のじょん:久々のレインコートを嫌がること、雨が嫌いなのはおとー似なんだろうか。Img_3371

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じょんに明け 11/10

2009-11-10 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.10(火)曇、雨

 今日は月2回のじょんのシャンプー日、事前にファーミネーターで抜け毛の処理をし、体重測定をしてシャンプーをする。Img_3369

さあ、これからシャンプーやで。

その間おとーはサークルや居場所を大掃除、ついでにトイレ、洗面所、風呂など大掃除で、大体3時間ほどかかる。体重は17.8Kgで200g減量、じょんのベストウェイトのようだ。遅い昼ご飯を済ますと2時頃となり、舞鶴の行き付けの病院、キャドックに行く。右耳を掻きむしるものだから、赤く腫れ、臭いもしているという。S岡さんに耳に草の種が入り込むと大変なことになるなーんて威かされたりして、この際看て貰っておくかということになったわけだ。この症状は結構以前から有り、右の耳だけなんだけれども、痒がっていたものだ。メンタムやアロエ軟膏を塗っていたが効果が無く、気になっていた。耳が垂れているので不潔になりやすく、日に2回は掃除していたようだが、それでもこのような症状が出るのだ。
 病院では耳あかの掃除をしてもらい、検査をする。やはり細菌やカビ類が検出され、殺菌剤を処方して貰う。メンタムじゃあ効かないはずだ。
 しっかり掃除していても耳あかって出るものなんだ。黒い固まりは掻きむしって出た血の固まりかと思っていたのだが、耳あかとは驚いた。
 スーパーでじょんのフードを買って帰るともう真っ暗、雨も降りだして定休日はかくして終わってしまう。
 じょんに明け、じょんに暮れたる休みかな
Img_3370
シャンプーと医者通いでくたくた。


【作業日誌 11/10】
ストーブ掃除、点火準備完了

今日のじょん:本日じょんネタのためお休み。

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金属地名のこと(3) 11/9

2009-11-09 | 歴史・民俗

2009.11.9(月)曇

 「日本の地名」谷川健一著を読み終える。各地の古い地名に対して広範囲の見識と研究をなされており、大変興味深く読ませて貰った。特に地名に対しての愛情とポリシーが随所に見られて嬉しい読み物であった。Img_3363 インターネット上では私も含めて、多くのにわか地名研究家がブログやホームページで地名考証を論じている。時々参考に覗いているのだが、この本からの引用が多い。原典を明記して研究の参考として紹介しているものはともかくとして、あたかも自分が考えたように引用しているものも散見される。「なるほどなあ」と感心していたことが、本を読んで「なんだここからの引用か」というがっかりした状況もままある。大変真面目に真摯に取り組んでさすがと思わせるサイトもあるが、書籍や辞書から丸々引用して羅列しているものもある。そういうのに限って現地の写真などを載せたりしていかにもという感じにこしらえてある。
 この本の結語にある山田秀三氏の「アイヌ語地名の研究」からの引用を書いておこう。
 
地名という、殆ど意味を忘れられたものの解明は、ただ言葉だけをしっていてできるものではない。広く同形類形の地名を集めて、地名語の意味、語法等を割り出し、地名記録、伝承、地形、地誌等々から帰納的に改めてみて、解明ができるか否かというものである。
 
私にここまではできないが、肝に銘じておく必要がある。  
今ひとつ、これは地名研究ではなくて歴史のアマチュア研究家に対する警鐘として松本清張氏が「古代探求」の中で言っておられることを載せておきたい。
 
私は日本古代史にはアマチュアであり、専門外の者である。だが、専門外の「特権」をみだりに振り回すことはつつしんでいる。従来、こうした部外者は、何を云っても自由だという「自由の特権」を振りまわしすぎてきた。この種の「特権」の過度な行使はコンプレックスの反面露呈でしかない。部外者といえどもその論証は学術的な水準に近い客観性が要求されなければならない。「論証」なるものがひとりよがりの仮説で終始してはならない。中略
 ほかの文献はほとんど見ないで書く専門外研究家の独善的な大胆さはもう淘汰されてよい。これは史料や資料から、自分の仮説に都合の良いところばかりを択ってくる独善的な態度にも云えることである。

なんか私自身に言われているようで、大変恐縮する。

【作業日誌 11/9】
木小屋作製10日目(裏側の張り板準備)

今日のじょん:沢山のお客さんの相手をして疲れたワン。こうして日向ぼっこできる日も少なくなりそうだ。Img_3362

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建田のこんぴらさん 11/8

2009-11-08 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.8(日)晴

 第301回目の建 比羅さんとの約束は1000年間お祭りするということだからあと700年はお祭りす ることとなる。武吉、佃、忠の三町で回り持ちで講をひらくため講元となられたお宅は大変なことと察するが、このような形で幕府に直訴した三人の義人をたたえ、金刀比羅さんに感謝するなんてのは日本中探してもそうないのではないかと今年もお参りに行く。(2008.11.9参照)もちろん自転車で行くわけだが、建田三町は府道から離れており、本来の上林の田舎を感じさせる大好きなところである。念道では霧が上がっている八時前、忠ではまだ霧が残っている。佃に行くとより濃くなり、武吉の講元はすっかり霧の中である。より下流に向かっているのだが山が深いせいなのだろうか。Img_3338
Img_3339 Img_3341 




忠町、佃町(十二社神社)、武吉町(講元宅付近)

 武吉町では幟が立ち、交通整理の人が道案内をしてくれる。自転車をおいて坂の上の坂田さん宅に向かう。お詣りをし、昨年のお札を返して新しいものをいただく。楽しみは御神酒である、このために自転車で来ているようなものだ。
Img_3342Img_3343Img_3345



帰りは府道沿いのコースをたどり、先日売りに出されたYさん宅に寄ってみる。   
  かなり古い軽量鉄骨のお家だが、南向きで周りが開けていてロケーションはいいところだ、面積も充分だろう。屋根やクロスなど補修して550万円の広告が出ていたがさてどんな方が来られるだろう。同じ町内会だけに他人事とは思えない。北側は旧街道で道脇に古い祠を見つける。「×高金大明神」大正四年の銘がある。×は末という字の左の点がないものでなんと読むのか解らない。その地才ヶ坪という地名にも興味あり、なんとか調べてみたいものだ。Img_3348_2 Img_3351_3
十倉名物大銀杏も紅葉直前、末高金大明神?





【作業日誌11/8】
木小屋作製九日目(波板切り取り、側板張り)

今日のじょん:ハナが逝く。この一月から痛々しいほどの闘病生活をしてきたハナが遂に天国に逝ってしまった。かみさんはおろおろして泣き出すし、まさか私も泣いている訳にはいかないが、ハナのダンボのような耳やハナパパと一緒に嬉しそうに車に乗っていた光景を思い出すとホロリと来てしまう。じょんには何も解らないかも知れないが、お友だちが居なくなることは寂しいことだ。Img_2930


じょんのびにある直近の写真(8.27) 

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越前クラゲ 11/7

2009-11-07 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.7(土)快晴

 初夏を思わせる好天で小屋造り作業をしてると暑くて堪らない、なにしろ服装は冬の服装だから。コンコンカンカン屋根のポリカを張ってるとかみさんが見に来てうろうろしながら「椎茸ができてるで」という。この椎茸は、じょんのび村に引っ越してきたとき澤田さんから原木を頂き、昨年の4月5日に菌を打ち込んだものである。そろそろ出てくる頃なんだが、実はいつまでたっても気配がないので諦めていたところである。湿気の多い森の中に保管しておかなければならないのだが、遠いところだと猿に取られてしまう。目の届くところにと森井さんに檜林をお借りして本伏せとしておいた。この林が数本の檜で出来ているすこぶる浅い林で、日当たりがいい、椎茸としては余りいい環境でないのだ。昨夏の猛暑で菌が死んでしまったのじゃないかと思っていたのだ。ところが数ヶ月ぶりに見に行くと怖ろしい光景が広がっていた。「こりゃあ越前クラゲだ」20cm以上のバカに開いた椎茸がわんさかと出てきている。中には手頃なのがあるやもと収穫し始めるが、どれもこれもばかでかい物ばかりであっという間にバケツは満杯になる。遅蒔きながら天地返しをしながら収穫する、バケツに2杯収穫して、ふと横を見るとナメコが丁度椎茸ぐらいに育っている。カンベンシテヨ。
食えるかなあと思いつつ古そうなのは捨てて、ちょっと若そうなのを乾燥する。それでも直径は20cmあまりある。Img_3335 Img_3336

上林産越前クラゲと椎茸のようななめこ。



 結局夕食に焼いて食べるが、もともと焼き椎茸の好きでない私にはうまいのか、まずいのかよく解らない。なんとなく大味な気がするようだ。じょんのびの作物って、まるで駄目か、ばかでかいか極端なのよね。

 【作業日誌 11/7】
椎茸収穫
木小屋作製8日目(波板張り)

今日のじょん:ヘイヘイのところに行ってスタンドアップの写真を撮ってやろうと思っていたら、ヘイヘイが遊びに来た。じょんとマーブルがファイトするように大はしゃぎで遊んでいる。体格がずいぶん違うのでじょんの方が優勢だが、負けずに食らいついてくるヘイヘイの根性はさすがものだ。いずれじょんが負かされるだろう。Img_3329 Img_3334

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何鹿の匠展 11/6

2009-11-06 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.6(金)快晴

 かみさんが粒々屋さんに食事に出かけたので、これ幸いと綾部市資料館に行く。丁度何鹿の匠展をやっているのと、資料館を訪ねてみたいと思っていたのでいい機会であった。頼まれた買い物や軽トラのスタッドレスタイヤ交換などを済ませて、昼過ぎにやっと到着、資料館は天文館パオなどと一緒に由良川沿いの高台にあり、大変気持ちの良いところだ。
 入口のところに仏像が安置されている。里町の佛南寺の木像大日如来座像である。綾部市の指定文化財であり、資料を見ると平安初期の作風で平安期のものだという。こういう立派な文化財を間近にしかも独占して見られるのはなかなか機会がない。資料を購入したかったが、インターネットで同様のものが配信されていたのを思い出して写真だけにする。かえって「綾部の文化財日誌」とい うブログ風の機関誌をひらくと同じ仏像が載っており、運慶の作かともいわれているそうだ。えっ運慶って鎌倉時代の人じゃないの?なんとなく興ざめする。ともかく仏様はそんな人の評価は知ったことかとでんと座ってござっしゃる。Img_3327
 さて本題の匠の作品は綾部に在住の陶器、ガラス、トンボ玉、木工、竹細工などを紹介している。いろんな分野の方々が綾部に住んで作品を作っているんだなあと感心する他にどーやって生活してるんだろうなどと下世話な心配もしたりする。
 資料館では資料の閲覧は出来ないのだが、依頼するとあるものを見ることはできるので、何鹿郡誌を閲覧させていただく。もちろんゆっくり読むことも出来ないので、パラパラっと見るだけになる。Img_3319 Img_3321
Img_3322




【作業日誌 11/6】
イルミネーション取り付け
木小屋7日目(垂木取り付け)

今日のじょん:ヘイヘイのところに行くと、塀が高いのでじょんには何も見えない。するとこないだから後ろ足で立ち上がるようになったのだ。CMでなんかの動物が立ち上がったり、犬でも二本足で散歩するのを見たが、じょんのようにでかいのが立ち上がるとこれは見物である。是非カメラに納めたい。


 

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いきあたりばったり工法 11/5

2009-11-06 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.5(木)晴

 セルフビルドってなんやねん。自分で作れば何でもセルフビルドやんかと思いきや、どーも家を造ることがセルフビルドのようである。じゃあ、おいらみたいに小屋作ってるとか、吉右衛門みたいに濡れ縁作ったとか、かみさんが庭作り上げたのもセルフビルドでいいんじゃないの。
 てなわけでセルフビルドの最高峰のような村上さんのお宅を一年ぶりにお伺いする。いやあ、よくぞここまで作られたかという感じだが、なんといっても足かけ6年、総てが完成するまであと4年はかかりそうというその年月が素晴らしい。普通嫌になりまっせ。その根性というか情熱というか、これはちょっとやそっとのものじゃない。セルフビルドだってお金はかかる、手間賃は不要だが材料費はしっかり要るわけだ。もらい物、拾い物でまかなうにも限度がある、自分の気に入った物を探すわけだが、無尽蔵に予算があるわけでない、ここのところを自分自身のコンセプトと予算と満足度で見極める、これがセルフビルドの究極の楽しみではないだろうか。
 なーんてえらそうーな事言ったって、今私がやってるのはつまらない木小屋造りである。とにかく集めに集めた薪を野ざらしにしていては腐ってしまう。なんとか雨露をしのぐ小屋を造ってやらなければならない。予算が無いので今あるものを使って作り上げること、これが命題である。今冬頂いたヒマラヤ杉をただ燃やすだけでなく有効に利用したい、こんな思いでヒマラヤ杉を主体に使う。太い幹は床代わりとし、柱3本は直径30cmぐらいのを使う。お決まりの掘立行き当たりばったり工法だ。構想はあるが設計図はない、大体丸太を使う建物は設計図を書きようがない。根元と先の直径が違う、その上曲がってるは、枝は出ているはで、常時実寸で測りながら進めるしかないわけだ。穴を掘って柱を埋めるという原始的な方法では、柱は菱形か平行四辺形にしか立たない。梁や桟も事前に加工できれば、楽に進められるのだが、そんなことをした日にはひとつも寸法が合わなくなる。今回垂木を渡す溝を事前に加工してみたが、真っ直ぐな垂木だと絶対に合わない。ところが安物のグリーン材の垂木が乾燥して湾曲してしまい、しっかり溝に合ったりする。これが皮肉で面白い。Img_3314
Img_3315
この垂木の曲がわかるかな?柱の切り込みも本来なら真ん中にくるはずなのだが、、、、。

  吉右衛門が、真っ直ぐに切れない柱を傾斜した犬走りに立てたらぴったりとなったなーんて喜んでいた。こういうのって面白いよねえ。職人に頼んだら頭に来るところを、自分でやったら笑えてしまう。これぞセルフビルドの楽しみじゃねーかな。
Img_3278 Img_3279 Img_3285 Img_3286 Img_3291 Img_3313                                          




 【作業日誌 11/5】
木小屋2号作製6日目

今日のじょん:最近侵入犬のうんPが続いている。いつも同じうんPなので同じ犬なんだろうが、犯人は分からない。夜中のことなので、寝ずの番でもしない限り解らない。といっても近所の犬は顔見知りなので、見当はついているのだが、確証がないというところだ。昨日はいつもと違う変なもののうんPを発見、ネコよりも太く、犬よりも細い。うんPの時の足跡もあり、あなぐまかなあ?Img_3307 Img_3306

しゃがんでしたうんPと残された足跡。

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金属地名のこと(2) 11/4

2009-11-04 | 歴史・民俗

2009.11.4(水)快晴

 「引地」という地名を追って全国の「引地」の地図を探している。インターネットになって地図を見るのは楽になった、全国の小字まで載っている地図を買っていたら数十万円はかかるだろう、その上地形図や航空写真まで見ることが出来るのだ。地名の旅もずいぶん簡単になった。各地の「引地」を見ながら、その共通項を探れば地名のいわれも答えが出てくるのではないかと思われた。どこかのサイトで「引地」は金属関係地名だというのがあった、確かに鉱山の近くに「引地」はあった。「引地」があるところの自治体のホームページを探ると「引地」のいわれについて書いてあるところもあった。「河川の水が土地を浸食しているところ」ということだ。なるほど、上林の「引地」もそういうところだ。ところがこれだけでは鉱山や冶金には繋がらない。そうこうしているうちに豊田市の「引地」にたどり着き、完全に行き詰まってしまった。豊田市内に10数カ所引地があるのだ。どこの地方自治体でもまあ一ヶ所が普通である。市の東部、山間部のあらゆる谷の源流近くに「引地」は存在する。こんなにあるのならどういった場所か、地名の語源は、歴史的ないわれはといったことが明白と思われる。豊田市の郷土資料館に電話してみる、「鉱山などはありませんでしたか?陶土などの採掘はありませんでしたか?」と付け加える。しばらくして回答があり、「市史や地名辞典等調べましたが記載はありません。過去に鉱山があったということはありませんし、陶土の採掘などもありません。言えることは総て山間地にあるということです。」なんともつれない返事、がっかりする。仕方なく一つひとつ調査を進めてゆく。ここでひとつの仮定を想像する。綾部市の郷土資料館に電話して、「上林に引地という地名があるのですがそのいわれや語源はなんでしょうか?」と聞いたらどのような返事があるだろうか。きっと豊田市と同様の結果となるだろう。
 今のところ「引地」は鉱山の近辺にある、川の屈曲点あたりにあるというのが共通点である、豊田市を除いて。そして上林の引地の氏神が葛禮本神社でその祭神が金山彦命であるということが解っている。
 金属地名を探して数冊の本を読む、「古代の鉄と神々」(真弓常忠)「和鉄の文化」(井塚政義)「古代の朱」(松田寿男)「中国山地のたたら製鉄」(広島県立民俗資料館)「日本の鉱山文化」(国立科学博物館)「日本の地名」(谷川健一)などなど、ここで知った金属地名が先日中上林の金属地名で揚げたものの中に含まれている。中には私自身が考えたものもあるので、いづれ紹介したい。しかし「引地」についてはどこにも書いてないのだ。 「引地」単純な地名だけれど、奥の深い、なぞめいた地名ではある。

【作業日誌 11/4】
木小屋造り(5日目)屋根組み造り

今日のじょん:店が超暇でじょんもおとーも手持ちぶさた、このままじゃ太っちまうぜ。Img_3309

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冬支度 11/3

2009-11-03 | 日記・エッセイ・コラム

2009.11.3(火) 曇

 前線が東に去って夜は嵐、朝からは超冷え込みという予報だった。確かに朝は冷え込み、おまけに時雨れたりしているので寒く感じる。先日衣替えして衣装はすっかり冬物になっている。ただしこの地方では冬用と厳冬期用がある。厳冬期用衣料とは毛糸の靴下、オーバーズボン、ヤッケ、毛の手袋、オーバーミトン、マフラー、毛糸の帽子などである。まだそこまではいかない。
 冬支度は服装だけではない、樹木の雪囲いもせにゃならんし、なによりストーブの準備をしなければならない。薪小屋第一号はつくったが、この冬焚こうと思っている木々は野ざらしのままだ。薪小屋第二号の完成がいそがれる。出来たところで玉切り、薪割りはそれからの仕事だ。
 そして肝心のストーブの準備が出来ていない。本来はストーブの使用が終わる5月頃に煙突の掃除をし、ストーブの掃除もして保管すべきなのだが、煙突のブラシを買ったのが夏頃で、掃除は一回もしていない。煙突掃除をしたことがないので億劫になっていたのだ。ケツに火が点かなければやらないのが人情である。今朝の低温はさすがにケツに火が点いた。
 煙突掃除の手順はストーブを購入した京阪エンジニアリングさんから口頭であれこれと聞いていただけである。まあそんな複雑な仕事では無いだろうけど、ブラシの柄の長さが足りないようだと屋根に上がる必要がある。ブラシは京阪さんのショップではえらい高い値段が付いていた。こんなもんなんでも一緒やろとコメリで買うと千円余りで買えた。
Img_3292Img_3294(1) 聞いた説明はすっかり忘れたが、とりあえずストーブと煙突を繋いでいるビスをはずす。すると一重煙突の部分が持ち上がるので、接合部分に溜まったススをスプーンで掻き出す。空気取り入れ部分のススは燃焼室に落ちるようだから、落としてしまう。

(2)次に煙突の下部にゴミ袋を構えて、煙突をトントンとたたく。バラバラっとススが落ちて袋に溜まる。先程からススと表現しているが、どうも煙突の腐食したもののようだ、荒くて重量感がある。もしそうだとすると、あの怖ろしく値段の高い煙突がワンシーズンでこれだけ腐食するとしたら、一体耐用年数はどのくらいなのかと不安になる。ブリキの煙突などだと2年くらいと聞いているが、値段から言うと最低15年は持って貰いたい。望むべくもないのだろうか。
Img_3293Img_3295
(3)いよいよブラシを入れてごしごしと擦ってゆく。バラバラとススが落ちてくる。まんべんなく擦りたいが、袋の間から柄を入れている関係でなかなか難しい。柄を3本繋いだところで、最上部に突き当たった。やれやれ屋根に登らなくて済みそうだ。
(4)ワイヤブラシを抜いてストーブ外部をウェスで掃除する。ピンやノブの根元などに錆が来ている。しっかり落としてCRCで仕上げる。周辺部分も掃除して終了、ストーブ内部は灰を置いたままにして、火を入れる直前に掃除することとする。Img_3296
 昨年の初ストーブは11月22日、21日に初氷となっているので結構我慢していたようだ。かみさんは明日からでも焚くようにと言っている。そんな早く焚いていたらいくら薪があっても追いつかない。

 【作業日誌 11/3】
白菜虫取り
煙突掃除

今日のじょん:かみさんが寒いだろうと言ってじょんのセーターを買った。自分が寒いからと言ってじょんが寒いとは思わないのだが、まあいいかと思って見ていたらやたら小さい。背中の半分ぐらいしかないのだ。サイズはと思って見るとXLになっている。適応の犬の実寸サイズも書いてあるが、実際に測ってみるとじょんはかなりでかい。こういう犬の洋服ってこんなでかい犬に着せるもんじゃないみたいだ。返品するわけにもいかないので、のびのためにとっておくことにした。Img_3297


 

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金属地名のこと 11/2

2009-11-02 | 歴史・民俗

2009.11.2(月)雨

 「和鉄の文化」(2009.11.1)のところで、古代の製鉄地は未来に何も残さないので、その地域では過去に製鉄が行われてきたことなど思いもしないという意味のことを書いた。鉱山でも冶金でもいわゆる金属産業というものは多分に一過的なものであって同様の経過をたどるようだ。例えば鉱山などは鉱物が無くなればその地は廃棄されるだけであり、鉱山師はまた次の鉱山を求めて移動するか、その地に居ついて百姓をするかという結果となる。もちろん大規模な鉱山、例えば佐渡の金山とか生野の銀山、石見の銀山などは遺跡も文書も沢山残り、世界遺産に登録されたり、大観光地となったりして今日に残っている。しかし大部分の古代の鉱山は跡形もなく、口伝も伝承も残らず、そこに住む人達は過去にそのようなことがあったことなど知るよしもない。金属文化とはそのようなものらしい。しかし、私が付け加えたように「彼らが祈った神と地名にかすかにそのいにしえの文化が残っている」のではないか。上林の小字名を見てみるといわゆる金属地名と言われるものが沢山ある。いくつかの神社にも金属関係の神様が祀ってある。三国岳から弥仙山、そして由良川を越えて鬼ヶ城、烏ヶ岳、姫髪山にいたる山脈に鉱脈があることも言われている。しかし上林に住む人はほとんどそのようなことは認識がないだろうし、きっと綾部市史なんぞを紐解いてもそのような記事は出てこないのだろう。(私は読んでいないので解らないのだが、、、)
 例えば中上林の小字で金属地名と思われるものを揚げてみると、才ヶ坪、中風呂、夕船、イカ入、引地、芋谷、椿山、日置、朝日山、菅谷、入道、弓削、遊里、日置殿町、湯ノ上、ユリ向、赤谷、ユリ道、ユリ下、ニョウズ、ユリ道、赤谷、ニョウズ谷、ヒシリ、大ヒシリ、サビシロ、ヒノコヤ谷、スズバミ、遊里詰、菅坂、鍛冶屋谷、カジヤ谷(睦合、八津合、五津合、五泉町の順)Img_3225


この谷にも金属文化が息づいていたのだろうか。(浅原 中風呂)

 もちろんこれらが総て金属関係の地名に当たるとは言えないし、まだ見落としていたり、気付いていない地名もあるかも知れない。特に遊里、ユリ関連の地名は金属地名というよりは「岼」に代表されるように山間の緩やかな地形を表す地名だとするのが一般的で「丹波の話」(磯貝勇)でも遊里についてそのように述べている。しかし私は畑口川流域と上林川上流地域に異常にこの地名が多いのに少し違和感を覚えている。夕船、湯ノ上などと合わせて金属関係の地名である可能性を考えている。このことは後でまとめる予定である。その他の地名についても根拠というかいわれをいづれ発表したいと思っているが、いずれにしてもそのことが正しいか否かは判明しないことである。地名というものはそういうものである。その根拠が正しいか否かは、例えば古文書が発見されてその旨書かれたとしても、それが真に正しいかは解らないのである。それが自然科学と違うところであって、証明のしようがないというのが人文科学なのだろう。より多くの人が納得する説が正しいとするしか無いのであって、その中に専門家や研究者が混じっていればより信頼性が増すと言うだけのことである。つづく

【作業日誌 11/2】
なし

今日のじょん:おとーと一緒で雨は大嫌い、散歩に行っても少しもうんPをしないのでかみさんに叱られていた。叱られるとしばらくはしょぼんとしているが、遂にホネホネを持ったまま固まってしまった。Img_3287

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和鉄の文化 11/1

2009-11-02 | 雨読

2009.11.1(日)曇、雨

 午前中夏を思わせる高温になったかと思うと午後は雨が降りだし、明日からは冬型となって冷え込みがきついそうだ。こう寒暖の差が激しいと体調も壊してしまう。治ったかと思われた風邪も何か鼻づまりなどがすっきりせず、妙に身体がだるい。発熱は無いので新型インフルエンザのおそれは無いようだが、綾部まで侵入していると言うことで気をつけるに越したことはない。雨が降ったという訳だからではないが、一冊の本を読み終えたので報告しておこう。Img_32812
 和鉄の文化(その系譜・美・技術の魅力)井塚政義著八重岳書房、昭和58年9月発行初版である。手作りの鉄仏、芦屋釜の変遷、種子島に来た製鉄集団、伊吹《ねう》地帯の変遷などの内容で、前読の「古代の鉄と神々」同様目から鱗の新しい知識を知り得ることとなった。製鉄と言うものは現在のみならず古代においても中国山地のたたらのように特殊技術を持った者がマニュファクチャー的な生産を行っており、一般の農耕民には無縁のものと思いがちである。ところが実際には自給自足物品として生産されていたのではということである。それは砂鉄など原料の得やすさと鉄の融点の低さである。燃料としての薪は充分にあっただろうしそれは可能なことだと思う。
大陸からあるいは南方から新しい技術が移入され、奇しくも鉄砲と同じく種子島に製鉄技術が上陸しただろうという説もある。最後の伊吹ねう地帯については、製鉄の豪族息長氏の変遷についてであるが、司馬遼太郎氏の言葉を紹介してある。

「製鉄業者というのはガンのウィルス説に似ている。ウィルスはガンの細胞をつくる刺激を与えるが、ガン細胞を切り取って電子顕微鏡で見ても、もうウィルスはどこにもいない。それと同様、製鉄業者は古代も近世も、廃棄物を地上にのこすのみで、当の実体はまぼろしのように掻き消えたまま、口もきかず、伝承も残さないのである」
なんとも意味の深い言葉ではないか。私が付け加えるとしたら「残っているのは、彼らが祈った神と土地に残された地名だけである」

【作業日誌 11/1】
なし

今日のじょん:今日は吐くこともなかったが、朝ご飯は食べない。どうもこのドッグフードが気に入らないらしい。黙って容器を指さすと、口で容器ごと移動させ、数粒を小屋の中に持っていき、毛布の中にばらまくのだ。この行動はじょんの行動の中で唯一不可解な行動だとかみさんは言うのだけど、今不要な食べ物を保管しておく、土に埋めておくという本能の行動なのではないだろうか。

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